大石と堀部との対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 02:32 UTC 版)
赤穂城引き渡しという喫緊の課題が片付き、旧藩士の内江戸藩邸詰は町家の借家に、国元勢はそれぞれの伝手を頼るなどして赤穂町内および京都・伏見・大坂など上方一円に、それぞれ居を移して身辺を落ち着けると、浅野家中としての今後の身の振り方を巡って対立が発生した。おもに大石内蔵助と堀部安兵衛とを軸に慢性的な対立状態が続き、前者は上方漸進派、後者は江戸急進派と呼ばれる。 大石は、浅野内匠頭の弟・大学による御家再興を至上命題として、幕閣や近親諸藩、将軍綱吉と近いと思われる寺院などの伝手を辿って運動を行っていた。大石家は浅野家と血縁関係が近しく、代々赤穂藩に仕えていたことから、大名・浅野家が復活することを、自身の「忠義」ととらえていた。また、大石にとっても、浅野家の「人前」が立つという目的のもと、吉良家に対しても何らかの処分が下ることを希望していた。 一方、堀部は、引き続き吉良邸への討ち入りを念願し、旧藩士から同志を募っていた。堀部は父の代で浪人になってから剣豪として身を立て、高田馬場の決闘で名をはせて浅野家に召し抱えられたことから、堀部の主従意識は、浅野家代々ではなく、浅野内匠頭個人に対してのものであって、堀部にとって大学は「主君の弟」に過ぎなかった。堀部にとっての「忠義」は、内匠頭が伝来の御家を捨ててまで鬱憤を晴らそうとした、その遺志を継いで、吉良上野介を討ち果たすことにあった。 赤穂藩が廃藩になってから数カ月の間、吉良上野介および大学の処遇は明らかにならず、また上方の大石と江戸の堀部との間で書簡が交わされたが意見の一致を見ず、事態は膠着状態のまま推移した。大石の御家再興運動は好転する兆しが見えず、一方で堀部は討ち入りが成功するためには大石ら上方の旧藩士の協力が必要で、上方の旧藩士には大石が大勢での江戸下向を厳禁していたためである。当事者である大学は、事件後は閉門されて旧藩士と連絡が取れなくなっており、その意志は不明のままであった。
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