高田馬場の決闘
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/19 04:17 UTC 版)
座標: 北緯35度42分41.30秒 東経139度42分55秒 / 北緯35.7114722度 東経139.71528度
- 1 高田馬場の決闘とは
- 2 高田馬場の決闘の概要
- 3 経緯
- 4 場所
高田馬場の決闘
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 04:24 UTC 版)
1694年3月6日(元禄7年2月11日)、高田馬場(現・新宿区西早稲田)にて伊予国西条藩松平頼純の家臣が決闘。約5人死亡。後に赤穂事件に参加した堀部武庸が助太刀して名を挙げた。
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高田馬場の決闘
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 04:50 UTC 版)
義母が亡くなったので、中山安兵衛(後の堀部安兵衛)は伯父の菅野六郎左衛門を頼って江戸に出てきた。 するとある日安兵衛が喧嘩の仲裁をした事から安兵衛はすぐに江戸の有名人となり、「喧嘩安兵衛」という仇名がついた。また安兵衛はいつも飲んでいる事から「呑兵衛安兵衛」、赤鞘の大小を指している事から「赤鞘安兵衛」、葬式について呑みに行く事から「葬式安兵衛」などとも呼ばれた。 ある日の事、安兵衛の伯父の菅野六郎左衛門が、試合で村上庄左衛門、三郎右衛門の兄弟を打ち負かした所、村上兄弟から恨みを買い、決闘を申し込まれる。村上兄弟は助っ人22人を連れて決闘の場に現れ、対する菅野六郎左衛門はたった一人で決闘の場に現れた。 この事を知った安兵衛は伯父の六郎左衛門に助太刀すべく決闘の場所である高田馬場へと走っていったが、着いた時にはすでに伯父は事切れていた。 そこで安兵衛はその場にいた敵全員を斬り倒す。この高田馬場の決闘で安兵衛は江戸で名を挙げる事になった。 また決闘に助太刀する前にたすきが切れてしまった為、そばにいた女からしごきを借りてたすきにした。この女は堀部弥兵衛の娘で、これが縁となり安兵衛はこの娘と結婚。堀部家に養子になり、堀部安兵衛と名乗る事となった。 なお、高田馬場の決闘それ自身は史実であるが、ここではあくまで講談で語られている話を載せたので、ここに書いた事が史実とは限らない。
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