うち‐ぐるわ【内▽郭】
ない‐かく〔‐クワク〕【内郭/内×廓】
曲輪
内郭
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「不思議のダンジョン 風来のシレン3 からくり屋敷の眠り姫」の記事における「内郭」の解説
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内郭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 15:53 UTC 版)
本丸 本丸御殿を擁する江戸城、並びに徳川家、江戸幕府の中心。関東入国後に3つあった曲輪の間にあった空堀を埋めて拡張した。その後、本丸御殿の拡張のために、元和の改修時に北に2段あった出丸の1つを、明暦の大火後に残るもう1つの出丸と二ノ丸の間にあった東照宮を廃して規模を更に拡張している。寛永期に残存していた出丸は的場曲輪として、弓・鉄砲の調練が行なわれていた(『江戸図屏風』)。二ノ丸との間にある白鳥濠は嘗ては両者を大きく隔てていたが、拡張に伴いその面積を大きく縮小させている。 本丸南東より天守台方向 白鳥濠と本丸東側の石垣 蓮池濠と本丸西側の石垣 平川濠と本丸北側の石垣 二ノ丸 入国時は屋敷地で本丸の帯曲輪の様な存在であった。慶長期に中之門が置かれ、また寛永期には拡張されて二ノ丸御殿が造られる。内部は石垣で複数に区画がなされており、下乗門から本丸へ向かうには中之門を、二ノ丸御殿へ向かうには銅門を、西ノ丸方面には寺沢門を通る必要があった。大正時代に二ノ丸と三ノ丸の間にあった堀が埋め立てられている。 三ノ丸 入国時は外郭とされ、日比谷入江と接していた。平川を濠に見立てて、堤防を兼ねた土塁には舟入用にいくつか木戸が設けられていた。 以後は屋敷地とされていたが、二ノ丸拡張の煽りを受けて敷地が大幅に減少した結果、内郭に組み込まれ小さな御殿と勘定所以外は空地となり登城大名の家臣の控え場になる。また、この時に大手門が二ノ丸から三ノ丸に移転している。 西ノ丸 『聞書集』、『霊岩夜話』、『参考落穂集』などによれば、天正年間に徳川家康が入城した頃は、この地は丘原であり、田圃があり、春になれば桃、桜、ツツジなどが咲き、遊覧の地であったという。 1592年(文禄元年)から翌年にかけて、西ノ丸は創建された。創建された当時は、新城、新丸、御隠居城、御隠居曲輪などといった。西ノ丸大手門の内側は西ノ丸内では特に的場曲輪と呼ばれている。西には山里丸があり、徳川家光が小堀政一へ命じて園池茶室を造らせて新山里と呼んだ。その西に山里馬場があり、後門が坂下門である。かつては通行が許され、この門を通り紅葉山下をへて半蔵門に至った。 紅葉山 本丸と西丸の間にある高地で、江戸城内で最も高い場所。かつては日枝神社が祭られており、開幕前には庶民が間を抜けて参拝することができたが、後の拡張で城域に取り込まれたために移転している。その後は東照宮や各将軍の霊廟が造営され、また麓には具足蔵・鉄砲蔵・屏風蔵があった。また西の丸側の麓には、秘閣図書や紅葉山文庫、神官で国学者の鈴鹿連胤が献上した蔵書を収めた御書物蔵があり、1873年の火災で蔵が焼失した際には太政官正院が文書の復旧を命じている。 「紅葉山」も参照 北ノ丸 「北の丸公園」を参照 吹上 「吹上御苑」を参照 西ノ丸下 入国時はほぼ日比谷入江であった場所。海と繋がっていた頃は荷揚げ場や人寄場、天海の屋敷の他に本多忠勝や里見氏の屋敷があったが、継続して埋め立てが行われ海から切り離されて以降は主に幕閣に連なる譜代大名の屋敷地となる。初期には奥の道三堀と接する一帯には和田倉という蔵地が置かれ、蔵がなくなって以降も和田倉門の名が後世に残った。また西側には厩、東側には馬場があり、隣接する門は馬場先門と呼ばれたが、この門は寛文8年(1668年)まで不明門であった。 「皇居外苑」も参照
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内郭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/21 02:07 UTC 版)
内郭はもともと内壁により外郭から隔てられ、跳ね橋、城門が岩盤に切り込まれた溝渠 (Ditch) により防御していた。その溝は16世紀のうちに埋められ、跳ね橋は撤去された。内郭の中には、王室一家の私室があり、その直属の補佐および給仕の施設を備えており、今日、歴史家ジェレミー・アシュビー (Jeremy Ashbee) は、それらを「イングランドとウェールズの中世の王家の私室として極めて保存状態の良い一連の部屋」としている。それらは小規模の王宮を形成するように設計されており、必要となれば城のほかの部分から封鎖し、東門よりほぼ無限に海からの補給が可能であったが、実際にはそれらが王家に使われることはめったになかった。 王室の部屋は、中庭の方に面して、内郭の周囲を巡る一連の建物の2階 (first floor) に位置していた。内郭を守る4基の塔は給仕施設などとともに、北東の「礼拝堂の塔」(Chapel Tower) には私有の王室礼拝堂があった。それぞれの塔には付属する監視塔の小塔(タレット)があり、おそらくは防護ならびに王室旗の掲揚の双方を目的としていた。その配置は本来コーフ城の13世紀の「グロリエッテ」のものに似て、王に自由な私生活と併せて広範な身の安全を備えていた。2組であった部屋は、後に城主の私室 (great chamber)、外側の私室、内側の私室など単一系列の部屋に統合された。 