がい‐かく〔グワイクワク〕【外郭/外×廓】
そと‐ぐるわ【外▽郭】
曲輪
外郭(四の丸)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/25 22:49 UTC 版)
城内で最も広く、三の丸の南に存在した郭。久留米藩の上級の家臣団の屋敷や御郡支配方、御普請方などの藩役所が多く設けられていた。また、明善堂や祇園社などが置かれていた。現在は福岡地方裁判所久留米支部や久留米市立城南中学校、篠山小学校などがある。 大手門(おおてもん) 外郭の南西に置かれていた、久留米城内最大の門。亀屋町を結んでいたことから亀屋町口橋とも呼ばれていた。久留米城に出入りする門の一つ。城内の門の中で最も格式が高く、藩主の参勤交代交代の際によくこの門が使用されたという。現在は篠山神社の鳥居が立っている。 狩塚橋(かりづかばし) 外郭の南東に置かれていた門。祇園社で行われていた祇園会の際に使用される山車が出入りしていた。現在は久留米商工会議所がある。 祇園社(ぎおんしゃ) 外郭の中心部より少し東側にある神社。875年(貞観17年)に創建された真言宗の寺院。1868年(慶応4年)の神仏判然令により祇園神社(素戔嗚神社)となり、現在に至る。毎年6月に行われた祇園会は久留米城の城下三大祭の一つで、神幸行列は藩主家族も見物する大規模なものだった。 明善堂(めいぜんどう) 外郭の南に存在した藩校。大手門のすぐ北西側に存在した。第8代久留米藩主有馬頼貴が1783年(天明3年)に学問所(藩校)を開いたのが始まりである。1787年(天明7年)には「修道館」と名付けられたが、1794年(寛政6年)に焼失した。1796年(寛政8年)、藩校を再建し新たに「明善堂」と名付けられた。以後、今日の福岡県立明善高等学校に至っている。幕末の勤王家・真木保臣は当藩校の出身である。 御使者屋(おししゃや) 狩塚橋の対岸に存在した久留米藩の迎賓館。1831年(天保2年)に片原町に建設され、明治時代に入ると三潴県役所の庁舎などに使用され、1929年(昭和4年)まで久留米市役所に利用された。その後、鉄筋コンクリート製の市庁舎が建てられ、1995年(平成7年)に現在の市庁舎に代わるまで使われていた。現在は両替町公園となっており、御使者屋を囲んでいた築地塀や玄関口の石垣が保存されている。
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外郭
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「不思議のダンジョン 風来のシレン3 からくり屋敷の眠り姫」の記事における「外郭」の解説
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外郭
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大手前・大名小路 開幕前は侍衆・町人が混在している居住地であったが、開幕後は大名屋敷地となる。大名屋敷の他には大手前には一ツ橋家の屋敷や舂屋(つきや、精米所)・小普請屋敷・北町奉行所が、大名小路には評定所や南町奉行所があった。 総構 「外濠 (東京都)」を参照
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外郭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/21 02:07 UTC 版)
城門は外郭に通じており、そこはかつて構築された際には、多様な管理および給仕の建物が占めていた。「北西の塔」(North-West Tower) は門衛(城門の番人)の詰め所を経由し、一定の収容設備や貯蔵場があった。「南西の塔」(South-West Tower) は城代、あるいは城の衛兵に使用されたと考えられ、パン焼場 (bakehouse) もあった。外郭の南側には、地下室の上に設置された大広間 (Great Hall) や礼拝堂 (Chapel) を含む一連の構造物があり、現在は露呈している。1340年代より残存する石材アーチの1つなどが今もなお見られる。大広間の後ろには、城代が囚人を留置するために使用した「監獄の塔」(Prison Tower) があり、ここには16世紀に「借金を負う者の部屋」(‘dettors chambre’〈‘debtors' chamber’〉) と呼ばれた囚人を収容する別室や地下牢(ダンジョン)などがあった。外郭の北側には、台所 (Kitchen) を始め、醸造所、パン焼場といった一連の給仕の建物が、収容施設や貯蔵室のある「炊事の塔」(Kitchen Tower) のもとにあった。湧き水を源泉とする城の井戸 (Well) が中門の傍ら(外郭の東側)に残り、今日の深さは約 27.8メートル (91 ft) となる。
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外郭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/30 21:10 UTC 版)
面積約7600m2の外郭 (Outer Ward) は、1258年頃、ウィリアム・ド・ヴァランスの時代より増拡が開始され、外郭壁の5か所の円塔、および大きな左右一対のゲートハウス(門楼)にあるバービカン (Barbican) により守られている。外壁と円塔は1260年代より築かれたもので、このうち城守 (constable) と家族が居住した3階建てのゲートハウスより続く西隣りにある円塔が、かつてヘンリー7世の生誕の地であったともいわれ、「ヘンリー7世の塔」(Henry VII Tower) と称されている。城の入口にある半円形のバービカンは、14世紀初頭、エイマー・ド・ヴァランス(英語版)により追加された。また同じく外郭の北東側の「聖アンナの稜堡(堡塁)」(St Anne’s Bastion) と呼ばれる防壁もエイマーにより追加されたものと考えられる。 ペンブルック城は、大きなキープのあるノルマン様式の囲われた城であるが、正確には連鎖型要塞(英語版)とされ、それは13世紀後半のカーナーヴォンやコンウィにある城と同様、水に囲まれ、堅固な高台に建てられたことによる。これは攻め手が狭い前方からしか攻撃し得ないことを意味する。建築的には、ペンブルック城の最も厚い壁ならびにゲートハウスはすべて陸地の町の側面に集中しており、周囲の残りの部分は、湾曲するペンブルック川が自然の防御を施している。
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外郭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/18 22:50 UTC 版)
城の設計は、内郭 (Inner Ward) と外郭 (Outer Ward)を形成し、次いで幅 5.5メートル (18 ft) の水堀 (Moat) に囲まれるが、今日は部分的に埋まる。城の表口は海に最も近い門で、城の潮汐によるドック (Dock) に隣接し、満潮時に海より直接補給することができた。ドックは、後にガナーズ・ウォーク (Gunners Walk) と名付けられた壁ならびに中世時代の攻城兵器のトレビュシェット(投石器)を納めたとされる発射台により防御されていた。海に近い門 (Gate next the Sea) は、跳ね橋、矢狭間、殺人孔で防備された外側のバービカン (Barbican) に入る外郭に通じていた。 外郭は、横幅およそ 60フィート (18 m) の領域を囲む12基のタレット(小塔)を備えた8面のカーテンウォール(幕壁)からなり、一方の出入口は海に近い門 (Gate next the Sea) の前に通じており、もう一方は、スランフェス門 (Llanfaes Gate) が城の北側に通じていた。防御には当初164か所の矢狭間など、約300か所に弓兵の射撃場所が備えられていたが、地上層の64か所の狭間は、後に攻め手に利用されるのを防ぐために、15世紀初頭もしくは内戦のうちに塞がれた。
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