武家屋敷
藩邸
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小幡藩織田家の上屋敷は丸の内(現在の千代田区丸の内二丁目)、下屋敷は築地(現在の中央区築地三丁目)にあった。元禄赤穂事件の際、織田家の屋敷を赤穂浪士は避けたルートで引き上げている。 小幡藩松平(奥平家)の上屋敷は外桜田にあったが、文久2年(1862年)の忠恵の代には四谷御門内番町(千代田区六番町六丁目)に移された。下屋敷は千駄ヶ谷(現在の渋谷区千駄ヶ谷五丁目)。
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藩邸
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江戸藩邸は幕末には上屋敷は鍛冶屋町に、中屋敷は白金と日比谷御門内2か所、下屋敷は品川大井、木挽町築地、巣鴨辻町の3か所があった。京都藩邸は四条通河原町に、大坂藩邸は長堀白髪町、伏見藩邸は京橋にあった。
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藩邸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/14 01:15 UTC 版)
江戸藩邸は上屋敷が内神田(現在の千代田区内神田二丁目)にあったが、天和2年(1682年)に下谷に移転した。旧屋敷には佐竹秀義を祀る佐竹神社(明治期に無格社となったが のち神社合祀により稲荷神社と統合、現在は佐竹稲荷神社として残っている)があった。 宝永年間当時は上屋敷が下谷七軒町(現在の台東区台東、佐竹商店街周辺)、中屋敷が鳥越、下屋敷が深川にあった。また、梅田(現在の足立区梅田六丁目)に抱屋敷を持った。 幕末には下谷七軒町に上屋敷、神田佐久間町と本所十間川に中屋敷が、鳥越、本所中之郷、日暮里に下屋敷があった。また、大坂布屋町に大坂藩邸、京都柳馬場通四条上ルに京都藩邸を持つ。
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藩邸
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旧島原藩邸中屋敷黒門1871年3月、慶應義塾が芝新錢座から移転。 同じく中屋敷の長屋塀(写真右手前) 数寄屋橋門1881年1月、明治法律学校は有楽町の旧島原藩上屋敷跡で開校した。 深溝松平家時代の島原藩の江戸屋敷は、上屋敷が有楽町・数寄屋橋交差点付近に、中屋敷が三田の綱坂にあった。 上屋敷は明治維新後に最後の藩主松平忠和が後援していた明治法律学校(1881年開校。後の明治大学)に提供され、1886年に神田駿河台(後の明治大学駿河台校舎)へ移転するまで同校の校舎として使用された。後に同地には「明治大学発祥の地」の碑が建立されている。 一方、三田にあった中屋敷は政府に接収された後、慶應義塾に払い下げられ、後に慶應義塾大学の三田キャンパスになっている。
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藩邸
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浅野家の江戸藩邸(上屋敷)は桜田門近くにあり(現在の総務省付近)、 『江戸図屏風』では、毛利家(長州藩)、上杉家(米沢藩)の西隣、井伊家(彦根藩)の東隣に並び、保科正之、酒井忠次と日比谷御門外の大名小路を挟んで対角線上の反対側に描かれている。桜田門外の変は松平市正(親良)邸と広島藩邸裏門との間で発生している。 赤坂に中屋敷、青山に下屋敷があった。和歌山藩浅野家の時代、上屋敷は丸の内にあったが上記に移動した。また、拝領した大坂屋敷は召し上げられている(広島移封の後に蔵屋敷を自前で調達している)。
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藩邸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/13 08:50 UTC 版)
江戸藩邸は文政年間当時、外桜田御堀通り(現在の千代田区霞が関1丁目 法務省敷地内)に上屋敷、麻布(現在の港区六本木1丁目および麻布台1丁目)に中屋敷、芝白金(現在の港区芝白金2丁目 目黒通り)に下屋敷があった。また京都藩邸は柳馬場通三条下ル西側に構えていた。ほかに三田(現在の港区三田二丁目、慶應義塾大学グラウンド付近)と芝(現在の港区芝一丁目)に抱屋敷と蔵屋敷。麻布藩邸は上杉綱憲により新築された。米沢新田藩の江戸藩邸は麻布(港区麻布台1丁目 外務省飯倉公館 外苑東通り)にあり、麻布上杉家との呼称もこれに由来する。付近の麻布狸穴町には男谷信友の屋敷があり道場として使用されていた。 京都藩邸は一時、森利真(平右衛門)が売却したが、竹俣当綱(美作)が買い戻している。また、1788年(天明8年)の京都の火事で一時焼失した。
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藩邸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/28 03:26 UTC 版)
江戸藩邸は、外桜田に上屋敷があった(現在の外務省庁舎の位置、千代田区霞が関2丁目2番)。「桜田屋敷」と呼ばれ、北側に隣接する芸州浅野家の上屋敷との間に見晴らしの良い坂があり、江戸霞ヶ関の名所とされ歌川広重が『名所江戸百景』中の「霞かせき」に描いた。『江戸図屏風』では、広島藩邸の後ろに福岡藩邸が描かれ、屋敷にたなびく雲で霞を表現している。あるいは江戸末期に庶民が描いた泥絵(どろえ)にも記録された。 明治に入ると創設されたばかりの外務省初代庁舎に転用され、明治3年(1870年)に銀座の仮庁舎から移転されたが、1877年(明治9年)2月1日に焼失した。最後まで残った海鼠壁の長櫓(ながやぐら)は旧国宝に指定されながら、太平洋戦争時の空襲で被災し失われた。尚、現在も外務省外周に当時の石垣が残り、藩屋敷の面影を伝える。巨大な鬼瓦(雲紋瓦)は常時、東京国立博物館に屋外展示してある。 他に赤坂に中屋敷、渋谷と白金に下屋敷、郊外には御鷹屋敷、深川に蔵屋敷があった。秋月藩江戸屋敷の表門は、東京よみうりランドに移築して保存してある。 長崎、京都、大坂にも屋敷があり、そのうち中ノ島にあった黒田家蔵屋敷の表門は、天王寺公園内大阪市立美術館の横に移築保存されている。
