さん‐きょう〔‐ケウ〕【桟橋】
さん‐ばし【桟橋】
桟橋
桟橋
作者森鴎外
収載図書普請中 青年―森鴎外全集 2
出版社筑摩書房
刊行年月1995.7
シリーズ名ちくま文庫
収載図書森鴎外
出版社筑摩書房
刊行年月2000.10
シリーズ名明治の文学
桟橋
桟橋
桟橋
桟橋
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/05 14:38 UTC 版)
桟橋(さんばし、英語: pier)は、船舶を接岸係留(繋留)して荷役や乗降を行うための施設[1]。係船施設(係留施設)の一種である[2]。英語のLanding pierの訳に重きを置くと、平面的に見て突出した埠頭を広く意味することになり、浮桟橋をも含む[1]。しかし、日本語の「桟橋」は本来は構造上の意味を加味したものをいい、浮桟橋に対して固定桟橋(固定式桟橋)という[1][2]。
「桟」がかつての当用漢字に入っていなかったことから、さん橋と表記される場合もある[3][4]。港湾法における港湾施設の一つ[5]。
種類
配置による分類
- 縦桟橋(突堤桟橋)
- 護岸に対して直角に桟橋を設ける形式[2]
- 横桟橋(片桟橋[1])
- 護岸に平行に桟橋を設ける形式[2]
- 島桟橋(島式桟橋、Detached pier[1])
- 護岸から離れた一定の水深を確保した場所に設ける形式[2]
構造による分類
- 直杭式桟橋
- 多くの杭を打設する一般的な桟橋の形式[6]。
- 組杭式桟橋
- 鋼管杭などの斜杭を設けた組杭による形式[6]。
- ストラット式桟橋
- 杭とストラットを連結して上部構造を補強した形式[6]。
- ジャケット式桟橋
- 上部工の立体トラス構造物と杭と一体化したジャケットを製作して大型クレーンで設置する形式[2][6]。
ギャラリー
- ヘリングスドルフ桟橋 - バルト海ウセドム島(Seebrücke, Heringsdorf)
脚注
注釈
出典
- ^ a b c d e 鈴木雅次『港工学』常磐書房、1932年、534-535頁 。
- ^ a b c d e f 谷口正輝、木村光俊、加藤克一、横川勝則「PC桟橋」『プレストレストコンクリート』第58巻第1号、プレストレストコンクリート工学会、2016年、87-90頁。
- ^ “横浜・大さん橋の乗り場・駐車場|東海汽船”. 東海汽船株式会社 | 伊豆諸島へ行く船旅・ツアー. 2020年3月19日閲覧。
- ^ 馨, 沢原. “横浜港の大パノラマ!「大さん橋」は絶景が広がる展望スポット | 神奈川県”. LINEトラベルjp 旅行ガイド. 2020年3月19日閲覧。
- ^ 港湾法 - e-Gov法令検索第2条第5項第3号
- ^ a b c d “5. ティラワ地区港整備計画”. 国際協力機構. 2024年3月5日閲覧。
- ^ 安田産業汽船株式会社. “安田産業汽船株式会社”. 2022年12月24日閲覧。→博多湾内航路→時刻表(ももち~海の中道)
関連項目
桟橋
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/09 07:06 UTC 版)
「チャールストン (サウスカロライナ州)」の記事における「桟橋」の解説
コロンバス・ストリート・ターミナル ノースチャールストン・ターミナル、ノースチャールストンにある ユニオン・ピア・ターミナル ベテランズ・ターミナル、ノースチャールストンにある ワンドー・ウェルチ・ターミナル、マウント・プレザントにある 港に対する需要が増しているので新しいターミナルが建設中である。場所はノースチャールストン市の元海軍造船所。
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桟橋
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 06:33 UTC 版)
