有岡城の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/03 00:45 UTC 版)
有岡城の戦い(ありおかじょうのたたかい)は、天正6年(1578年)7月から翌天正7年(1579年)10月19日にかけて行われた籠城戦。織田信長に帰属していた荒木村重が突然謀反を起こしたことに端を発する。伊丹城の戦いとも呼ばれている[注釈 1]。
注釈
- ^ 有岡城は村重が伊丹氏より奪い取り城主となったため伊丹城から改名したが、『信長公記』では旧名である「伊丹城」と記している[2]。
- ^ 神吉藤太夫の内通は『別所長治記』の「神吉城攻之事」などにも見られる。一方、『信長公記』11巻の神吉城合戦に関する天正6年7月15・16日分の記述では、裏切りなどの言及はなく、滝川一益・丹羽長秀の軍勢による中の丸の炎上・落城について記した後、西の丸を守備していた神吉藤太夫の降伏を佐久間信盛・荒木村重の両名が取り持ち、藤太夫は近隣の志方城に退去したとしている。その後、志方城は神吉城を落とした織田軍の前にすぐに降伏・開城。両城は秀吉にあずけられ、次の目標である三木城の攻囲にかかったところまでが、この合戦に関する一連の記述となっている。
- ^ フロイスによると、高山父子は役目上は村重に従っていたが、地位は信長直属の家臣だったらしい。
出典
- ^ 西ヶ谷 2000, p. 200.
- ^ a b c d e f g h i 『信長公記』[要文献特定詳細情報]
- ^ a b ルイス・フロイス『日本史』[要文献特定詳細情報]
- ^ 田中義成「第二十九章 松永久秀・荒木村重の謀反」『織田時代史』明治書院、1924年、171-172頁 。2021年5月8日閲覧。"信長の部下に対する態度は、如何にも過酷にして、部下としては非常に危悍の感をいだきたるもの少なからざるべし(中略)松永・荒木両氏の如きは、蓋し皆所謂御折檻に忍ぶ能はずして、此挙に出でたるものなるべく"。
- ^ 天野 2015.
- ^ 「岩佐家譜」『越前人物志: 中巻、下巻』玉雪堂、1910年、887頁 。2021年4月21日閲覧。"岩佐又兵衛勝以者荒木攝津守村重末子也。"。
- 1 有岡城の戦いとは
- 2 有岡城の戦いの概要
- 3 戦後の影響
- 4 逸話
- 5 参考文献
- 6 外部リンク
固有名詞の分類
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