長篠ノ戦
ながしの‐の‐たたかい〔‐たたかひ〕【長篠の戦い】
長篠の戦い
長篠の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 01:41 UTC 版)
詳細は「長篠の戦い」を参照 天正2年から天正3年にかけて、武田方は織田・徳川領への再侵攻を繰り返していた。天正3年(1575年)4月、勝頼は武田氏より離反し徳川氏の家臣となった奥平貞昌を討つため、貞昌の居城・長篠城に攻め寄せた。しかし奥平勢の善戦により武田軍は長篠城攻略に手間取る。 その間の5月12日に信長は岐阜から出陣し、途中で徳川軍と合流し、5月18日に三河国の設楽原に陣を布いた。一方、勝頼も寒狭川を渡り、織田徳川連合軍に備えて布陣した。織田徳川連合軍の兵力は3万人程度であり、対する武田方の兵力は1万5千人程度であったという。 そして5月21日、織田・徳川連合軍と武田軍の戦いが始まる(長篠の戦い)。信長は設楽原決戦においては佐々成政ら5人の武将に多くの火縄銃を用いた射撃を行わせた。この戦いで織田軍は武田軍に圧勝した。武田方は有力武将の多くを失う。信長は細川藤孝に宛てた書状のなかで、「天下安全」の実現のために倒すべき敵は、本願寺のみとなったと述べている。 6月27日、相国寺に上洛した信長は、常陸国の国人である江戸氏が、本来天台宗の僧侶にしか認められていない絹衣の着用を自己が信奉する真言宗の僧侶にも認めたことで天台宗と真言宗の僧侶の間で相論が続いていることを知り、公家の中から三条西実枝・勧修寺晴右・甘露寺経元・庭田重保・中山孝親の5人を奉行に任命して問題の解決に当たらせた(絹衣相論を参照)。なお、老齢である三条西は11月ごろに奉行を辞退し、残りの4名は「四人衆」と呼ばれて本件を含めた朝廷内の訴訟に関する合議を行うようになった。 7月3日、正親町天皇は信長に官位を与えようとしたが、信長はこれを受けず、家臣たちに官位や姓を与えてくれるよう申し出た。天皇はこれを認め、信長の申し出通りに、松井友閑に宮内卿法印、武井夕庵に二位法印、明智光秀に惟任日向守、簗田広正に別喜右近、丹羽長秀に惟住といったように彼らに官位や姓を与えた。 一方、前の年に一向一揆支配下となった越前国に対し、8月に信長は行軍して平定し、一揆勢を多数殺害したことを書状に記している。信長は、越前八郡を柴田勝家に任せるとともに、府中三人衆(前田利家・佐々成政・不破光治)ら複数の家臣を越前国に配し、分割統治を行わせた。また、信長は越前国掟九ヵ条を出して、越前の諸将にその遵守を求めた。 この越前一向一揆の殲滅と、これに先立つ長島一向一揆の殲滅は大坂本願寺に対する圧力となり、信長が本願寺を赦免する方針をとったため、10月には信長と本願寺との和議が成立した。これにより、信長は一時的に天下静謐を達成することとなった。
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長篠の戦い
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『信長公記』『甲陽軍鑑』に拠れば、天正3年(1575年)の三河遠征では、越後国の上杉謙信の抑えとして出陣できない父の代理として出陣し、5月には長篠城を攻囲した(長篠の戦い)。 籠城する奥平軍の抵抗は頑強で早期陥落を果たせず、織田信長や徳川家康の長篠城救援軍到達を許してしまう。武田軍総大将の勝頼は、織田・徳川の後詰軍との決戦を採択。籠城軍への警戒に若干の軍勢を残し、主戦力を設楽原へ移動させた。昌澄は警戒軍として長篠城の西岸・有海村での待機を命ぜられている。 決戦日の5月21日には、信長が派遣した、酒井忠次率いる織田徳川連合軍の別働奇襲隊によって長篠城の南岸警備軍(鳶ヶ巣山の守備隊)が壊滅。奇襲隊は昌澄の有海村駐屯軍へも襲い掛かった。昌澄は抗戦するが兵数で圧し潰され、戦死した。
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