長篠合戦の政治的な影響
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「長篠の戦い」の記事における「長篠合戦の政治的な影響」の解説
長篠における勝利、そして越前一向一揆平定による石山本願寺との和睦で反信長勢力を屈服させることに成功した信長は、「天下人」として台頭した。また、徳川家康は三河の実権を完全に握り、遠江の重要拠点である諏訪原城・二俣城を攻略していき、高天神城への締め付けを強化した。 武田氏は長篠において、重臣層を含む多くの将兵を失う大敗を喫し、領国の動揺を招いた。武田氏は長篠の敗退を契機に外交方針の再建をはかり、相模後北条氏の甲相同盟に加え、越後上杉氏との関係強化や佐竹氏との同盟(甲佐同盟)、さらに里見氏ら関東諸族らと外交関係を結んだ。 天正6年(1578年)には越後において上杉謙信の死後、ともにその養子であった上杉景勝と上杉景虎との間で家督を巡る御館の乱が起こり、勝頼は北条氏の要請で出兵するが、武田方と接触していた景勝と同盟を結び(甲越同盟)、両者の調停を図る。勝頼の撤兵後に景勝が乱を制したことで、北条氏との関係は手切となった。 勝頼は関東諸族との同盟により北条氏を牽制し、武田家に人質としていた織田信房を織田家に返還して信長との和睦を試みるが(甲江和与)、天正10年(1582年)3月には織田・徳川連合軍による武田領国への本格的侵攻が行われ、武田氏は滅亡した。 長篠城主・奥平貞昌はこの戦功によって信長の偏諱を賜り「信昌」と改名し、(もともとそういう約定があったが)家康の長女・亀姫を貰い受け正室とした上、家康所有の名刀「大般若長光」を賜るという名誉を受けた。さらにその重臣含めて知行などを子々孫々に至るまで保証するというお墨付きを与えられ、貞昌を祖とする奥平松平家は明治まで続くこととなる。また、武田に処刑された鳥居強右衛門は後世に忠臣として名を残し、その子孫は奥平松平家家中で厚遇された。
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