1908年(明治41年)3月7日の開設当初は、青森、函館とも連絡船が着岸できる岸壁はなく、沖繋りで、旅客、貨物は小蒸気船や艀を用いて乗下船、荷役が行われた。 青森桟橋 開設当初は連絡船着岸岸壁はなく、連絡船は数100m沖に錨泊し、小蒸気船や艀が、後に建設される、最も南側に位置した車載客船・車両渡船岸壁(建設当初は第2岸壁、戦後は第1岸と呼ばれた)の向かい側付近にあった第2船入澗に着岸していた。ここは青森駅至近のため、1898年(明治31年)、当時青函航路を経営していた日本郵船と、青森に至る鉄道を経営していた日本鉄道が共同で築造したもので、国鉄連絡船開設当初も日本郵船と共用で、国鉄は西と南側の岸壁を使用した。しかしここだけでは狭隘なため、1908年(明治41年)5月、青森駅駅裏に貨物専用の艀岸壁として第1船入澗も完成させ、艀岸壁の客貨分離を行った。1910年(明治43年)には第2船入澗南側に食堂併設の連絡船待合所を設けた。1914年(大正3年)12月開始された鉄道車両艀車運丸による車両航送用の桟橋は、この第1船入澗内に木製門構えに鋼製桁を用いて建設された。1921年(大正10年)1月、西防波堤の一部完成を受け、防波堤内に係船浮標を設置し、比羅夫丸型で運航される客便の1便・2便に限りここに係留した。1923年(大正12年)12月15日からは、一部完成した車載客船・車両渡船岸壁(南側から2番目、建設当初は第1岸壁、戦後の第2岸壁と呼ばれた)を先行使用する形でようやく直接着岸可能となった。 上記の岸壁は1924年(大正13年)3月31日竣工した後、引き続き車載客船・車両渡船の船尾部を係留するポケット部分と可動橋設置工事が行われ、1925年(大正14年)4月25日竣工し、青森駅の航送線完成を待って、同年5月21日から試験車両航送が開始された。さらに同年7月17日の本州以南の自動連結器への一斉交換作業完了により、北海道内外の車両の連結器が統一され、相互運行が可能となり、同年8月1日から車両航送が正式に開始された。 桟橋待合所は、この岸壁上に1923年(大正12年)11月19日に着工され、1924年(大正13年)11月18日竣工使用開始、これにより青森駅プラットホームから階段と跨線橋を通って乗船可能となった。 しかし、函館の2岸壁に対し、青森側1岸壁では容量不足のため、1926年(大正15年)9月、この岸壁の南側、第2船入澗の入江を更に南西に掘り込む形で岸壁増設工事が始まり、 1928年(昭和3年)8月11日に岸壁工事が、9月20日には可動橋が竣工し、同年10月から使用開始された。これが青森第2岸壁で、戦後は第1岸壁と呼称された最も南側の岸壁で、対岸の安方岸壁は補助汽船岸壁として使用された。なお、この第2岸壁への手荷物昇降機設置遅れのため、恒常的な旅客扱い便の発着は1929年(昭和4年)からとなった。 1936年(昭和11年)以降、貨物輸送量が急増し、1937年(昭和12年)の日中戦争勃発以降は前年比120%前後の伸びを示し、1940年(昭和15年)の貨物輸送量は213万トンと、1936年(昭和11年)の110万トン弱の2倍に達し、更に増加を続けていた。このための、車両渡船増強による運航便数増加が図られ、これに対応するため、1940年(昭和15年)11月、第1岸壁の北側に延びる西防波堤の外側に、埋め立てにより貨物専用の第3岸壁の建設工事に着手し、1944年(昭和19年)3月完成。その後、西防波堤を撤去して同年5月1日から昼間のみ使用開始し、7月20日から昼夜の使用開始した。しかし1945年(昭和20年)7月の空襲で、可動橋が大破、使用不能となり、終戦後の1946年(昭和21年)3月末から6月末まで、後述のLST改装貨車渡船の青森側専用桟橋になったこともあったが、1946年(昭和21年)11月には修復工事完了。 この3岸壁体制は、その後1988年(昭和63年)3月の終航まで続いたが、戦後は南側から順に、第1、第2、第3岸壁と呼ばれ、第1岸壁と第2岸壁には旅客乗降設備があり、北端の第3岸壁は貨物便専用であった。 更に津軽丸(2代)型によって、1967年(昭和42年)6月1日開始された乗用車航送に対応するため、第1岸壁船尾右舷の副岸から、津軽丸型の遊歩甲板に至る斜路が設置された。しかし当初、青森駅から東へ向かう臨港線を渡る踏切があったため、1970年(昭和45年)1月19日、この部分の道路を高架化して踏切を解消した。更に1982年(昭和57年)4月1日開始の 石狩丸(3代)型 による乗用車航送のため、同じく第1岸壁船尾右舷副岸に、津軽丸型用の斜路の船首側に隣接して石狩丸型の船楼甲板舷門に至る斜路も設置された。 函館桟橋 函館側も開設当初は連絡船着岸岸壁はなく、連絡船は数100m沖合に錨泊し、小蒸気船や艀に乗換える必要があった。