天正伊賀の乱とは? わかりやすく解説

天正伊賀の乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/07 02:55 UTC 版)

天正伊賀の乱(てんしょういがのらん)は、伊賀国で起こった織田氏伊賀惣国一揆との戦いの総称である。天正6年(1578年)から天正7年(1579年)の戦を第一次、天正9年(1581年)の戦を第二次とし区別する。織田信長の死後、第三次も起きている。

前段

伊賀は四方を山で囲まれ、中に上野盆地がある閉鎖的な土地で、伊勢神宮・奈良東大寺・興福寺の荘園支配が続いたため、室町期に至っても強固な守護支配が及ばず、戦国期には48とも66ともいわれる小領主の土豪が国人として分かれ、砦・土塁・舘を築いてときに小競り合いをしながらも均衡を維持、外部勢力の侵攻に対しては「惣国一揆掟」を結んで一致団結して対抗していた。伊賀には600以上の城館跡があったとも伝えられる。

第一次天正伊賀の乱

第一次天正伊賀の乱
戦争安土桃山時代
年月日:天正6年(1578年) - 天正7年(1579年
場所伊賀国
結果伊賀衆の勝利
交戦勢力
織田軍 伊賀惣国一揆
・伊賀十二人衆
指導者・指揮官
織田信雄
滝川雄利
柘植保重 
土方雄久
日置大膳亮
百地丹波
植田光次
戦力
8,000 1500
損害
不明 不明

北畠家養子となっていた織田信長の次男織田信雄は、天正4年(1576年)に北畠具教ら北畠一族を三瀬の変で暗殺し伊勢国を掌握すると、次は伊賀国の領国化を狙っていた。1578年(天正6年)2月、伊賀国の郷士の日奈知城主・下山平兵衛(下山甲斐守)が信雄を訪れ、伊賀国への手引きを申し出た。信雄は同年3月に滝川雄利に北畠具教が隠居城として築城中であった丸山城の修築を命じた。

これを知った伊賀国郷士衆は驚き、丸山城の西にある天童山に密偵を送り、築城の様子をうかがった。この時の様子が、

丸山城指図 山城也、此山根置周取廻六百九十六間、山下地形よ里山までの高サ三十間有南方を正面とす 麓より二の丸へ越登道九折にして六十九間 山下整地広さ南北四十四間 東西二十五間 右整地之内に三層の殿主あり天守台六間四方台の高さ三間四方石垣なり

—伊賀旧考

とあり、3層の天守や天守台は石垣で固められ、また二の丸への登城道は9回折れているなど、規模壮大な城であったと記されている。

すぐさま伊賀郷士11名が平楽寺に集まり、「完成までに攻撃すべし」と集議一決した。一説には、伊賀衆有力者12人の協力を得ていたが、出陣が続く中で織田側が戦費不足から築城を中断、人夫代が入らなくなったことで伊賀衆の不満が高まり、北畠残党等の反織田派の策動もあったともいう。丸山城周辺の神戸、上林、比土、才良、郡村、沖、市部、猪田、依那具、四十九、比自岐衆が無量寿福寺で密談をこらし、同年10月25日に集結した700人ともいう伊賀衆が総攻撃を開始した。不意を突かれた滝川雄利軍や人夫衆は混乱し、昼過ぎには残存兵力を糾合し伊勢国に敗走した。『伊乱記』には、「伊賀衆は雄利を討ち取ったと喜んだ。しかし雄利が無事であることを知って落胆した」とある。10月28日、織田信雄は伊勢田丸城で軍議を開き、反撃の機を待つことを決めた。

天正7年(1579年)9月16日、信雄は信長に相談もせず独断で阿波口から8,000、布引口から1500、伊勢地口から1300の兵を率いて伊賀国に3方から侵攻したが、伊賀郷士衆は各地で抗戦し信雄軍を伊勢国に敗走させた。伊賀衆の夜襲や松明を用いた撹乱作戦や地形を活かした奇襲などで、2~3日で信雄軍は多くの兵を失い 、伊勢へ敗走した。信雄軍は重臣の柘植保重を討たれる(鬼瘤峠の戦い)など被害は甚大で、侵攻は失敗に終わった。信雄が無断で伊賀に侵攻し、さらに敗戦したことを知った信長は激怒し、信雄を叱責した。信長が信雄に「親子の縁を切る」と書いた書状をしたためたというからその怒りは相当なものであったと考えられる。また、この信雄の敗戦を受け、信長は忍者に対し警戒心を抱き、後の第二次伊賀の乱へ繋がっていく。しかし信長はこの頃石山本願寺との抗争が激化し、伊賀国平定は後回しせざるを得なかった。

