藩邸とは? わかりやすく解説

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はん‐てい【藩邸】

読み方:はんてい

江戸時代諸大名江戸置いた屋敷


藩邸

読み方:ハンテイ(hantei)

江戸時代の諸藩所持した屋敷


武家屋敷

(藩邸 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/04 19:56 UTC 版)

武家屋敷(ぶけやしき)は、武家が所有した邸宅である。


  1. ^ 東京都市史研究所編 『比較考証 江戸東京古地図散歩』 新人物往来社 1999年


「武家屋敷」の続きの解説一覧

藩邸

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/21 14:14 UTC 版)

小幡藩」の記事における「藩邸」の解説

小幡藩織田家の上屋敷丸の内現在の千代田区丸の内二丁目)、下屋敷築地現在の中央区築地三丁目にあった元禄赤穂事件の際、織田家屋敷赤穂浪士避けたルート引き上げている。 小幡藩松平奥平家の上屋敷は外桜田にあったが、文久2年1862年)の忠恵の代には四谷御門内番町千代田区六番町六丁目)に移された。下屋敷千駄ヶ谷現在の渋谷区千駄ヶ谷五丁目)。

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藩邸

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/08 00:49 UTC 版)

土佐藩」の記事における「藩邸」の解説

江戸藩邸幕末には上屋敷鍛冶屋町に、中屋敷白金日比谷御門内2か所、下屋敷品川大井木挽町築地巣鴨辻町の3か所があった。京都藩邸四条通河原町に、大坂藩邸は長堀白髪町、伏見藩邸は京橋にあった

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藩邸

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/14 01:15 UTC 版)

久保田藩」の記事における「藩邸」の解説

江戸藩邸上屋敷内神田現在の千代田区内神田二丁目にあったが、天和2年1682年)に下谷移転した。旧屋敷には佐竹秀義祀る佐竹神社明治期無格社となったが のち神社合祀により稲荷神社統合、現在は佐竹稲荷神社として残っている)があった。 宝永年間当時上屋敷下谷七軒町現在の台東区台東佐竹商店街周辺)、中屋敷鳥越下屋敷深川にあったまた、梅田現在の足立区梅田六丁目)に抱屋敷持った幕末には下谷七軒町上屋敷神田佐久間町本所十間川中屋敷が、鳥越本所中之郷日暮里下屋敷があった。また、大坂布屋町大坂藩邸、京都柳馬場通四条上ルに京都藩邸を持つ。

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藩邸

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/14 07:52 UTC 版)

島原藩」の記事における「藩邸」の解説

島原藩邸中屋敷黒門1871年3月慶應義塾新錢座から移転同じく中屋敷長屋塀(写真右手前) 数寄屋橋1881年1月明治法律学校有楽町の旧島原藩上屋敷跡で開校した深溝松平家時代島原藩江戸屋敷は、上屋敷有楽町数寄屋橋交差点付近に中屋敷三田綱坂にあった上屋敷明治維新後に最後藩主松平忠和後援していた明治法律学校(1881年開校。後の明治大学)に提供され1886年神田駿河台(後の明治大学駿河台校舎)へ移転するまで同校校舎として使用された。後に同地には「明治大学発祥の地」の碑が建立されている。 一方三田にあった中屋敷政府接収された後、慶應義塾払い下げられ、後に慶應義塾大学三田キャンパスになっている

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藩邸

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/15 13:51 UTC 版)

広島藩」の記事における「藩邸」の解説

浅野家江戸藩邸上屋敷)は桜田門近くにあり(現在の総務省付近)、 『江戸図屏風』では、毛利家長州藩)、上杉家米沢藩)の西隣、井伊家彦根藩)の東隣に並び保科正之酒井忠次日比谷御門外の大名小路挟んで対角線上の反対側に描かれている。桜田門外の変松平市正(親良)邸と広島藩裏門との間で発生している。 赤坂中屋敷青山下屋敷があった。和歌山藩浅野家の時代上屋敷丸の内にあった上記移動したまた、拝領した大坂屋敷召し上げられている(広島移封の後に蔵屋敷自前調達している)。

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藩邸

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/13 08:50 UTC 版)

米沢藩」の記事における「藩邸」の解説

江戸藩邸文政年間当時、外桜田御堀通り現在の千代田区霞が関1丁目 法務省敷地内)に上屋敷麻布現在の港区六本木1丁目および麻布台1丁目)に中屋敷白金現在の港区白金2丁目 目黒通り)に下屋敷があった。また京都藩邸柳馬場通三条下ル西側構えていた。ほかに三田現在の港区三田二丁目慶應義塾大学グラウンド付近)と現在の港区一丁目)に抱屋敷蔵屋敷麻布藩邸は上杉綱憲により新築された。米沢新田藩江戸藩邸麻布港区麻布台1丁目 外務省飯倉公館 外苑東通り)にあり、麻布上杉家との呼称もこれに由来する付近麻布狸穴町には男谷信友屋敷があり道場として使用されていた。 京都藩邸一時森利真(平右衛門)が売却したが、竹俣当綱美作)が買い戻している。また、1788年天明8年)の京都火事一時焼失した

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藩邸

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/28 03:26 UTC 版)

