堀部武庸の婿入り
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/03 09:58 UTC 版)
元禄7年(1694年)、高田馬場の決闘で活躍した浪人・中山安兵衛(堀部武庸)を見込み、娘・きちと娶わせ婿養子に迎える。この養子縁組は長矩も許可し、金丸は隠居(隠居料20石)して、代わりに安兵衛が家督を継いで長矩に仕えることになった。 元禄14年(1701年)3月14日、長矩が江戸城松之大廊下で吉良義央に刃傷に及び、即日切腹、赤穂浅野家は改易となった。金丸は藩邸を引き払い馬淵一郎右衛門、本所にある越前松平家の家老・本多長員屋敷内に住居を持つ江戸常府の本多家次席留守居・忠見政常宅に仮住まいした後、両国橋の西にある矢之御蔵跡地にできた米沢町の二階建ての長屋に引っ越した。
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