長篠の戦いとは? わかりやすく解説

ながしの‐の‐たたかい〔‐たたかひ〕【長篠の戦い】

読み方:ながしののたたかい

天正3年1575三河長篠城包囲した武田勝頼の軍と、織田信長徳川家康連合軍とが設楽原(しだらがはら)で行った戦い鉄砲使用により、連合軍圧勝した


長篠の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/21 01:19 UTC 版)

長篠の戦い(ながしののたたかい、長篠の合戦・長篠合戦とも)は、天正3年5月21日(当時のユリウス暦1575年6月29日。現在のグレゴリオ暦に換算すると1575年7月9日)、三河国長篠城(現・愛知県新城市長篠)をめぐり、3万8千人の織田信長徳川家康連合軍と、1万5千人の武田勝頼の軍勢が戦った合戦である。






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長篠の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 01:41 UTC 版)

織田信長」の記事における「長篠の戦い」解説

詳細「長篠の戦い」参照 天正2年から天正3年にかけて、武田方は織田徳川領への再侵攻繰り返していた。天正3年1575年4月、勝頼は武田氏より離反し徳川氏家臣となった奥平貞昌を討つため、貞昌の居城長篠城攻め寄せた。しかし奥平勢の善戦により武田軍長篠城攻略手間取るその間5月12日信長岐阜から出陣し途中で徳川軍合流し5月18日三河国設楽原に陣を布いた一方、勝頼も寒狭川渡り織田徳川連合軍備えて布陣した。織田徳川連合軍兵力は3万人程度であり、対す武田方の兵力1万5千人程度であったという。 そして5月21日織田徳川連合軍武田軍戦いが始まる(長篠の戦い)。信長設楽原決戦においては佐々成政ら5人の武将多く火縄銃用いた射撃を行わせた。この戦いで織田軍は武田軍圧勝した武田方は有力武将の多くを失う。信長細川藤孝宛てた書状のなかで、「天下安全」の実現のために倒すべき敵は、本願寺のみとなった述べている。 6月27日相国寺上洛した信長は、常陸国国人である江戸氏が、本来天台宗僧侶にしか認められていない絹衣の着用自己信奉する真言宗の僧侶にも認めたことで天台宗真言宗の僧侶の間で相論続いていることを知り公家の中から三条西実枝勧修寺晴右甘露寺経元庭田重保中山孝親の5人を奉行任命して問題解決に当たらせた(絹衣相論参照)。なお、老齢である三条西11月ごろに奉行辞退し残りの4名は「四人衆」と呼ばれて本件含めた朝廷内の訴訟に関する合議を行うようになった7月3日正親町天皇信長官位与えようとしたが、信長はこれを受けず家臣たちに官位や姓を与えてくれるよう申し出た天皇はこれを認め信長申し出通りに、松井友閑宮内卿法印武井夕庵二位法印明智光秀惟任日向守簗田広正に別喜右近丹羽長秀に惟住といったように彼らに官位や姓を与えた一方、前の年に一向一揆支配下となった越前国対し8月信長行軍し平定し一揆勢を多数殺害したことを書状記している。信長は、越前八郡柴田勝家任せとともに府中三人衆前田利家佐々成政不破光治)ら複数家臣越前国配し分割統治を行わせた。また、信長越前国掟九ヵ条を出して越前諸将にその遵守求めた。 この越前一向一揆殲滅と、これに先立つ長島一向一揆殲滅大坂本願寺対す圧力となり、信長本願寺赦免する方針をとったため、10月には信長本願寺との和議成立した。これにより、信長一時的に天下静謐達成することとなった

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長篠の戦い

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高坂昌澄」の記事における「長篠の戦い」解説

信長公記』『甲陽軍鑑』に拠れば天正3年1575年)の三河遠征では、越後国の上謙信抑えとして出陣できない父の代理として出陣し5月には長篠城攻囲した(長篠の戦い)。 籠城する平軍抵抗頑強早期陥落果たせず、織田信長徳川家康長篠城救援軍到達許してしまう。武田軍総大将の勝頼は、織田徳川後詰軍との決戦採択籠城軍への警戒若干軍勢残し主戦力を設楽原へ移動させた。昌澄は警戒軍として長篠城西岸有海での待機を命ぜられている。 決戦日の5月21日には、信長派遣した酒井忠次率い織田徳川連合軍の別働奇襲隊によって長篠城南岸警備軍巣山守備隊)が壊滅奇襲隊は昌澄の有海駐屯軍へも襲い掛かった。昌澄は抗戦する兵数圧し潰され戦死した

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