福岡藩」の記事における「藩邸」の解説

江戸藩邸は、外桜田上屋敷があった(現在の外務省庁舎位置千代田区霞が関2丁目2番)。「桜田屋敷」と呼ばれ北側隣接する芸州浅野家の上屋敷との間に見晴らし良い坂があり、江戸霞ヶ関名所とされ歌川広重が『名所江戸百景』中の「かせき」に描いた。『江戸図屏風』では、広島藩邸の後ろ福岡藩邸が描かれ屋敷たなびく表現している。あるいは江戸末期庶民描いた泥絵(どろえ)にも記録された。 明治に入ると創設されたばかり外務省初代庁舎転用され、明治3年1870年)に銀座の仮庁舎から移転されたが、1877年明治9年2月1日焼失した最後まで残った海鼠壁の長(ながやぐら)は旧国宝に指定されながら、太平洋戦争時空襲被災し失われた。尚、現在も外務省外周当時石垣残り、藩屋敷面影伝える。巨大な鬼瓦紋瓦)は常時東京国立博物館屋外展示してある。 他に赤坂中屋敷渋谷白金下屋敷郊外には御屋敷深川蔵屋敷があった。秋月藩江戸屋敷表門は、東京よみうりランド移築し保存してある。 長崎京都大坂にも屋敷があり、そのうち中ノ島にあった黒田家蔵屋敷表門は、天王寺公園大阪市立美術館の横に移築保存されている。

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藩邸

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/26 05:43 UTC 版)

伊予吉田藩」の記事における「藩邸」の解説

上屋敷三十間堀上南八町現在の中央区銀座1丁目23)。 下屋敷古川南現在の港区白金1丁目)。

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藩邸

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/26 01:36 UTC 版)

小浜藩」の記事における「藩邸」の解説

江戸藩邸は、上屋敷昌平橋にあった下屋敷酒井氏川越藩時代矢来町にあり、その後小浜藩になった元禄年間に、改易となった赤穂藩鉄砲洲にあった藩邸を新たに与えられた。しかし浪人町人襲撃により建物破損したり、放火による焼失があったので、願い出て矢来町に戻る。安政4年1857年)には隣接する大和郡山藩邸が他へ移動したので、同地加えられている。

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藩邸

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長州藩」の記事における「藩邸」の解説

江戸藩邸日比谷御門外に上屋敷中屋敷青山に、下屋敷沢と渋谷にあったその後桜田中屋敷麻布下屋敷を移す。また京都藩邸河原町大阪藩邸は田部に、伏見藩邸は京橋長崎藩邸は新丁にあった。後に江戸幕府没収される上屋敷は現在、日比谷公園一部。左に上杉家米沢藩)、右に伊達家仙台藩の上屋敷。『江戸図屏風』では伊達上杉両家比べ規模はほぼ同じだが、御成御殿御成門もなく質素に描かれている。

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藩邸

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 04:13 UTC 版)

赤穂藩」の記事における「藩邸」の解説

池田家赤穂藩の藩邸(上屋敷)は愛宕下現在の新橋)。 浅野家赤穂藩の藩邸(上屋敷)は鉄砲洲現在の明石町)。対岸石川島人足寄場佃島があった。1701年元禄14年3月17日幕府収公され、その後火災続いた為(明治創立聖ルカ基督教看護学校被災者供養松並木)がある)、大名屋敷としては使用され町人地および農民となった(牛の牧場もあり、芥川龍之介近郊生まれている)。 永井家赤穂藩の藩邸(上屋敷)は北神田(現在の浜町)。転出後の岩槻藩加納藩でも同地使用されている。 森家赤穂藩の藩邸(上屋敷)は現在の浜松町)。対岸天領である韮山同心鍛錬場

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藩邸

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 14:45 UTC 版)

弘前藩」の記事における「藩邸」の解説

弘前藩の藩邸(上屋敷)は本所二ツ目現在の墨田区三丁目北斎通り)。地下鉄両国駅方向に進むと「北斎美術館」がある。 中屋敷は向柳原現在の台東区鳥越一丁目にあったが、文政10年(1827)閏(うるう)6月戸越現在の品川区戸越一丁目)に移された。。敷地は約六千坪。 下屋敷日本橋現在の中央区日本橋浜町二丁目)。今は浜町公園となっており、公園敷地内にはほかに一橋徳川家牧野家などの屋敷があった。

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藩邸

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/22 02:07 UTC 版)

新発田藩」の記事における「藩邸」の解説

江戸藩邸のうち上屋敷幸橋外(現在の港区新橋二丁目)、中屋敷木挽町現在の中央区銀座七丁目)、下屋敷本所三つ目現在の墨田区菊川二丁目にあった

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藩邸

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/08 08:45 UTC 版)

喜連川藩」の記事における「藩邸」の解説

喜連川藩上述のように参勤交代義務免除されていたため、幕府から江戸屋敷与えられなかったが、年始参府時などの利便性から元禄年間自前上野不忍池近く下谷池之端江戸屋敷購入した。他の藩と違って藩主妻子住まわせる必要などもなく、また規模小さなであったため、江戸屋敷詰めた藩士は3名程度であった

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藩邸

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 02:56 UTC 版)

長府藩」の記事における「藩邸」の解説

江戸藩邸では麻生日ヶ窪に上屋敷白金早道場下屋敷があり、京都藩邸三条通下立油小路に、大阪藩邸は中ノ島にあった江戸上屋敷の跡は現在六本木ヒルズ毛利庭園となっている。

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藩邸

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/24 01:40 UTC 版)

高畠藩」の記事における「藩邸」の解説

上屋敷丸の内現在の千代田区丸の内二丁目)、下屋敷築地現在の中央区築地三丁目にあった移封前の小幡藩・のちの天童藩織田氏も同じ。元禄赤穂事件の際、織田家屋敷赤穂浪士避けたルート引き上げている。

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