第二次天正伊賀の乱

第二次天正伊賀の乱
戦争:天正伊賀の乱
年月日:天正9年(1581年
場所伊賀国
結果:織田軍の勝利
交戦勢力
織田軍 伊賀惣国一揆
・伊賀十二人衆
指導者・指揮官
(織田信長)
織田信雄
津田信澄
滝川一益
丹羽長秀
蒲生氏郷
筒井順慶
筒井定次
脇坂安治
不破光治
浅野長政
堀秀政
滝川雄利
土方雄久
など
滝野吉政
町井清兵衛
森田浄雲
百地丹波
植田光次
下段の一覧参照
戦力
一説に10万以上。 9,000
損害
2,000以上 壊滅、非戦闘員含む30,000余死亡
織田信長の戦い

天正9年(1581年)4月、上柘植の福地伊予守宗隆、河合村の耳須弥次郎具明の2人が安土城の信長の所に訪れ、伊賀攻略の際は道案内をすると申し出た。

そして再び織田信雄を総大将に5万の兵で伊賀国に侵攻した。『信長公記』『多聞院日記』には9月3日に攻撃開始との記述があるが、『伊乱記』では9月27日に6か所(伊勢地口から信雄、津田信澄ら1万、柘植口から丹羽長秀滝川一益ら1万2千、玉滝口から蒲生氏郷脇坂安治ら7千、笠間口から筒井順慶ら3千7百、初瀬口より浅野長政と多羅尾口より堀秀政多羅尾弘光ら合わせて2千3百が攻撃したと記述されている)同月6日より戦闘が開始された。 織田軍は、寺・村を焼払い、女子供・僧侶の別なく殺す焦土戦術をとった。伊賀衆は比自山城に3,500人(非戦闘員含め10,000人)、平楽寺(後の伊賀上野城)に1,500人で籠城した。伊賀衆は河原(あるいは比自山の裾野)で野営していた蒲生氏郷隊に夜襲を掛け、氏郷隊は寝込みを襲われ敗れた。筒井順慶隊にも夜襲を掛け、1000兵を討ち取られた。これに怒った氏郷は平楽寺を攻撃し、退けられるが滝川一益の援軍を得て陥落させた。続く比自山城は、丹羽長秀らが幾度となく攻略しようとしたが、その都度敗退し、落とせなかった(比自山城の戦い、この時活躍した伊賀衆を比自山の七本槍という)。しかし、総攻撃の前日に全ての城兵は柏原城に逃亡した。その後、内応者が出た事もあり(伊賀衆は織田方の調略を受け、連携を欠いていた)、織田軍は各地で進撃し同月11日にはほぼ伊賀国を制圧した。村や寺院は焼き払われ、住民は殺害された(平楽寺では僧侶700人余りが斬首、伊賀全体では9万の人口の内非戦闘員含む3万余が殺害された)。

奈良の大倉五郎次という申楽太夫が柏原城に来て、和睦の仲介に入り、惣名代として滝野吉政が28日早朝に信雄に会って、城兵の人命保護を条件に和睦を行い、城を開けた。『信長公記』ではこの停戦時期を9月11日としている。『多聞院日記』では「十七日、教浄先陳ヨリ帰、伊賀一円落着」としており、日程のずれはあるが、当時の伝聞を集めた記録として信頼性は高い。

この柏原城が開城した時点をもって第二次天正伊賀の乱は終わりを告げた。残党は捕縛され殺されたが、多くの指揮官は他国へ逃げ、ほとぼりが冷めた頃に帰国した。

同年10月9日には信長自身が伊賀国に視察に訪れている。信長は阿拝郡伊賀郡名張郡織田信雄に、山田郡織田信包(信長公記では「上野介信兼」)にそれぞれ与えた。

第三次天正伊賀の乱

第三次天正伊賀の乱
戦争天正伊賀の乱
年月日天正10年(1582年)6月~天正11年(1583年)4月
場所伊賀国
結果:織田信雄軍の勝利
交戦勢力
織田軍 伊賀衆
指導者・指揮官
織田信雄
滝川雄利
小川長保
津川雄光
池尻平左衛門尉
木造長政
秋山家慶
伊賀衆残党
戦力
不明 不明
損害
不明 壊滅