函館駅裏の海岸には、後に第1船入澗の北側護岸となる防波堤が1905年(明治38年)完成し、これに守られた小桟橋があり、小蒸気船や艀はここに着岸した。 1910年(明治43年)12月15日、その後の若松埠頭の基部から西方に342m突き出したT字型の木造桟橋を建設し、先端部即ち西面に連絡船が1隻着岸できるようにした、更に1914年(大正3年)2月26日には桟橋及び通路を拡張し、桟橋北側を浚渫して、北面にも1隻着岸できるようにた。1913年(大正2年)5月の函館大火で駅本屋が類焼したのを機に、1914年(大正3年)12月25日には連絡船待合所を桟橋先端付近に新設、翌1915年(大正4年)6月16日には、この桟橋上まで鉄道を延長し、函館桟橋乗降場が開業、船車連絡時間の画期的短縮が図られた。また1914年(大正3年)12月就航の鉄道車両艀車運丸用桟橋が、木造桟橋の北で、後に第3船入澗となる海岸に木製門構えに鋼製桁を用いて建設された。 木造桟橋完成後も、貨物の荷役には艀が使用され、1915年(大正4年)には駅裏の防波堤周囲を埋め立てて第1船入澗が築造され、小蒸気船や艀はここに着岸し、中継貨物ホームも建設された。更に、第1次世界大戦(1914年~1918年)による船腹不足は、海運貨物の鉄道への転移を招き、青函航路も増大する貨物需要に対応しきれず、混乱状態に陥った。1921年(大正10年)には第1船入澗の北側に第2船入澗、第3船入澗が相次いで築造され、第3船入澗には車運丸用の可動橋が設置されていたが、これは車運丸終航後、1927年(昭和2年)7月11日から終戦まで函館ドックへの貨車艀桟橋として使用された。 この貨物輸送混乱が契機となって、青函航路の車両航送が開始されたが、このための車両渡船用岸壁を2バース持つ若松埠頭が木造桟橋のすぐ南側に建設された。この埠頭建設にあたり、1924年(大正13年)4月25日より木造桟橋西面バースを使用停止し撤去開始。一部客貨便を沖繋りに戻し、同年5月1日には桟橋乗降場への列車運転も停止。同年10月1日には若松埠頭先端部の岸壁(当時は第1岸壁と呼称、1945年(昭和20年)6月以降は第2岸壁と呼称)が一部竣工し使用開始、これに伴い同日木造桟橋は廃止された。同年10月4日には若松埠頭上に建設された鉄筋コンクリート3階建ての連絡船待合所1階に完成した1面2線の新しい函館桟橋駅も使用開始した。翌1925年(大正14年)5月20日には、同岸壁の可動橋が竣工したため、同年5月21日より翔鳳丸型による試験車両航送が開始され、同年8月1日から正式に車両航送が開始された。また同年6月1日からは手前側の岸壁(当時は第2岸壁と呼称、1945年(昭和20年)6月以降は第1岸壁と呼称)の使用も開始されたが、可動橋使用は同年9月5日からで、同年10月14日を以って若松埠頭築造工事は完了した。 これら2岸壁はともに旅客乗降設備を備えていた。更に津軽丸(2代)型によって1967年(昭和42年)6月1日開始された乗用車航送に対応するため、第2岸壁左舷船尾岸壁に乗用車を津軽丸型の遊歩甲板まで上昇させるエレベーターが設置された。更に1982年(昭和57年)4月1日開始の 石狩丸(3代)型 による乗用車航送のため、同じく第2岸壁左舷船尾岸壁に、津軽丸型用のエレベーターのすぐ船首側に隣接して石狩丸型の船楼甲板までのエレベーターが設置された。 有川桟橋(函館桟橋有川支所) 青森第3岸壁と同じ理由で、1941年(昭和16年)4月、若松埠頭の約3km北の港口近くを埋め立てる有川埠頭建設工事に着手、 1944年(昭和19年)1月3日には埠頭基部の有川第1岸壁が、1944年(昭和19年)11月17日には先端側の有川第2岸壁が竣工した。翌1945年(昭和20年)5月にはそれぞれ、函館第3岸壁、函館第4岸壁へ呼称変更された。これに合わせ、有川桟橋と直結する五稜郭操車場新設工事が1942年(昭和17年)4月に着工され、1944年(昭和19年)9月に完成している。 しかし、太平洋戦争勃発と、その後のおびただしい商船の喪失により、北海道炭の本州への輸送の大部分を鉄道が担うことになり、青函航路の一層の増強が求められた。このため、有川埠頭では、第4岸壁の裏側に、従来とは逆の右舷着けの第5岸壁を建設する工事が続けられ、岸壁の本工事は完成したが、船尾部未完成で終戦を迎えた。 