長篠ノ戦
ながしの‐の‐たたかい〔‐たたかひ〕【長篠の戦い】
長篠の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/14 01:37 UTC 版)
長篠の戦い(ながしののたたかい、長篠の合戦・長篠合戦とも)は、天正3年5月21日(当時のユリウス暦で1575年6月29日。現在のグレゴリオ暦に換算すると1575年7月9日)、三河国長篠城(現・愛知県新城市長篠)をめぐり、3万8千人の織田信長・徳川家康連合軍と、1万5千人の武田勝頼の軍勢が戦った合戦である。
注釈
- ^ 織田3万+徳川2千以上[1]、合計で、7万2千[2]、10万余[3]など。
- ^ 1万1千[1]、2万余[4]など。
- ^ 討死約1万+川で溺死した者と逃げて山中で餓死した者限り無し[1]、数千騎[5]、千余[6]、1万3千[2]など。
- ^ なお、従来の西上作戦とは、元亀2年における三河・遠江への大規模な侵攻とされていたが、近年では文書の再検討により三河・遠江侵攻に関する文書の年代比定は“元亀2年(1571年)から天正3年(1575年)”に修正され、一連の経緯は長篠の戦いに関するものである可能性が考えられている[7][8][9][10]。また、足利義昭の挙兵についても、信玄は義昭の要請を受けて上洛したのではなく、むしろ信玄が三方ヶ原の戦いで勝利したのを機に義昭が信長との関係に見切りをつけて信玄と通じて挙兵したとする新説もある[11]。
- ^ ただし、貞能の父である奥平貞勝はこれに反対して離反、長篠の戦いにも武田方で参戦後、武田氏滅亡後まで武田軍の一員として息子や孫と戦っている[12]。
- ^ 信長公記にはこの逸話は記されていない。また、甫庵信長記のうち時代が古いものにはこの話はなく、江戸時代になってから徳川家臣の要求で加筆されたという[16]。
- ^ 「志多羅の郷は、一段地形くぼき所に候。敵がたへ見えざる様に、段貼に御人数三万ばかり立て置かる。」[17]
- ^ 海外における野戦築城の中で同様に鉄砲を用いた例として、これ以前としては1503年の第一次イタリア戦役や、1522年の第二次イタリア戦役が挙げられる。
- ^ ちなみに、「勝頼が川を越えずに鳶の巣山に布陣していたら、織田方はどうしようもなかった」という記述が存在する[1]。
- ^ 画像最右の集落の字名は「信玄」、その左の水田を流れる小規模河川が連吾川、更に左手尾根を超えた画像中央の水田を流れるのが大宮川である。このように設楽原とは言っても丘陵と谷の連なる起伏に富んだ地形である。
- ^ 高野山過去帳類においては市川昌房、三枝昌貞、真田信綱・昌輝、津金美濃守、祢津月直、馬場玄蕃、山県源左衛門尉、山県昌景、山県昌次などの戦死者が確認される。
- ^ 文書上では同年6月2日には甲府への帰陣が確認される[20]。高坂昌信はこの時勝頼に敗軍の将を感じさせないために立派な武具に着換えさせたという。
- ^ 近年は高野山成慶院所蔵の『甲斐国過去帳』や『武田家過去帳』などが紹介され、合戦のあった天正3年に多くの将士が死去していることが確認されている。
- ^ 越相同盟に対抗するために結ばれた武田信玄・勝頼と里見義弘の所謂「甲房同盟」は従来の説では甲相同盟復活と共に解消されたと思われてきたが、その後の研究で甲相同盟復活直後に直ちに解消されたわけではないことが判明しており、長篠の戦いでの敗戦をきっかけにした関東への影響力低下に伴って解消に至ったとする説が出されている[21]。
- ^ 上杉景虎は相模国主北条氏政の弟。武田氏と北条氏の甲相同盟は永禄11年(1568年)の武田氏の今川領国侵攻に際して破綻し、北条氏は上杉氏と越相同盟を結び武田氏に対抗し、景虎はその際に養子として上杉家に出されていた。その後、甲相同盟が回復し北条氏と上杉氏の関係は悪化していたが、景虎は上杉家に留まり続けていた。
- ^ 近年において、元亀年間の段階で「信昌」の名乗りが用いられている可能性が指摘され、奥平信昌は織田信長ではなく武田晴信(信玄)の偏諱を与えられたとする説がある[12]。