天正10年(1582年)6月2日、織田信長が本能寺の変で横死した。これにより、好機とみた伊賀衆が蜂起した。当時、伊賀には多くの信雄の家臣が配置されていたが、多くの家臣が松ヶ島城まで撤退した[1]。また、山田郡を与えられていた織田信包の家臣も、変の勃発後、逃走したようである[1]。そして、再び伊賀衆が柏原城を襲う形で第三次天正伊賀の乱が勃発した[2][1]

伊賀衆は名張郡の柏原城伊賀郡の比自山城、阿拝郡の宮田城、島原城、雨乞城に籠城した。多くの信雄の家臣は伊賀から撤退したが、池尻平左衛門尉が城を堅守したようである。7月になって信雄は家臣の滝川雄利、秋山家慶らに伊賀平定に向かわせた[1]。しかし、頑強な抵抗にあい、後詰を要請したため、小川長保らが赴いた。長保は夜襲が得意な伊賀衆を警戒するも、8月6日、伊賀衆が夜襲を仕掛けてきて白兵戦となり、信雄軍の林某を打ち取られたため敗走した[1]

9月、信雄軍は宮田城を攻略することにした。宮田城の絵図から、4方向から総攻撃を仕掛けることを決定した。そのうちの一方向を担当した長保が二の丸まで攻め入るも、籠城軍の本田六右衛門、多屋甚之丞に撃退され、信雄軍は力攻めは無理だと判断し、撤退した[1]

同月、信雄の家臣・木造長政や長木某、福屋某らが守備する長田城が伊賀衆方のから比自山城の毎夜の夜襲に苦戦したため、長保が代わりに守備することになった[1]。長保は比自山城からの夜襲を撃退し、それに狼狽した伊賀衆が比自山城から撤退した[1]

同月、雄利は島原城の攻略を信雄に進言し、滝川一益の援軍を含む1400の兵を率いて、攻略に向かうも、撤退を余儀なくされた。9月27日、代わりに平左衛門尉、小川長保が大和筒井順慶の援軍3000を得て、10月中に島原城を攻略した[1]

11月、平左衛門尉が雨乞城は新城なので攻略が容易いと進言しため、津川雄光率いる軍が雨乞城の攻略に向かわせたが、攻略にてこずった。その後、土方雄久が使者として、信雄の上洛に伴い、退却するという命令が下された。小川長保と田丸直息が殿を務め、追撃してきた服部伝助を撃退した[1]

その後、天正11年(1583年)の信雄の判物で、雄利が知行した阿拝郡が堅固であり、上方の情勢が落着けば一揆軍を蹴散らせると述べているなど、沈静化しつつも反乱は続いていたようである[1]。しかし、同年に羽柴秀吉柴田勝家の間で賤ヶ岳の戦いが発生すると、信雄は秀吉方に組した。対立構造的に柴田勝家は甲賀衆であった山中長俊を使って、伊賀衆との連携を画策し、伊賀での反秀吉・信雄の動きを促進させた[1]。また、前年に伊勢で信雄に反乱を起こしていた北畠具親が伊賀に落ち延び、伊賀衆と連携し、さらに信雄の家臣であった大和の秋山沢氏らが具親と協力して反乱を起こすなど不安定な情勢が続いた[1]

これらの乱の内容は多くが小川長保の覚書を出典としており、当人の覚書なので長保の武功が光り、長保自身が雄利と仲が悪かったため、雄利の功績がほとんど書かれていない。なのでこれらの功績を割り引いて理解する必要があるが、長保自身は信雄から自筆で褒賞されるほどの武功を上げたのは事実なようである[1]

関連作品

小説
映画
漫画・アニメ
コンピューターゲーム

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n 和田裕弘『天正伊賀の乱 信長を本気にさせた伊賀衆の意地』中公新書、2021年、194-203頁。 
  2. ^ 忍者研究第5号”. J-STAGE. 2025年7月7日閲覧。

関連項目


天正伊賀の乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 06:01 UTC 版)

ダブルクロス・リプレイ・ジパング」の記事における「天正伊賀の乱」の解説

天正7年1579年)と天正9年1581年)の2度渡って行なわれ織田軍の伊賀攻め。特に信長が自ら率いた天正9年の戦を指す。

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