や‐ぐら【×櫓/矢倉】
読み方:やぐら
2 城門や城壁の上につくった一段高い建物。敵状の偵察や射撃のための高楼。
3
㋑祭礼・盆踊りなどで、一段高くつくって太鼓や笛を演奏したり、歌をうたったりする構造物。
㋒歌舞伎・人形浄瑠璃などの劇場で、官許の標識として正面入り口の上に造られた構造物。三方に幕を張り、5本の毛槍を横たえ、梵天(ぼんてん)を立てる。
5 戦国時代から近世の軍船に敷設された展望台。大船は船首・中央・船尾の3か所に設けた。安宅船(あたけぶね)や関船などの大型軍船は総櫓といい、船首から船尾まで通す独特の形式に発達した。また、荷船で船体後半に設ける屋形のこと。
6 「櫓投げ」の略。
7 「矢倉囲い」の略。
ろ【×櫓】
ろ【×櫓/×艪】
櫓

デリック
【英】: derrick, drilling mast
同義語: ドリリング・マスト 櫓
ドリリング・リグを構成する象徴的一要素。櫓{やぐら}。鋼製(古くは木製)の部材より成り、そのなかでドリル・パイプやケーシングなどの揚げ降ろしが行われる。近代的な大型ドリリング・リグの場合、デリックは 1.5 百万ポンド以上ものつり荷重に耐えるべく設計されている。高さは約 42m 。デリックとは元来、スタンダード・デリックのことを称し、マストと区別する用語として用いられていたが、今日ではそれらを総称して使われることが多い。前者はいくつかのセクションをクレーンあるいは他の手段で下から順次積み上げて組み立てる方式であるのに対し、後者は既に組み立てて地上であるいは車載で水平になっているものを、油圧あるいはドローワークスで直立させるという簡便な方式である。したがってマストの場合、地理的条件などが許せば、次の掘削地点までの移動に際して、やぐらを解体することなく運搬できるという大きな利点がある。 |

ドリリング・マスト

櫓
櫓
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 15:53 UTC 版)
三重櫓6棟、二重櫓10棟、平櫓4棟、多門櫓26棟 江戸城は幾度にも渡る火災によって焼失し、現存する伏見櫓・富士見櫓・巽櫓なども大正期の関東大震災の際に損壊した後、解体して復元されたものであるため、櫓の構造などを考察するにあたっては、明治初頭に撮影された写真や絵図、指図、文献などが用いられている。 幕末まで現存していた二之丸の蓮池巽三重櫓、蓮池二重櫓の二棟は明治初年に接続する箪笥多聞櫓の火災が延焼し焼失した。 江戸城の櫓は櫓門も含め、白漆喰塗籠壁(寛永度天守除く)に、幕紋の足利二つ引を現す2本の長押形を施し、破風・妻壁には銅板を青海波模様に張っていた。初重に出張を設けて石落としとしているものが多い。これらの特徴の一部は、幕府が関与した二条城や小田原城などの城郭にも施された。 初重平面6間×7間か7間×8間を標準的な規模として、大坂城や名古屋城にも同様に用いた。1871年(明治4年)に記された『観古図説』には、二重櫓の初重平面規模は最小で4間四方(書院出二重櫓)、最大で8間×9間(乾二重櫓)、三重櫓は6間×7間から8間×7間のものが記されている。 多聞櫓は嘗ては本丸・二ノ丸の殆どを囲っていたが、時代を経るごとに本丸西側では塀へと置き換わっていった。 伏見櫓(2019年5月4日撮影。多聞櫓は伏見櫓を挟んだ反対側にもある) 富士見櫓(2019年5月4日撮影) 本丸富士見多聞櫓
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櫓
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 01:14 UTC 版)
建物は、漆喰壁に柿渋塗りの下見板張りの黒い外観が特徴である。天守以外の櫓や門の屋根には反りが少なく破風には直線かむくりが付けられている。多重櫓はすべて望楼型である。
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櫓
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 15:16 UTC 版)
左から、表御門・平櫓・多聞櫓・太鼓櫓。 外郭櫓台跡。 「櫓 (城郭)」も参照 藩政時代における広島城の特徴として、広さ約90万平方メートルの広大な城域を取り囲むように88基の櫓が置かれたことが挙げられる。『広島藩御覚書帖』による各曲輪の櫓基数は、本丸23基、二の丸5基、三の丸17基、外郭43基。上記の通り特に西側を増強し、本川(旧太田川)に沿って11基もの櫓が二重に建てられその間を塀で結ばれている。 1624年(寛永元年)の地震、1854年(嘉永7年)安政南海地震の際に、櫓が崩れた記録が残っている。 明治以降になりこれらは取り壊されたことと、被爆により、江戸時代以前から現存する櫓は存在していない。ほとんどの櫓の位置は現在不明であるが、近年の発掘調査によりいくつか判明している。 二の丸の平櫓・多聞櫓・太鼓櫓および表御門は、1989年(平成元年)から行われた改修の際に再建されたものである。施工は砂原組。これらはつながっており、全部の櫓内部を見学できる。 城址公園以外で櫓の位置がわかるものとして、本川左岸側の空鞘橋東詰南側にある「外郭櫓台跡」の捨石遺構がある。1979年に広島県教育委員会が発掘調査し、刻印が入った石垣が発見されている。 平櫓・多聞櫓・太鼓櫓 表御門 平櫓内部
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櫓
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