- ^ 甲陽軍鑑は江戸時代の元和年間に原本が成立した軍学書で、信玄・勝頼期の事績が記されている。内容は年紀の誤りや文書上から否定される、あるいは確認されない事実を数多く含むため慎重視されているが、信玄・勝頼期の歴史的背景を反映している可能性も指摘されている。
- ^ 信玄後期の家臣団編成を記した「武田法性院信玄公御代惣人数之事」の記事から[26]。
- ^ 左端に描かれている鹿角の兜の武者は本多忠勝。その側に幡旗の一部を持つのが原田弥之助(忠勝家臣)。馬防柵の前に並ぶのは徳川勢で、上から騎乗の武将は内藤信成、大久保忠世、大久保忠佐。原田と忠佐の間に描かれた鉢巻姿の武者が成瀬正一である。右端の首のない武田武者は、銃弾に倒れた山県昌景で、家臣志村又右衛門が首級を奪われまいと走り去る光景である。画面中央の溝は連吾川で、汚れのようなモヤは鉄砲の硝煙を表現したもの。
- ^ 小牧長久手の合戦のみを写した「小牧長久手合戦図屏風」(六曲一隻、三河武士のやかた家康館蔵、江戸後期)と「小牧長久手合戦図屏風」(六帖、東京国立博物館、製作時期不明)の2点を含めた12点の所在一覧表がある[32]。列挙すると、「長篠合戦図」(六曲一隻、名古屋市博物館蔵、江戸初期)、「長篠・小牧長久手合戦図屏風」(六曲一双、犬山城白帝文庫蔵、江戸前期)、「長篠・小牧長久手合戦図屏風」(六曲一双、犬山城白帝文庫蔵、江戸後期。前作の副本)、「長篠・小牧長久手合戦図屏風」(六曲一双、松浦史料博物館蔵、文政12年(1829年)。成瀬本の写本)、「長篠・小牧長久手合戦図屏風」(六幅+八幅、東京国立博物館蔵、江戸後期)、「長篠合戦図」(六幅、奥平神社蔵(中津城保管)、江戸後期)、「長篠・小牧長久手合戦図屏風」(六曲一双、個人蔵、江戸後期。成瀬本の写本)、「長篠・小牧長久手合戦図屏風」(六曲一双、大阪城天守閣蔵、江戸後期)、「長篠・小牧長久手合戦図屏風」(六曲一双、徳川美術館蔵、江戸後期)、「長篠合戦図屏風」(六曲一双、徳川美術館蔵、江戸後期)。
- ^ この作品のラストシーンに長篠の戦いの場面が登場する。
出典
- ^ a b c d 『信長公記』
- ^ a b c 『徳川実紀』
- ^ 『三河物語』
- ^ 『徳川実紀』および『三河物語』
- ^ 『兼見卿記』
- ^ 『多聞院日記』
- ^ 鴨川達夫『武田信玄と勝頼』(岩波新書、2007年)
- ^ 柴裕之「戦国大名武田氏の遠江・三河侵攻再考」(『武田氏研究』第37号、2007年)
- ^ 柴裕之「長篠合戦の政治背景」(武田氏研究会編『武田氏年表 信虎・信玄・勝頼』高志書院、2010年)
- ^ a b c 柴裕之「長篠合戦再考-その政治的背景と展開-」( 『織豊期研究』12号、2010年)
- ^ 柴裕之、2016、「足利義昭政権と武田信玄 : 元亀争乱の展開再考」、『日本歴史』817号、吉川弘文館、2016年6月
- ^ a b 柴裕之「三河国衆奥平氏の動向と態様」『戦国・織豊期大名徳川氏の領国支配』岩田書院、2014年
- ^ 勝頼期の外交については、丸島和洋「武田勝頼の外交政策」(柴辻俊六・平山優 編集『武田勝頼のすべて』新人物往来社、2007年)
- ^ 柴裕之『戦国・織豊期大名徳川氏の領国支配』(岩田書院、2014年)
- ^ 『甫庵信長記』・『三河物語』
- ^ 平山優『検証・長篠合戦』(吉川弘文館、2014年)
- ^ 信長公記8巻『三州長篠御合戦の事』
- ^ 名和弓雄『長篠・設楽原合戦の真実 甲斐武田軍団はなぜ壊滅したか』雄山閣出版、1998年、253頁。
- ^ “『常山紀談』巻之四「酒井忠次鴟巣城を乗り取られし事」”. 近代デジタルライブラリー. 2013年10月30日閲覧。
- ^ 『戦国遺文』武田氏編 - 2495号・3704号
- ^ 細田大樹「天正三年の房越同盟の復活」『千葉史学』第70号(2017年)/所収:滝川恒昭 編著『旧国中世重要論文集成 安房国 上総国』戎光祥出版、2022年 ISBN 978-4-86403-378-7 2022年、P101-105.
