天正伊賀の乱とは? わかりやすく解説

天正伊賀の乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/03 05:02 UTC 版)

天正伊賀の乱(てんしょういがのらん)は、伊賀国で起こった織田氏と伊賀惣国一揆との戦いの総称である。天正6年(1578年)から天正7年(1579年)の戦を第一次、天正9年(1581年)の戦を第二次とし区別する。




「天正伊賀の乱」の続きの解説一覧

天正伊賀の乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 06:01 UTC 版)

ダブルクロス・リプレイ・ジパング」の記事における「天正伊賀の乱」の解説

天正7年1579年)と天正9年1581年)の2度渡って行なわれ織田軍の伊賀攻め。特に信長が自ら率いた天正9年の戦を指す。

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天正伊賀の乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/06 15:33 UTC 版)

伊賀流」の記事における「天正伊賀の乱」の解説

「天正伊賀の乱」も参照 天正7年1579年)、伊賀忍者一人下山甲斐仲間裏切り織田信長次男・信雄に伊賀団結力衰えだしたことを報告し侵略進言した。下山言葉乗った信雄は、ただちに国境にあった丸山城修築し、侵略拠点とすることにした。だが信雄の企みいち早く伊賀人々の耳に届き放たれ忍者達の奇襲によって信雄は大敗喫してしまう。これが第一次伊賀の乱である。 この結果激怒した信長は、勝手に軍を動かした信雄を絶縁する脅して戒める一方2年後天正9年1581年)には自ら、およそ5万の兵を率いて伊賀攻め込んだ。これを第二次天正伊賀の乱という。驚いた伊賀人々は、すぐさま総力挙げて信長と戦うことを決意する。しかし、かねて協力体勢にあったはずの甲賀忍者一人多羅尾光俊の手引きにより、伊賀忍者からさらに2人離反者発生し織田方の蒲生氏郷道案内おこなった。これにより、伊賀人々立て籠もった城は次々と落ち最後の砦柏原城落ちた時点をもって天正伊賀の乱は終わりを告げた第二次天正伊賀の乱詳細を「参考伊賀紀」(伊陽平定志著、安政4年1857年)筆)より抜粋する天正9年4月、上柘植福地宗隆、河合村耳須弥次郎2人安土城信長の所に訪れ伊賀攻略の際は道案内をすると申し出た柘植氏天正7年9月棟梁柘植保重伊賀衆殺害されており、以前より遺恨があった)。『信長公記』『多聞院日記』には9月3日攻撃開始との記述があるが、『伊乱記』では9月27日に6か所から攻撃開始したとされる伊勢地口からは織田信雄津田信澄柘植口から丹羽長秀滝川一益玉滝口からは蒲生氏郷脇坂安治笠間口から筒井順慶初瀬口より浅野長政多羅尾口から堀秀政多羅弘光。『多聞院日記』の記述では総勢1万余とされている。伊賀衆といっても、柘植氏などは信長方に就いており、甲賀衆多羅尾光俊永禄11年段階織田信長忠誠誓っている(参考資料:『信楽町史』『多羅尾の歴史物語』『甲賀郡誌』)。また、多羅尾光俊は、天正2年1月信長の側近である福富秀勝毛利長秀とともに多聞城番手勤めているので、近臣として非常に信頼されていたことがうかがえる伊賀攻め込んだ織田軍は、進軍した先の村人攻撃しなかったため、かえって、順回中の耳須弥次郎を、長田村の住士の家奴与助小田村庶民庄八によって襲撃され殺害されてしまう。比自山城攻撃したのは筒井順慶蒲生氏郷堀秀政軍勢で、城兵の将は、百田藤兵衛向井氏小沢智仙住吉市平、福喜多将監町井清兵衛森四郎左衛門村田四郎加藤熊之助、富岡氏、吉田左近とされている。筒井蒲生の軍は朝屋丸を守る福喜多将監攻め風呂谷で合戦をする。 比自山の伊賀勢は「終日の戦に多勢をうたせて甚だ疲れ今夜前後も知らず臥らめとこそ存候へ。催し長岡山に夜討ちせば順慶が首を得むこと掌にあり」として筒井順慶陣地夜襲をかけるが、織田方に味方していた伊賀衆菊川九郎に気づかれ、成功しなかった。このため滝川一益丹羽長秀などの軍勢今後合流することを懸念して夜陰紛れて城を棄て城兵逃亡した織田軍が比自山城攻め込むと、誰一人いない状況であり、蒲生氏郷堀秀政悔しがり、比自山城近隣諸堂ことごとく焼き払った。 比自山城落城すると、織田信雄の軍は南伊賀の拠点柏原城周辺集結する。進軍にあたって民衆皆殺しなどの掃討作戦をしなかったため、織田軍が撤退したあと、北伊賀では土豪決起して織田守備隊が守る忍田城攻め国制裁判人たちを殺害した伊賀勢は柏原城立てこもり天正9年10月8日卯刻より戦闘開始する力攻めをするが、犠牲大きいとの判断から兵糧攻め切り替える織田軍が農民たちを掃討しないのを見た伊賀勢は、城兵3人を城から抜け出させ、農民集めて松明持たせ背後から織田軍の陣を驚かす作戦をとったが、丹羽長秀見破られ作戦失敗する10月25日になって奈良大倉五郎次という申楽太夫柏原城来て和睦仲介入り惣名代として滝野吉政28日早朝に信雄に会って城兵人命保護条件和睦行い、城を開けた。『信長公記』ではこの停戦時期9月11日としている。『多聞院日記』では「十七日、教浄先陳ヨリ帰、伊賀一円落着」としており、日程のずれはあるが、当時伝聞集めた記録として信頼性は高い。

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