戦後、一向に回復しない青函航路の貨車航送能力に業を煮やした進駐軍は、1945年(昭和20年)12月24日、自ら貸与するLST(戦車揚陸艦)(排水量(計画満載)3,590トン)を速やかに貨車渡船に改装して就航させよ、との命令を下した。このため、無蓋貨車トム換算20両積載のLST Q021、LST Q022号のLST改装貨車渡船2隻を使用した貨車航送が1946年(昭和21年)3月31日から開始された。函館側はこの未完の第5岸壁がLST用岸壁として使用され、青森側は当初、空襲で可動橋が大破していた青森第3岸壁が使用されたが、7月1日以降は小湊に変更された。しかしLST Q022号は翌1947年 1月末、平館海峡東岸、貝埼沖で座礁大破し、以後稼働することなく同年8月返還されたが、LST Q021 はその後も稼働し、1948年(昭和23年)2月末返還された。 戦後も有川桟橋は函館第3岸壁、第4岸壁の2岸壁を擁し、貨物便専用桟橋として長らく青函航路の一角を担ってきたが、1970年代後半(昭和50年代前半)以降の国鉄貨物の急激な減少による貨物便の削減により、1984年(昭和59年)2月1日を以って廃止された。 小湊桟橋 北海道炭の鉄道輸送に対応するため、1943年(昭和18年)12月に着工された。東に突出する長さ128mの突堤の両側に車両渡船を停泊させる2岸壁構造の車両渡船桟橋と、その南に隣接して南側へ突出する機帆船用岸壁で、工事は遅々として進まず、終戦で以後工事は中断していた。戦後、1945年(昭和20年)12月末、上記進駐軍貸与のLST改装車両渡船の青森側桟橋に小湊が選ばれ、これに対応する桟橋設置工事が未完の車両渡船桟橋の北側で直ちに開始された。コンクリートケーソン2個を海岸から直角に沈埋してドルフィン代用とし、橋台もコンクリート製で、1946年(昭和21年)3月完成し、小湊駅からの小運転線利用で、1946年(昭和21年)7月1日から、運航開始された。しかし片道8時間もかかる上、給油のため往復8日もかけて横須賀まで戻らなければならないなど問題が多く、1948年(昭和23年)2月には運航休止となった。この間に本来の車両渡船桟橋や機帆船岸壁の工事も再開され、機帆船岸壁は青函航路補完の石炭・魚類・雑貨輸送の機帆船で一時活況を呈していた。また東北本線の小湊-清水川間には、小湊桟橋の航送貨車を扱う小湊操車場が、桟橋と同じ1943年(昭和18年)12月に着工されており、そこから桟橋に至る臨港線工事も含め、1948年(昭和23年)10月27日に竣工したが、翌1949年(昭和24年)からは撤去工事が開始された。この直前の1948年(昭和23年)10月10日、ほぼ完成した小湊桟橋の左舷着けの岸壁では第六青函丸による着岸試験も行われたが、以後工事は見合され、本格的な車両航送は行われないまま、1949年(昭和24年)7月15日、桟橋は業務停止となった。 なおLST用桟橋跡と、ほぼ完成しながら放棄された車両渡船桟橋、機帆船桟橋は平内町大字東滝字浅所にあり、現在は漁港となっている。 代行貨物輸送等 1949年(昭和24年)2月〜3月、岩手県内の山田線における、前年9月のアイオン台風被害により孤立した機関車と貨車を、宮古港から仮設可動橋により船積みし、青森まで十勝丸(初代)で航送した。5往復で機関車8両、貨車55両(資料によっては61両)。 1966年(昭和41年)8月、集中豪雨による東北本線、奥羽本線不通のため、空知丸(初代)による函館 - 川崎間貨車22両バラ積輸送、檜山丸(初代) 車両甲板に枕木を敷きつめ、青函間トラック輸送が行われた。 1967年(昭和42年)9月、室蘭本線の豊浦 - 洞爺間が集中豪雨で不通となったため、9月28日~10月11日は貨車バラ積み輸送。 10月12〜18日は室蘭港に未使用の橋梁を運び込んで仮設可動橋を設置し、青森との間で車両航送が行われた。使用船は檜山丸(初代)・空知丸(初代)。 これらのほかに、鉄道不通区間の代行として旅客のみの航路外輸送なども行った。 青森桟橋の航空写真(1975年)。車両航送開始以前に、ハシケを着岸させていた第2船入澗は、第1岸壁前水面の東側半分付近に位置した。駅西側の入江が貨物ハシケ用の第1船入澗で、かつて車運丸用可動橋も設置されていた。入江内北側の弧を描く岸壁線は昔の防波堤である。青森第1岸壁は長さ137m、第2岸壁は284m、第3岸壁は165mであった。第3岸壁建設以前は、第2岸壁北端手前付近から西防波堤が東へ延びていた。