さっさ‐なりまさ【佐々成政】
佐々成政
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佐々 成政(さっさ なりまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。佐々成宗(盛政とも)の子[1]。通称は内蔵助。家紋は棕櫚(シュロ)。馬印は金の三階菅笠。鷹司孝子(本理院・徳川家光正室)の外祖父。
注釈
出典
- ^ 花ヶ前 2002, p. 11, 花ヶ前盛明「佐々成政とその時代」.
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- ^ 花ヶ前 2002, p. 17, 花ヶ前盛明「佐々成政とその時代」.
- ^ 花ヶ前 2002, p. 74, 谷口克広「佐々成政とその時代」.
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- ^ 花ヶ前 2002, p. 20, 花ヶ前盛明「佐々成政とその時代」.
- ^ 花ヶ前 2002, p. 77, 谷口克広「佐々成政とその時代」.
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- ^ 花ヶ前 2002, p. 264, 佐々成政研究会「佐々成政史跡事典」.
- ^ 花ヶ前 2002, pp. 201–202, 川口素生「佐々成政逸話・伝説集」.
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- ^ 花ヶ前 2002, pp. 213–214, 川口素生「佐々成政逸話・伝説集」.
- ^ 花ヶ前 2002, p. 37, 花ヶ前盛明「佐々成政とその時代」.
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- ^ a b c d 岩本税、島津義昭、水野公寿、柳田快明『新≪トピックスで読む≫熊本の歴史』弦書房、2007年、100-101頁。ISBN 978-4-902116-85-4。
- ^ 遠藤和子 1986
- ^ a b 松本寿三郎、板楠和子、工藤敬一、猪飼隆明『熊本県の歴史』(第一版第一刷)山川出版社、1999年、150-153頁。ISBN 4-634-32430-X。
- ^ 花ヶ前 2002, p. 33, 花ヶ前盛明「佐々成政とその時代」.
佐々成政
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「長善寺 (名古屋市)」の記事における「佐々成政」の解説
『西春日井郡誌』によれば、地域に残る口伝として、長善寺はかつて比良村(現・名古屋市西区比良)にあり、佐々成政の菩提寺であったが、洪水の影響で現在地に移築したという。
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佐々成政
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史実では前田利家とともに信長の親衛隊として活躍。ゲームでは尾張に住む浪人とされる。「村木の戦い」で村を訪ねれば仕官する。主な兵種は弓足軽、鉄砲足軽(史実でも鉄砲を得意としていた)と飛び道具を得意とする。武将系統は「猛将」。
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佐々成政(さっさ なりまさ)
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「センゴク」の記事における「佐々成政(さっさ なりまさ)」の解説
通称は内蔵助。美濃攻略後に新設された母衣衆の黒母衣衆筆頭に登用された。長篠の戦いでは鉄砲奉行を務める。その後は、柴田勝家の寄騎として北陸方面に侵攻した。
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佐々成政(重戦車)
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46歳。父の代から織田家に仕える譜代家臣。黒母衣衆筆頭でエリート意識が高いが、一本気な性格で涙もろい。言葉よりも行動が目立つ肉体派だが、外見とは裏腹に粗野ではない。弁才が立たないのでそれをひれひかして馬鹿にする秀吉が大嫌いで事あることに反目するが、前田利家とは仲が良いので利家と秀吉が仲が良いことを腹を立てている。また赤母衣衆の金森長近とも仲が悪い。
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