奥平家
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「風の市兵衛シリーズの登場人物」の記事における「奥平家」の解説
奥平 純明(おくだいら すみあき) 武蔵国1万3千石の元大名で、今は嫡男に家督を譲って大殿と呼ばれ、駒込にある下屋敷に側室お露と2人の子と共に隠居している。 現役時代は、老中として松平定信を助けて寛政の改革を行なったが、改革の失敗により享和3年(1803年)老中職を辞した。その後、蝦夷地でロシア人による狼藉が頻発するようになると、文化3年(1806年)に将軍家斉の命により老中職に復帰。そして、ロシアとの関係改善にめどが付いた文化14年(1817年)に辞職して隠居した。 1度目の老中時代、ロシアとの交易と蝦夷地防御を狙った蝦夷地開港を目指した。そして、東蝦夷地を幕府直轄にする政策を行ない、開拓のために多くの入植者を送り込んだ。しかし、見通しの甘さのため多くの死者を出して開拓事業は頓挫する。宮島泰之進が西洋銃で殺されたことを知った純明は、入植者の生き残りが自分の命も求めるだろうと悟り、お露母子を守るための警護役を求め、市兵衛を雇い入れた。そして、純明の命よりお露母子を守る方を優先するよう市兵衞に命じた。 安宅一統には2度に渡って襲撃された。1度目は斬られて左腕が不自由になり、2度目は安宅に八王子同心槍で刺されてしまう。即死は免れたが、治療も空しく1月後に屋敷で息を引き取る。 お露(おつゆ) 10年ほど前、まだ当主だった純明が迎えた側室で、現在1男1女の母。ロシア人士官の父と和人の母との間に生まれた、故郷にあるアムール川を思わせる青い瞳の美女。 3歳で母を亡くすと、祖父と共に厚岸に移り住んだ。10歳の時にその祖父も亡くなり、祖父の盟友だった雁右衛門に引き取られ、その後は江戸に移り住んだ。そして、18歳になった時、雁右衛門の妻となった。その後、抜け荷の嫌疑をかけられた雁右衛門は、お露に累が及ぶのを恐れて純明の屋敷に奥女中として置いてもらうことにした。しかし、お露は江戸追放となった雁右衛門の後を追わず、純明の側室になった。 純明の命を狙う賊が西洋銃を使っていることを知ると、背後に雁右衛門がいることを感じ取り、市兵衞を彼の元に遣わして父親が息子を殺す悲劇を止めさせようとした。 純明の死後は落髪し、2人の子と共に国元にある奥平家菩提寺一隅の庵に住むことになった。 悠之進(ゆうのしん) お露の子。11歳。純明と初めての野駆けに出かけた際、安宅一統の襲撃を受ける。市兵衞の活躍で悠之進は守られたが、純明は傷を受けてしまう。その父を自分の馬に乗せて屋敷に移送した。 実はお露が純明の奥女中となってかくまわれた際、すでに身ごもっていた雁右衛門の子である。雁右衛門はそれを知らなかったが、純明は事実を知った上で、自分の子として養育することをお露に約束した。お露は生まれてくる子を守るため、雁右衛門と別れて純明の側室になることを決意する。 美帆(みほ) お露の子。4歳。父親は純明である。 小松 雄之助(こまつ ゆうのすけ) 純明近習の御年寄。下屋敷の責任者だが気さくな人柄。十条村での襲撃で重傷を負い、回復後は御年寄職と江戸勤番を解かれて、桑野・山谷と共に国元に戻った。 桑野 仁蔵(くわの じんぞう) 下屋敷足軽。山谷と共に市兵衞にあれこれと良くしてくれる。十条村での襲撃で重傷を負った。回復後は江戸勤番を解かれて国元に戻った。 山谷 太助(やまたに たすけ) 足軽。小松や桑野とは幼馴染みで、共に40年近く純明に仕えている。十条村での襲撃で重傷を負った。回復後は江戸勤番を解かれて国元に戻った。 小木曾 考左衛門(おぎそ こうざえもん) 下屋敷物頭。20代。年配で大らかな者の多い下屋敷の男性陣の中で、唯一謹厳。十条村での襲撃で重傷を負った。 岸辺 善徳(きしべ ぜんとく) 料理方の頭。52,3才。下地に勝った市兵衛のことが下屋敷内で評判になっていると語った。 橘 京之助(たちばな きょうのすけ) 純明近習の小姓。50代。十条村での襲撃で、もう一人の小姓と共に命を奪われた。 牧野(まきの) 下屋敷奥女中頭。小松の他、お露が奥平家に来ることになった事情を知っている1人。 広川(ひろかわ) 下屋敷奥女中。十条村での襲撃の際、市兵衛に斬られた大竹にとどめを刺した。 松代(まつよ) 下屋敷奥女中。美帆の世話係。 篠原 千岳(しのはら せんがく) 剣術指南役。お露らの警護役を選ぶ御前試合で行司役を務めた。 新庄 弥平太(しんじょう やへいた) 上屋敷番方。20代後半。御前試合で、市兵衛の相手を務めた。よく稽古を積み膂力もあったが、実戦不足からか踏み込みが荒く、負け方の稽古が足りないため市兵衛の敵ではなく、胸元に突きを入れられてしまう。市兵衛が寸止めしたため切っ先は体に触れなかったが、篠原が見抜いて市兵衛の勝ちとした。 野駆け中に大殿一行が襲撃された事件を受け、上屋敷から警護のために下屋敷に異動。十条村での襲撃で安宅に斬殺された。 下地 源吾左衛門(しもじ げんござえもん) 上屋敷番頭。30代半ば過ぎ。藩随一の遣い手と言われる。御前試合で、新庄の次に市兵衛が対戦した。市兵衛に木刀を破壊されて敗れた。 新庄同様下屋敷に異動したが、十条村での襲撃で安宅に額を撃ち抜かれて死亡。
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奥平家
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三河山間部の小豪族に過ぎなかった奥平氏が陽の目を浴びるようになったのは奥平定能(貞能)の代である元亀年間(1570年 - 1573年)からである。天正3年(1575年)5月の長篠の戦いで家運を開いた定能の長男奥平信昌(貞昌)は、徳川家康の長女・亀姫の婿に認められる。亀姫との間には4男1女が生まれるが、早世した1子を除き、分家を「徳川家御連枝」として興すことを許されるなど、信昌の子たちはいずれも家康の外孫として厚遇された。そのため信昌は家康の女婿として上野国甘楽郡小幡(宮崎)3万石を領し、関ヶ原の戦い以降は美濃国加納10万石を領した。江戸時代には大名となり、下野国宇都宮10万石を領した。後に、豊前国中津10万石に移領し、廃藩時まで存続した。維新後華族に列し、華族令発布後には伯爵に叙される。
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