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藩邸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/26 05:43 UTC 版)
上屋敷は三十間堀上南八町(現在の中央区銀座1丁目23)。 下屋敷は古川南(現在の港区白金1丁目)。
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藩邸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/26 01:36 UTC 版)
江戸藩邸は、上屋敷が昌平橋にあった。 下屋敷は酒井氏が川越藩主時代に矢来町にあり、その後で小浜藩主になった。元禄年間に、改易となった赤穂藩の鉄砲洲にあった藩邸を新たに与えられた。しかし浪人や町人の襲撃により建物が破損したり、放火による焼失があったので、願い出て矢来町に戻る。安政4年(1857年)には隣接する大和郡山藩邸が他へ移動したので、同地を加えられている。
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藩邸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/04 10:00 UTC 版)
江戸藩邸は日比谷御門外に上屋敷、中屋敷は青山に、下屋敷は鰻沢と渋谷にあった。その後外桜田に中屋敷、麻布に下屋敷を移す。また京都藩邸は河原町、大阪藩邸は田部屋橋に、伏見藩邸は京橋、長崎藩邸は新丁にあった。後に江戸幕府に没収される。 上屋敷は現在、日比谷公園の一部。左に上杉家(米沢藩)、右に伊達家(仙台藩)の上屋敷。『江戸図屏風』では伊達・上杉両家と比べ規模はほぼ同じだが、御成御殿や御成門もなく質素に描かれている。
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藩邸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 04:13 UTC 版)
池田家赤穂藩の藩邸(上屋敷)は愛宕下(現在の新橋)。 浅野家赤穂藩の藩邸(上屋敷)は鉄砲洲(現在の明石町)。対岸に石川島の人足寄場と佃島があった。1701年(元禄14年)3月17日に幕府に収公され、その後は火災が続いた為(明治に創立の聖ルカ基督教看護学校に被災者の供養樹(松並木)がある)、大名屋敷としては使用されず町人地および農民地となった(牛の牧場もあり、芥川龍之介も近郊で生まれている)。 永井家赤穂藩の藩邸(上屋敷)は北神田(現在の浜町)。転出後の岩槻藩や加納藩でも同地が使用されている。 森家赤穂藩の藩邸(上屋敷)は芝(現在の浜松町)。対岸に天領である韮山同心の鍛錬場。
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藩邸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 14:45 UTC 版)
弘前藩の藩邸(上屋敷)は本所二ツ目(現在の墨田区三丁目北斎通り)。地下鉄両国駅方向に進むと「北斎美術館」がある。 中屋敷は向柳原(現在の台東区鳥越一丁目)にあったが、文政10年(1827)閏(うるう)6月に戸越(現在の品川区戸越一丁目)に移された。。敷地は約六千坪。 下屋敷は日本橋(現在の中央区日本橋浜町二丁目)。今は浜町公園となっており、公園の敷地内にはほかに一橋徳川家、牧野家などの屋敷があった。
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藩邸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/22 02:07 UTC 版)
江戸藩邸のうち上屋敷は幸橋外(現在の港区新橋二丁目)、中屋敷は木挽町(現在の中央区銀座七丁目)、下屋敷は本所三つ目(現在の墨田区菊川二丁目)にあった。
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藩邸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/08 08:45 UTC 版)
喜連川藩は上述のように参勤交代の義務を免除されていたため、幕府から江戸屋敷を与えられなかったが、年始の参府時などの利便性から元禄年間に自前で上野・不忍池の近くの下谷池之端に江戸屋敷を購入した。他の藩と違って藩主の妻子を住まわせる必要などもなく、また規模の小さな藩であったため、江戸屋敷に詰めた藩士は3名程度であった。
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藩邸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 02:56 UTC 版)
江戸藩邸では麻生日ヶ窪に上屋敷、白金早道場に下屋敷があり、京都藩邸は三条通下立売油小路に、大阪藩邸は中ノ島にあった。江戸上屋敷の跡は現在六本木ヒルズ(毛利庭園)となっている。
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藩邸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/24 01:40 UTC 版)
上屋敷は丸の内(現在の千代田区丸の内二丁目)、下屋敷は築地(現在の中央区築地三丁目)にあった。 移封前の小幡藩・のちの天童藩織田氏も同じ。元禄赤穂事件の際、織田家の屋敷を赤穂浪士は避けたルートで引き上げている。
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