画面右端にわずかに見えるのが旧北防波堤で、現在はこれより南側が埋め立てられて公園になっている。なおこの写真で第1岸壁停泊中の津軽丸型連絡船船尾右舷へ、乗用車積載用斜路が伸びているが、この斜路は途中で東方へ向かう臨港線も跨いでいる。第2岸壁停泊船も津軽丸型で、第3岸壁停泊船は旧型ディーゼル船の檜山丸型である。また第2岸壁先端付近に綱取り艇、第1岸壁向かいの安方岸壁には補助汽船が停泊している。 函館桟橋の航空写真(1976年)。若松埠頭北側の入江が第1船入澗で、その防波堤と北側岸壁が、国営航路開設時の駅裏の防波堤であった。ここの東側岸壁の線が開設時の海岸線であった。この北側には、第2船入澗、車運丸用可動橋が設置されていた第3船入澗もあったが、既に埋め立てられ函館運転所となっていた。木造桟橋は函館第1岸壁可動橋付近から342m西方へ延び、若松埠頭先端に並ぶ位置まで達していた。第1岸壁の長さは125mで、第2岸壁は建設当初は108mと短く、1959年に40m延長して148mとなった。この写真では埠頭先端から突出したこの延長部分が確認できる。その後1982年に更に17m延長して165mとなった。なお第2岸壁停泊船は津軽丸型で、若松埠頭南面と西面には補助汽船や綱取り艇が停泊している。1924年10月に連絡船待合所1階に建設された1面2線の函館桟橋駅ホームは、1976年当時の函館駅3・4番線ホームの南西側約半分に相当し、写真の桟橋待合所から同ホームの真上を通って駅本屋へ向かう通路が同ホームから南東に外れるあたりまでの長さであった。一方、1924年10月当時の函館駅ホームは、1976年当時の函館駅1・2番線ホームの本屋跨線橋から北東側のみの1面2線で、この函館桟橋駅と函館駅の両ホームが複線で直列に繋がり、途中に両渡り線を設置していたが、線路容量増大のため、1930年11月、函館桟橋駅ホームを本屋跨線橋まで延長して函館駅3・4番線とし、従来からの1・2番線と並列配置にして2面4線とした。 有川桟橋の航空写真(1976年)。函館第3岸壁、第4岸壁はともに長さ170mであった。第3岸壁には津軽丸型が、第4岸壁には渡島丸型が停泊し、第5岸壁北の船入澗には補助汽船と綱取り艇が停泊している。 国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成
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桟橋
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「マリオカート ツアー」の記事における「桟橋」の解説
「GBA プクプクアイランド」に登場する。縁でジャンプアクションができる。
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桟橋
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桟橋
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「よこはま・しんやました海の駅」の記事における「桟橋」の解説
専用のビジター桟橋を持つ。係留無料。電話で問い合わせてから桟橋を利用する。 船で行けるレストランとして海の駅となっている。 北緯35度26分31秒 東経139度39分40秒 / 北緯35.44194度 東経139.66111度 / 35.44194; 139.66111 (タイクーン) 横浜東部 - 地理院地図 タイクーン - Google マップ
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桟橋
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ビジターバース数約12隻、宿泊が可能。24時間365日入出港可能。 海から行く場合、三枚洲に注意。 北緯35度39分7秒 東経139度49分37秒 / 北緯35.65194度 東経139.82694度 / 35.65194; 139.82694 (東京夢の島マリーナ) 東京南部 - 地理院地図 東京夢の島マリーナ - Google マップ
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