合戦後の経過
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敗将である信行は、信長と信行の母である土田御前の取りなしにより助命され、清洲城で信長と対面して許された。また、信行方の有力武将であった林秀貞と柴田勝家、津々木蔵人も信長に謝罪、忠誠を誓った。 後に信行は再度謀反を企むが、既に信行を見限って信長に与していた老臣の勝家に騙され、弘治3年(1557年)11月2日、信長が病に臥していると聞き訪れた清洲城の北櫓・天主次の間で、信長の命を受けた河尻秀隆らに暗殺された。 なお、秀貞は20年以上後の天正8年(1580年)に信長によって追放されているが、このとき信長は追放理由として稲生の戦いで信長に叛いたことを原因の1つに挙げている。
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合戦後の経過
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尻垂坂の戦い等、一連の攻防で越中中部から駆逐された加賀・越中一向一揆は、これ以降勢力を衰退させていった。元亀4年(1573年)正月、一向一揆は和平を提案したため、越中在陣の謙信は和議を結んだ。この和議をきっかけに、椎名康胤は長尾顕景(後の上杉景勝)・栗林政頼らを介して謙信に再び許しを請い、これを認められた。結果、松倉城 (越中国)が開城した。 謙信は、富山城を押さえ帰路につくが、その途中で武田信玄の使者・長延寺実了の画策により、一揆勢が富山城を占領。謙信は即座に引き返し、富山城を奪還。康胤を再び降伏させた。一揆勢は神通川を渡河して敗走。これにより神通川以東は、完全に謙信の支配下となった。4月25日に謙信は越後に帰国している。 同年7月から8月にかけて、謙信は再度越中へ出陣し、未だ敵対する椎名氏・神保氏・一向一揆を撃破。これにより、ほぼ越中の平定を達成した。これ以降謙信は、関東の北条氏政の動向を牽制しつつ、引き続き加賀・能登へ西進して京への上洛を目指していく。一方の加賀・越中一向一揆は、後に謙信に従うことで和睦し、以降は織田信長を共通の敵とするようになる。尻垂坂の戦いで一揆勢の総大将を務めた杉浦玄任は、加賀へ帰国した後、国主・朝倉義景が織田信長により敗死に追い込まれたため国主不在となった越前へ転戦。天正2年(1574年)、顕如の要請に従い、朝倉氏旧臣を討伐して越前を制圧。大野郡司として亥山城(現・大野市)城主となり、顕如に越前守護として派遣された下間頼照等と共に、越前一向一揆を起こした。
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