奥平家とは? わかりやすく解説

奥平家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/10 01:08 UTC 版)

風の市兵衛シリーズの登場人物」の記事における「奥平家」の解説

奥平 純明(おくだいら すみあき) 武蔵国1万3千石の元大名で、今は嫡男家督譲って大殿呼ばれ駒込にある下屋敷側室お露2人の子と共に隠居している。 現役時代は、老中として松平定信助けて寛政の改革行なったが、改革の失敗により享和3年1803年老中職を辞したその後蝦夷地ロシア人による狼藉頻発するうになると、文化3年1806年)に将軍家斉の命により老中職に復帰。そして、ロシアとの関係改善にめどが付いた文化14年1817年)に辞職して隠居した1度目老中時代ロシアとの交易蝦夷地防御狙った蝦夷地開港目指した。そして、東蝦夷地幕府直轄にする政策行ない開拓のために多く入植者送り込んだ。しかし、見通し甘さのため多く死者出して開拓事業頓挫する。宮島泰之進西洋銃で殺されたことを知った純明は、入植者生き残り自分の命も求めるだろうと悟りお露母子を守るための警護役を求め市兵衛雇い入れた。そして、純明の命よりお露母子を守る方を優先するよう市兵衞命じた安宅一統には2度渡って襲撃された。1度目は斬られて左腕が不自由になり、2度目安宅八王子同心刺されてしまう。即死免れたが、治療空しく1月後に屋敷で息を引き取るお露(おつゆ) 10年ほど前、まだ当主だった純明が迎えた側室で、現在1男1女の母。ロシア人士官の父と和人の母との間に生まれた故郷にあるアムール川思わせる青い瞳美女3歳で母を亡くすと、祖父と共に厚岸移り住んだ10歳時にその祖父亡くなり祖父盟友だった雁右衛門引き取られその後江戸移り住んだ。そして、18歳になった時、雁右衛門の妻となったその後抜け荷嫌疑かけられた雁右衛門は、お露累が及ぶのを恐れて純明の屋敷奥女中として置いてもらうことにした。しかし、お露江戸追放となった右衛門の後を追わず、純明の側室になった。 純明の命を狙う賊が西洋銃を使っていることを知ると、背後に雁右衛門がいることを感じ取り市兵衞彼の元に遣わして父親息子を殺す悲劇止めさせようとした。 純明の死後落髪し、2人の子と共に国元にある奥平家菩提寺一隅の庵に住むことになった悠之進(ゆうのしん) お露の子11歳。純明と初めての野駆けに出かけた際、安宅一統襲撃を受ける。市兵衞活躍悠之進守られたが、純明は傷を受けてしまう。その父を自分の馬に乗せて屋敷移送した。 実はお露が純明の奥女中となってかくまわれた際、すでに身ごもっていた雁右衛門の子である。雁右衛門はそれを知らなかったが、純明は事実知った上で自分の子として養育することをお露約束したお露生まれてくる子を守るため、雁右衛門別れて純明の側室になることを決意する美帆(みほ) お露の子4歳父親は純明である。 小松 雄之助(こまつ ゆうのすけ) 純明近習御年寄下屋敷責任者だが気さくな人柄十条での襲撃重傷負い回復後御年寄職と江戸勤番解かれて、桑野・山と共に国元戻った桑野 仁蔵(くわの じんぞう下屋敷足軽山谷と共に市兵衞あれこれ良くしてくれる。十条での襲撃重傷負った回復後江戸勤番解かれ国元戻った山谷 太助(やまたに たすけ) 足軽小松桑野とは幼馴染みで、共に40年近く明に仕えている。十条での襲撃重傷負った回復後江戸勤番解かれ国元戻った小木曾 考左衛門(おぎそ こうざえもん) 下屋敷物頭20代年配大らかな者の多い下屋敷男性陣の中で、唯一謹厳十条での襲撃重傷負った岸辺 善徳(きしべ ぜんとく料理方の頭。52,3才。下地勝った市兵衛のことが下屋敷内で評判になっている語った橘 京之助たちばな きょうのすけ) 純明近習小姓50代十条での襲撃で、もう一人小姓と共に命を奪われた。 牧野(まきの) 下屋敷奥女中頭。小松の他、お露が奥平家に来ることになった事情知っている1人広川(ひろかわ) 下屋敷奥女中十条での襲撃の際、市兵衛に斬られた大竹にとどめを刺した松代(まつよ) 下屋敷奥女中美帆世話係篠原 千岳しのはら せんがく剣術指南役お露らの警護役を選ぶ御前試合行司役を務めた新庄 弥平太しんじょう やへいた) 上屋敷番方20代後半御前試合で、市兵衛相手務めた。よく稽古積み膂力もあったが、実戦不足からか踏み込み荒く負け方稽古足りないため市兵衛の敵ではなく胸元突き入れられてしまう。市兵衛寸止めしたため切っ先は体に触れなかったが、篠原見抜いて市兵衛の勝ちとした。 野駆け中に大殿一行襲撃され事件を受け、上屋敷から警護のために下屋敷異動十条での襲撃安宅斬殺された。 下地 源吾左衛門(しもじ げんござえもん) 上屋敷番頭30代半ば過ぎ。藩随一遣い手と言われる御前試合で、新庄次に市兵衛対戦した市兵衛木刀破壊され敗れた新庄同様下屋敷異動したが、十条での襲撃安宅に額を撃ち抜かれ死亡

※この「奥平家」の解説は、「風の市兵衛シリーズの登場人物」の解説の一部です。
「奥平家」を含む「風の市兵衛シリーズの登場人物」の記事については、「風の市兵衛シリーズの登場人物」の概要を参照ください。


奥平家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/01 05:23 UTC 版)

奥平氏」の記事における「奥平家」の解説

三河山間部の小豪族に過ぎなかった奥平氏が陽の目を浴びようになったのは奥平定能(貞能)の代である元亀年間1570年 - 1573年)からである。天正3年1575年5月長篠の戦い家運開いた定能の長男奥平信昌(貞昌)は、徳川家康長女亀姫の婿に認められる亀姫との間には4男1女が生まれるが、早世した1子を除き分家を「徳川家御連枝」として興すことを許されるなど、信昌の子たちはいずれ家康外孫として厚遇された。そのため信昌は家康女婿として上野国甘楽郡小幡宮崎)3万石領し関ヶ原の戦い以降美濃国加納10万石を領した江戸時代には大名となり、下野国宇都宮10万石を領した。後に、豊前国中津10万石に移領し廃藩時まで存続した。維新後華族列し華族令発布後には伯爵叙される。

※この「奥平家」の解説は、「奥平氏」の解説の一部です。
「奥平家」を含む「奥平氏」の記事については、「奥平氏」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「奥平家」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「奥平家」の関連用語

奥平家のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



奥平家のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの風の市兵衛シリーズの登場人物 (改訂履歴)、奥平氏 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS