天正伊賀の乱
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天正伊賀の乱(てんしょういがのらん)は、伊賀国で起こった織田氏と伊賀惣国一揆との戦いの総称である。天正6年(1578年)から天正7年(1579年)の戦を第一次、天正9年(1581年)の戦を第二次とし区別する。
- 1 天正伊賀の乱とは
- 2 天正伊賀の乱の概要
- 3 第一次天正伊賀の乱
- 4 第二次天正伊賀の乱
- 5 乱後
天正伊賀の乱
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「ダブルクロス・リプレイ・ジパング」の記事における「天正伊賀の乱」の解説
天正7年(1579年)と天正9年(1581年)の2度に渡って行なわれた織田軍の伊賀攻め。特に信長が自ら率いた天正9年の戦を指す。
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天正伊賀の乱
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「天正伊賀の乱」も参照 天正7年(1579年)、伊賀忍者の一人・下山甲斐は仲間を裏切り、織田信長の次男・信雄に伊賀の団結力が衰えだしたことを報告し、侵略を進言した。下山の言葉に乗った信雄は、ただちに国境にあった丸山城を修築し、侵略の拠点とすることにした。だが信雄の企みはいち早く伊賀の人々の耳に届き、放たれた忍者達の奇襲によって信雄は大敗を喫してしまう。これが第一次伊賀の乱である。 この結果に激怒した信長は、勝手に軍を動かした信雄を絶縁すると脅して戒める一方、2年後の天正9年(1581年)には自ら、およそ5万の兵を率いて伊賀に攻め込んだ。これを第二次天正伊賀の乱という。驚いた伊賀の人々は、すぐさま総力を挙げて信長と戦うことを決意する。しかし、かねて協力体勢にあったはずの甲賀忍者の一人・多羅尾光俊の手引きにより、伊賀忍者からさらに2人の離反者が発生し、織田方の蒲生氏郷の道案内をおこなった。これにより、伊賀の人々が立て籠もった城は次々と落ち、最後の砦・柏原城が落ちた時点をもって天正伊賀の乱は終わりを告げた。 第二次天正伊賀の乱の詳細を「参考伊賀紀」(伊陽平定志著、安政4年(1857年)筆)より抜粋する。 天正9年4月、上柘植の福地宗隆、河合村の耳須弥次郎の2人が安土城の信長の所に訪れ、伊賀攻略の際は道案内をすると申し出た(柘植氏は天正7年9月に棟梁の柘植保重を伊賀衆に殺害されており、以前より遺恨があった)。『信長公記』『多聞院日記』には9月3日に攻撃開始との記述があるが、『伊乱記』では9月27日に6か所から攻撃を開始したとされる。伊勢地口からは織田信雄、津田信澄、柘植口から丹羽長秀、滝川一益、玉滝口からは蒲生氏郷、脇坂安治、笠間口から筒井順慶、初瀬口より浅野長政、多羅尾口から堀秀政、多羅尾弘光。『多聞院日記』の記述では総勢1万余とされている。伊賀衆といっても、柘植氏などは信長方に就いており、甲賀衆の多羅尾光俊は永禄11年の段階で織田信長に忠誠を誓っている(参考資料:『信楽町史』『多羅尾の歴史物語』『甲賀郡誌』)。また、多羅尾光俊は、天正2年1月、信長の側近である福富秀勝、毛利長秀とともに多聞城番手を勤めているので、近臣として非常に信頼されていたことがうかがえる。 伊賀に攻め込んだ織田軍は、進軍した先の村人は攻撃しなかったため、かえって、順回中の耳須弥次郎を、長田村の住士の家奴与助と小田村の庶民庄八によって襲撃され、殺害されてしまう。比自山城を攻撃したのは筒井順慶と蒲生氏郷、堀秀政の軍勢で、城兵の将は、百田藤兵衛、向井氏、小沢智仙、住吉市平、福喜多将監、町井清兵衛、森四郎左衛門、村田勘四郎、加藤熊之助、富岡氏、吉田左近とされている。筒井、蒲生の軍は朝屋丸を守る福喜多将監を攻め、風呂谷で合戦をする。 比自山の伊賀勢は「終日の戦に多勢をうたせて甚だ疲れ、今夜は前後も知らず臥らめとこそ存候へ。催し長岡山に夜討ちせば順慶が首を得むこと掌にあり」として筒井順慶の陣地に夜襲をかけるが、織田方に味方していた伊賀衆の菊川清九郎に気づかれ、成功しなかった。このため、滝川一益や丹羽長秀などの軍勢が今後合流することを懸念して、夜陰に紛れて城を棄て、城兵は逃亡した。織田軍が比自山城に攻め込むと、誰一人いない状況であり、蒲生氏郷や堀秀政は悔しがり、比自山城や近隣の諸堂をことごとく焼き払った。 比自山城が落城すると、織田信雄の軍は南伊賀の拠点、柏原城の周辺に集結する。進軍にあたって、民衆の皆殺しなどの掃討作戦をしなかったため、織田軍が撤退したあと、北伊賀では土豪が決起して、織田の守備隊が守る忍田城を攻め、国制の裁判人たちを殺害した。伊賀勢は柏原城に立てこもり、天正9年10月8日卯刻より戦闘を開始する。力攻めをするが、犠牲が大きいとの判断から兵糧攻めに切り替える。織田軍が農民たちを掃討しないのを見た伊賀勢は、城兵3人を城から抜け出させ、農民を集めて松明を持たせ、背後から織田軍の陣を驚かす作戦をとったが、丹羽長秀に見破られて作戦は失敗する。 10月25日になって、奈良の大倉五郎次という申楽太夫が柏原城に来て、和睦の仲介に入り、惣名代として滝野吉政が28日早朝に信雄に会って、城兵の人命保護を条件に和睦を行い、城を開けた。『信長公記』ではこの停戦時期を9月11日としている。『多聞院日記』では「十七日、教浄先陳ヨリ帰、伊賀一円落着」としており、日程のずれはあるが、当時の伝聞を集めた記録として信頼性は高い。
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