内郭とは? わかりやすく解説

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うち‐ぐるわ【内郭】

読み方:うちぐるわ

城の内部にさらに築かれた郭。また、それに囲まれ区域。→外郭(そとぐるわ)


ない‐かく〔‐クワク〕【内郭/内×廓】

読み方:ないかく

城などの内側築かれ囲いまた、その区域うちぐるわ。⇔外郭


内郭

読み方:ナイカク(naikaku)

貨銭の名所の一。貨銭の穿すなわち穴の部分の縁。


曲輪

(内郭 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/24 00:31 UTC 版)

曲輪(くるわ)とは、の内外を土塁、石垣、堀などで区画した区域の名称である。(くるわ)とも書く[注 1]




「曲輪」の続きの解説一覧

内郭

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/20 09:43 UTC 版)

不思議のダンジョン 風来のシレン3 からくり屋敷の眠り姫」の記事における「内郭」の解説

頂上地下王国に繋がるエレベーターがある。

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内郭

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 15:53 UTC 版)

江戸城」の記事における「内郭」の解説

本丸 本丸御殿擁する江戸城並びに徳川家江戸幕府中心関東入国後に3つあった曲輪の間にあった空堀埋めて拡張したその後本丸御殿拡張のために、元和改修時に北に2段あった出丸1つを、明暦の大火後に残るもう1つ出丸二ノ丸の間にあった東照宮廃して規模を更に拡張している。寛永期に残存していた出丸的場曲輪として、弓・鉄砲の調練が行なわれていた(『江戸図屏風』)。二ノ丸との間にある白鳥濠は嘗て両者大きく隔てていたが、拡張に伴いその面積大きく縮小させている。 本丸南東より天守台方向 白鳥濠と本丸東側の石垣 蓮池濠と本丸西側石垣 平川濠と本丸北側の石垣 二ノ丸 入国時は屋敷地本丸帯曲輪の様な存在であった慶長期に中之門が置かれ、また寛永期に拡張され二ノ丸御殿造られる内部石垣複数区画なされており、下乗門から本丸へ向かうには中之門を、二ノ丸御殿へ向かうには門を、西ノ丸方面には寺沢門を通る必要があった。大正時代二ノ丸三ノ丸の間にあった堀が埋め立てられている。 三ノ丸 入国時は外郭とされ、日比谷入江接していた。平川を濠に見立てて堤防兼ねた土塁には舟入用にいくつか木戸設けられていた。 以後屋敷地とされていたが、二ノ丸拡張煽り受けて敷地大幅に減少した結果、内郭に組み込まれ小さな御殿勘定所以外は空地となり登城大名家臣控え場になる。また、この時に大手門二ノ丸から三ノ丸移転している。 西ノ丸聞書集』、『霊岩夜話』、『参考落穂集』などによれば天正年間徳川家康入城した頃は、この地は丘原であり、田圃があり、春になればツツジなどが咲き遊覧の地であったという。 1592年文禄元年)から翌年にかけて、西ノ丸創建された。創建された当時は、新城新丸御隠居城、御隠居曲輪などといった。西ノ丸大手門内側西ノ丸内では特に的場曲輪呼ばれている。西には山里丸があり、徳川家光小堀政一命じて園池茶室を造らせて新山里と呼んだ。その西に山里馬場があり、後門坂下門である。かつては通行許され、この門を通り紅葉山下をへて半蔵門至った紅葉山 本丸西丸の間にある高地で、江戸城内で最も高い場所かつては日枝神社祭られており、開幕前に庶民が間を抜けて参拝することができたが、後の拡張城域取り込まれたために移転している。その後東照宮や各将軍霊廟造営され、また麓には具足鉄砲屏風があった。また西の丸側の麓には、秘閣図書紅葉山文庫神官国学者鈴鹿連胤献上した蔵書収めた御書があり、1873年火災焼失した際には太政官正院文書復旧命じている。 「紅葉山」も参照 北ノ丸北の丸公園」を参照 吹上吹上御苑」を参照 西ノ丸下 入国時はほぼ日比谷入江であった場所。海と繋がっていた頃は荷揚げ場や人寄場天海屋敷の他に本多忠勝里見氏屋敷があったが、継続して埋め立てが行われ海から切り離され以降は主に幕閣連なる譜代大名屋敷地となる。初期には奥の道三堀接す一帯には和田倉という蔵地置かれなくなって以降和田倉門の名が後世残った。また西側には厩、東側には馬場があり、隣接する門は馬場先門呼ばれたが、この門は寛文8年1668年)まで不明門であった。 「皇居外苑」も参照

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内郭

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/21 02:07 UTC 版)