- ^ 丸島和洋「武田氏の領域支配と取次-奉書式朱印状の奉者をめぐって-」平山優・丸島編『戦国大名武田氏の権力と支配』岩田書院、2008年
- ^ “『武家事紀』巻第十三”. 近代デジタルライブラリー. 2013年10月30日閲覧。
- ^ “『常山紀談』巻之四「佐久間信盛偽りて勝頼に降る事」”. 近代デジタルライブラリー. 2013年10月30日閲覧。
- ^ 高澤等『新・信長公記』ブイツーショリューション、2011年
- ^ 平山優「武田信玄の家臣団編成」(柴辻俊六編『新編武田信玄のすべて』新人物往来社、2008年)
- ^ a b c 『長篠・設楽原合戦の真実』(雄山閣、2008年)
- ^ 鉄砲隊の背後の看板の「鳥居強右衛門の逆さ磔」絵柄は上下逆。
- ^ 鈴木眞哉『戦国時代の計略大全』(PHP研究所、2011年)199-201頁
- ^ 平山優『敗者の日本史9・長篠合戦と武田勝頼』(吉川弘文社、2014年)
- ^ a b 『甲斐の黒駒』、p.93
- ^ 和歌山県立博物館編集・発行 『戦国合戦図屏風の世界』(1997年10月、p.153)
- ^ 和歌山県立博物館編集・発行 『戦国合戦図屏風の世界』(1997年10月)p.126-127。
- ^ 桑田忠親他編集 『戦国合戦絵屏風集成 第一巻 川中島合戦図 長篠合戦図』(中央公論社、1980年)普及版1988年 ISBN 978-4-12-402721-1
- ^ “奥平信昌”. 新城市. 2020年3月30日閲覧。
- ^ “長篠合戦のぼりまつり”. 新城市観光協会. 2020年3月30日閲覧。
長篠の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 01:41 UTC 版)
詳細は「長篠の戦い」を参照 天正2年から天正3年にかけて、武田方は織田・徳川領への再侵攻を繰り返していた。天正3年(1575年)4月、勝頼は武田氏より離反し徳川氏の家臣となった奥平貞昌を討つため、貞昌の居城・長篠城に攻め寄せた。しかし奥平勢の善戦により武田軍は長篠城攻略に手間取る。 その間の5月12日に信長は岐阜から出陣し、途中で徳川軍と合流し、5月18日に三河国の設楽原に陣を布いた。一方、勝頼も寒狭川を渡り、織田徳川連合軍に備えて布陣した。織田徳川連合軍の兵力は3万人程度であり、対する武田方の兵力は1万5千人程度であったという。 そして5月21日、織田・徳川連合軍と武田軍の戦いが始まる(長篠の戦い)。信長は設楽原決戦においては佐々成政ら5人の武将に多くの火縄銃を用いた射撃を行わせた。この戦いで織田軍は武田軍に圧勝した。武田方は有力武将の多くを失う。信長は細川藤孝に宛てた書状のなかで、「天下安全」の実現のために倒すべき敵は、本願寺のみとなったと述べている。 6月27日、相国寺に上洛した信長は、常陸国の国人である江戸氏が、本来天台宗の僧侶にしか認められていない絹衣の着用を自己が信奉する真言宗の僧侶にも認めたことで天台宗と真言宗の僧侶の間で相論が続いていることを知り、公家の中から三条西実枝・勧修寺晴右・甘露寺経元・庭田重保・中山孝親の5人を奉行に任命して問題の解決に当たらせた(絹衣相論を参照)。なお、老齢である三条西は11月ごろに奉行を辞退し、残りの4名は「四人衆」と呼ばれて本件を含めた朝廷内の訴訟に関する合議を行うようになった。 7月3日、正親町天皇は信長に官位を与えようとしたが、信長はこれを受けず、家臣たちに官位や姓を与えてくれるよう申し出た。天皇はこれを認め、信長の申し出通りに、松井友閑に宮内卿法印、武井夕庵に二位法印、明智光秀に惟任日向守、簗田広正に別喜右近、丹羽長秀に惟住といったように彼らに官位や姓を与えた。 一方、前の年に一向一揆支配下となった越前国に対し、8月に信長は行軍して平定し、一揆勢を多数殺害したことを書状に記している。信長は、越前八郡を柴田勝家に任せるとともに、府中三人衆(前田利家・佐々成政・不破光治)ら複数の家臣を越前国に配し、分割統治を行わせた。また、信長は越前国掟九ヵ条を出して、越前の諸将にその遵守を求めた。 この越前一向一揆の殲滅と、これに先立つ長島一向一揆の殲滅は大坂本願寺に対する圧力となり、信長が本願寺を赦免する方針をとったため、10月には信長と本願寺との和議が成立した。これにより、信長は一時的に天下静謐を達成することとなった。
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長篠の戦い
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『信長公記』『甲陽軍鑑』に拠れば、天正3年(1575年)の三河遠征では、越後国の上杉謙信の抑えとして出陣できない父の代理として出陣し、5月には長篠城を攻囲した(長篠の戦い)。 籠城する奥平軍の抵抗は頑強で早期陥落を果たせず、織田信長や徳川家康の長篠城救援軍到達を許してしまう。武田軍総大将の勝頼は、織田・徳川の後詰軍との決戦を採択。籠城軍への警戒に若干の軍勢を残し、主戦力を設楽原へ移動させた。昌澄は警戒軍として長篠城の西岸・有海村での待機を命ぜられている。 決戦日の5月21日には、信長が派遣した、酒井忠次率いる織田徳川連合軍の別働奇襲隊によって長篠城の南岸警備軍(鳶ヶ巣山の守備隊)が壊滅。奇襲隊は昌澄の有海村駐屯軍へも襲い掛かった。昌澄は抗戦するが兵数で圧し潰され、戦死した。
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