内郭の東側には、城の庭園に囲まれたもう1つの東のバービカン (East Barbican) がある。ここは王室の建物より見晴らせ、年を重ねるにつれて様相が変化した。14世紀初頭には芝が生え、14世紀後半にはつるが絡まり、16世紀には小林檎 (crab-apple) の木や芝があり、17世紀には整った装飾花が植えられた。裏門(英語版)(搦手)は当初小さな桟橋が築かれた川に通じており、要人の来訪における内密の入城や要塞への船による供給が可能であったが、この水門(Water Gate) は現在、その場所に建設された後世の橋により隠れている。 コンウィの建築は、同時代のサヴォイア伯国に見られたものと密接な関連がある。これらには、窓の様式、塔に使われた狭間胸壁の形式、腕木の足場の組み穴 (putlog holes) の位置決めなど、大方はサヴォワの建築家マスター・ジェイムズ(セント・ジョージのジェイムズ)の影響によるものである。とりわけ3つの小尖塔のある鋸壁(英語版)(きょへき〈凸壁、メルロン〉)は、1273年に十字軍からの帰路にエドワードが訪れたサン・ジョーリオ・ディ・スーザのサヴォイア家の城 (it:Castello di San Giorio di Susa) の特徴として見られる。
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内郭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/30 21:10 UTC 版)
面積約2400m2 の内郭(Inner Ward) のカーテンウォール(幕壁)は、大きな馬蹄形(D字型)の入口を持っていた。その西周辺から東の牢獄(ダンジョン)塔 (Dungeon Tower) にかけて、キープの前面に内郭のカーテンウォールが延びていた。入口の塔は2階建てであったともいわれるが、今日、それらは輪郭が残存するのみであり、1640年代に取り壊されたものと考えられる。また、入口の西側内には、おそらく1219-1245年頃、ウィリアム・マーシャルの息子により、礼拝堂ならびに狭い西広間(ヴォールト型〈アーチ形天井〉平屋建て)が追加されていた。 崖沿いには薄い壁だけが必要とされたが、この壁の一部には、北側に小さな監視用タレット(小塔)および厚い壁を備えた正方形の北タレットがあった。 ウィリアム・マーシャルの当初の大広間 (Great Hall) や、私室など居住の建物は内郭のなかにあった。この大広間は「ノルマン広間」(Norman Hall) とも称され、ここには1150-1170年にさかのぼる木造の建物があったとされる。13世紀後半、ド・ヴァランス家の時代には、1280年代のウィリアム・ド・ヴァランス(英語版)の新しい大広間など、追加構造物が内郭に付加された。
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内郭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/18 22:50 UTC 版)
.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}} ビューマリス城の内郭にある未完成の北側ゲートハウス…… ……およびそれに相当するハーレフ城のほぼ完成したゲートハウス 四角形の内郭の壁は、外郭の壁よりもかなり堅固であり、高さ 36フィート (11 m)、厚さ 15.5フィート (4.7 m) (最大4.5m)で、四角の端にある4基の円塔と東西2基のD字形の塔および南北2か所の大きなゲートハウスとともに、0.3ヘクタール (0.74エーカー) の領域を囲んでいた。内郭は、城の収容設備やそのほか城での用向きに使う建物を確保することを意図し、城廊の西側と東側に沿って一連の建物が延びており、これらの建物のいくつかの暖炉の遺構は、いまだ石積みに見ることができる。これらの領域は実のところずっと建設されていたのか、あるいはそれらは建設された後、内戦後に取り壊されたのか定かではない。完成したとすれば、城は多分、2か所に有力な王室とその従者、例えば王と女王、もしくは王、女王と王子、ならびに自身の妻を受け入れることが可能であった。 内郭にあるD字型を有する北側ゲートハウスは、2階層の高さに、5つの大窓が2対あるように計画されたものの、そのうち1階だけしか実際には完成しなかった。おそらくその1階には約 70フィート (21 m) × 25フィート (7.6 m) にわたる大広間などがあり、暖房のために離れた暖炉が2か所に分かれてあった。南側ゲートハウスは、北側にあるものを模写するように計画されていたが、建築作業は1330年に最終段階となるかなり前から全く進んでいなかった。石積みの一部はおそらくその後ゲートハウスから取り去られ、その高さはさらにより低くなっている。 内郭の壁には、広い1階通路などがあり、それらはカーナーヴォン城とよく似ている。これらは城の構成員が塔の間を移動し、衛兵詰所、寝室、また城のトイレに行ける経路となることを目的としていた。トイレは堀からの水を使う専用の装置により排水されるよう設計されていたが、その系統は実際にはうまく機能しなかったようである。6基の塔は3階建て高さになるよう計画され、暖炉などがあった。城のチャペル(礼拝室)が1基の塔 (Chapel Tower) に組み込まれており、そこは城内一美しい部屋であったともいわれ、広範な守備隊ではなく王や王の家族に使われたものと考えられる。
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