コンウィ城」の記事における「内郭」の解説

内郭はもともと内壁により外郭から隔てられ跳ね橋城門岩盤切り込まれ溝渠 (Ditch) により防御していた。その溝は16世紀のうちに埋められ跳ね橋撤去された。内郭の中には王室一家私室があり、その直属補佐および給仕施設備えており、今日歴史家ジェレミー・アシュビー (Jeremy Ashbee) は、それらを「イングランドとウェールズ中世王家私室として極めて保存状態良い一連の部屋」としている。それらは小規模王宮形成するように設計されており、必要となれば城のほかの部分から封鎖し東門よりほぼ無限に海からの補給が可能であったが、実際にはそれらが王家使われることはめったになかった。 王室部屋は、中庭方に面して、内郭の周囲を巡る一連の建物2階 (first floor) に位置していた。内郭を守る4基の塔は給仕施設などとともに北東の「礼拝堂の塔」(Chapel Tower) には私有王室礼拝堂があった。それぞれの塔には付属する監視塔の小塔(タレット)があり、おそらくは防護ならびに王室旗掲揚双方目的としていた。その配置は本来コーフ城13世紀の「グロリエッテ」のものに似て、王に自由な私生活併せて広範な身の安全を備えていた。2組であった部屋は、後に城主私室 (great chamber)、外側私室内側私室など単一系列部屋統合された。 内郭の東側には、城の庭園囲まれたもう1つの東のバービカン (East Barbican) がある。ここは王室建物より見晴らせ年を重ねるにつれて様相変化した14世紀初頭には生え14世紀後半にはつるが絡まり16世紀には小林檎 (crab-apple) の木やがあり、17世紀には整った装飾花植えられた。裏門英語版)(搦手)は当初小さな桟橋築かれた川に通じており、要人来訪における内密入城要塞への船による供給が可能であったが、この水門(Water Gate) は現在、その場所に建設され後世により隠れている。 コンウィ建築は、同時代サヴォイア伯国見られたものと密接な関連がある。これらには、窓の様式、塔に使われ狭間胸壁形式腕木足場組み穴 (putlog holes) の位置決めなど、大方はサヴォワ建築家マスター・ジェイムズセント・ジョージジェイムズ)の影響よるものである。とりわけ3つの小尖塔のある鋸壁(英語版)(きょへき〈凸壁、メルロン〉)は、1273年十字軍からの帰路エドワード訪れたサン・ジョーリオ・ディ・スーザサヴォイア家の城 (it:Castello di San Giorio di Susa) の特徴として見られる

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内郭

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/30 21:10 UTC 版)

ペンブルック城」の記事における「内郭」の解説

面積約2400m2 の内郭(Inner Ward) のカーテンウォール(幕壁)は、大きな馬蹄形(D字型)の入口持っていた。その西周辺から東の牢獄ダンジョン)塔 (Dungeon Tower) にかけて、キープ前面に内郭のカーテンウォール延びていた。入口の塔は2階建てであったともいわれるが、今日、それらは輪郭残存するのみであり、1640年代取り壊されたものと考えられるまた、入口西側内には、おそらく1219-1245年頃ウィリアム・マーシャル息子により、礼拝堂ならびに狭い西広間(ヴォールト型〈アーチ形天井平屋建て)が追加されていた。 崖沿いには薄い壁だけが必要とされたが、この壁の一部には、北側小さな監視タレット(小塔)および厚い壁を備えた正方形の北タレットがあった。 ウィリアム・マーシャル当初大広間 (Great Hall) や、私室など居住建物は内郭のなかにあった。この大広間は「ノルマン広間」(Norman Hall) とも称され、ここには1150-1170年にさかのぼ木造建物があったとされる13世紀後半、ド・ヴァランス家の時代には、1280年代のウィリアム・ド・ヴァランス(英語版)の新し大広間など、追加構造物が内郭に付加された。

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内郭

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/18 22:50 UTC 版)

ビューマリス城」の記事における「内郭」の解説

.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}} ビューマリス城の内郭にある未完成北側ゲートハウス…… ……およびそれに相当するハーレフ城のほぼ完成したゲートハウス 四角形の内郭の壁は、外郭の壁よりもかなり堅固であり、高さ 36フィート (11 m)、厚さ 15.5フィート (4.7 m) (最大4.5m)で、四角の端にある4基の円塔と東西2基のD字形の塔および南北2か所の大きなゲートハウスとともに、0.3ヘクタール (0.74エーカー) の領域囲んでいた。内郭は、城の収容設備そのほか城での用向きに使う建物確保することを意図し、城廊の西側東側沿って一連の建物延びており、これらの建物いくつかの暖炉遺構は、いまだ石積みに見ることができる。これらの領域実のところずっと建設されていたのか、あるいはそれらは建設された後、内戦後取り壊されたのか定かではない完成したとすれば、城は多分、2か所に有力な王室とその従者例えば王と女王もしくは王、女王王子ならびに自身の妻を受け入れることが可能であった。 内郭にあるD字型を有する北側ゲートハウスは、2階層の高さに、5つの大窓が2対あるよう計画されたものの、そのうち1階だけしか実際に完成しなかった。おそらくその1階には約 70フィート (21 m) × 25フィート (7.6 m) にわたる大広間などがあり、暖房のために離れた暖炉が2か所に分かれてあった。南側ゲートハウスは、北側にあるものを模写するように計画されていたが、建築作業1330年最終段階となるかなり前から全く進んでいなかった。石積み一部はおそらくその後ゲートハウスから取り去られ、その高さはさらにより低くなっている。 内郭の壁には、広い1階通路などがあり、それらはカーナーヴォン城とよく似ている。これらは城の構成員が塔の間を移動し衛兵詰所寝室、また城のトイレ行ける経路となることを目的としていた。トイレは堀からのを使う専用装置により排水されるよう設計されていたが、その系統実際にはうまく機能しなかったようである。6基の塔は3階建て高さになるよう計画され暖炉などがあった。城のチャペル礼拝室)が1基の塔 (Chapel Tower) に組み込まれており、そこは城内一美しい部屋であったともいわれ、広範な守備隊ではなく王や王の家族に使われたものと考えられる

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