稲生の戦い
稲生の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 02:49 UTC 版)
「長良川の戦い」および「稲生の戦い」も参照 弘治2年(1556年)4月、信長の岳父であり支援者でもあった美濃国の戦国大名・斎藤道三が自身の嫡男・義龍との戦に敗れて死去した。 義龍は、もう一つの守護代家・岩倉織田家などの信長の敵対勢力の支援に動き、信長は苦境に立たされた。同じ頃、未遂に終わったものの、信行派の林美作守らが信長を殺害しようとした事件もあった。 同年8月、信行は林秀貞・林美作守・柴田勝家らとともに、信長と敵対する旗幟を鮮明にした。信行らは、信長の直轄領である篠木三郷を押領しようとした。この動きに対し、信長は名塚砦を築いて自派の佐久間大学を入れ、牽制を図った。 信行方の柴田勝家らは名塚砦への攻撃に打って出て、信長がこれを迎え撃った。8月24日、両者は稲生で激突する。結果、柴田勝家は敗走し、林美作守は討ち取られて、信行方が敗北を喫した。 敗れた信行は末森城に籠城する。信長は末森城に攻め寄せたが、このときは母・土田御前の取りなしにより、林秀貞、柴田勝家共々、信行は赦免された。
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