本丸
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本丸(ほんまる)とは、日本の城の中核となる曲輪(くるわ)の名称である。一の曲輪・本曲輪・一の丸(『日葡辞書』)とも称される。中世城郭では、本城、実城(みじょう)、詰丸などと呼ばれ、城によって呼び名が異なる。日本の中世考古学においては主郭(しゅかく)と呼称される。
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- 1 本丸とは
- 2 本丸の概要
本丸御殿
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/25 22:49 UTC 版)
久留米城の中心となった建物で、内部では歴代藩主が政務を執っていた。1874年(明治7年)の廃城令によって解体された。本丸の中心部に位置しており、現在は篠山神社の本殿・拝殿があるほか、北西側に置かれた大井戸が現存する。
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本丸御殿
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 15:53 UTC 版)
本丸御殿は表・中奥・大奥が南から北にこの順で存在する。表は将軍謁見や諸役人の執務場、中奥は将軍の生活空間であるが、政務もここで行った。大奥は将軍の夫人や女中が生活する空間である。大奥は表や中奥とは銅塀で遮られ、一本(後に二本)の廊下でのみ行き来ができた。 将軍の御殿としての最初の本丸御殿は1606年(慶長11年)に完成、その後1622年(元和8年)、1637年(寛永14年)(同16年焼失)、同17年(明暦の大火で焼失)、1659年(万治2年)(1844年(天保15年)焼失)、1845年(弘化2年)(1859年(安政6年)焼失)、1860年(万延元年)(1863年(文久3年)焼失)と再建・焼失を繰り返した。文久の焼失以降は本丸御殿は再建されずに、機能を西ノ丸御殿に移した。 表・中奥 主要な御殿として西側に大広間・白書院・黒書院・御座之間・御休息が雁行しながら南から北に配置された。表東側には表向の諸職の詰所や控室、中奥東側には側衆配下の詰所・控室や台所などがある。大老・老中・若年寄の執務・議事場は当初は御座之間にあったが、堀田正俊刺殺事件により表と中奥の間に御用部屋が設けられた。彼らと将軍の仲介者である側用人又は御側御用取次は中奥の中央に詰所があった。 表は儀礼空間であり御殿の改変は少ないが、中奥は各将軍の好みに応じて頻繁に改造された。表と中奥は大奥と異なり構造的には断絶していないが、時計之間と黒書院奥の御錠口でのみ出入ができた。しかし表の役人は中奥には御座之間への将軍お目見え以外は立ち入ることは出来ず、奥向の役人とは時計之間で会話を交わした。 大広間 本丸御殿中で最高の格式と最大の規模を有する御殿。東西方向50メートル、約500畳に及ぶ広大な建物。寛永17年の大広間には大屋根があったが、焼失後の再建では中央に中庭が設けられ、屋根を低くした。 大広間は将軍宣下、武家諸法度発布、年始等の最も重要な公式行事に用いられ、主な部屋は上段・中段・下段・二之間・三之間・四之間があり、西北から反時計回りで配置された。南東の南には中門が、東には御駕籠台があり大広間の権威を象徴する。また南面の向かい側には表能舞台があり、大きな祝い事がある際の能の催しでは、その内の一日を町入能として町人が南庭で能を見ることを許した。 白書院 大広間に次ぐ格式を有する御殿。大広間と松之廊下で繋がり、上段・下段・帝鑑之間・連歌之間を主な部屋として約300畳の広さを持つ。表における将軍の応接所として公式行事に用いられ、御暇・家督・隠居・婚姻の許可への御礼時に諸大名はここで将軍と面会した。他に年始の内、越前松平家・加賀前田家とはここで対面をし、また勅使・院使を迎える際には下段を宴席の間とした。 黒書院 白書院と竹之廊下で繋がり、主な部屋として上段・下段・西湖之間・囲炉裏之間があり約190畳の広さを持つ。他の御殿が檜造に対し、総赤松造である。将軍の日常生活における応接所として用いた。 御座之間・御休息 これらは将軍の居住空間として前者は上段・下段・二之間・三之間・大溜で構成される中奥の応接所で政務を執る場、後者は上段・下段のみで寝室や居間として用いた。中奥は表向の役人は原則として出入りを禁じられたが、将軍と御目見する時のみ御座之間に入ることができた。当初、将軍は御座之間にいたが寝室として御休息、更にプライベートな空間として御小座敷等が造られた。 御休息は将軍の代替わり毎に建て替えが行われ、御小座敷の周辺も改造が多い。例えば能を好んだ徳川綱吉の時分には御休息の右に能舞台があり、また当時頻発した地震対策として「地震之間」なる避難場所が中庭の二ヶ所に設置された。逆に徳川吉宗は華美な御休息を壊し、一時期は廊下の一部を区画してそこで寝起きをした。 大奥 「大奥」を参照 本丸御殿表向模型、右から白書院、松の廊下、大広間 白書院模型 松の廊下から大広間 本丸御殿表能舞台 大広間上段西面 大広間下段西面 白書院上段下段
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本丸御殿
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 09:47 UTC 版)
本丸の中央部に存在した建物で城主の居館として使用された。本丸御殿跡からは茶碗などの食器が出土している。規模は東西約11メートル、南北約12.7メートルで面積約138.6平方メートル。2棟の建物があり、南棟の南側には廊下が存在した。礎石の一部が現存する。1953年(昭和28年)に鳥竜神社再建の際に整地のために礎石を石材として転用して一部の原型を崩されてしまい、詳しい構図はよく分かっていない。
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本丸御殿
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本丸御殿は二条離宮時代に京都御苑にある京都御所の北にあった旧桂宮邸(1847年建築)を明治天皇の意向により1893年(明治26年)から1894年(明治27年)にかけて移築したもので、徳川家の二条城とは本来無関係の建物である。しかし、この本丸御殿(旧宮邸)は幕末には孝明天皇の仮皇居となっていたことや、皇女和宮親子内親王はこの御殿に暮しここから江戸へ嫁いでいる由緒ある御殿である。 また、移築された本丸御殿は主に皇太子時代の大正天皇が10回滞在された等、離宮としても重要な役割も果たした。 過去には春と秋に期間限定で公開されていたが、耐震性の不足が判明したため2007年(平成19年)春を最後に公開を中止して以降、内部は公開されていない。もともとあった京都御苑内の敷地には、築地塀と表門と勅使門、また庭園や池も現存している。 本丸御殿の南には、洋風庭園がある。 本丸御殿車寄及び玄関 奥に写る本丸御殿群
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本丸御殿
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 01:14 UTC 版)
本丸御殿は1610年(慶長15年)ごろ加藤清正により建設され、後に藩主となる細川忠利が増築と改修を行って一応の完成をみたと思われる。慶長期の武家書院造の特徴である豪華絢爛な装飾が施され熊本藩の政庁にふさわしい高い格式を持った建物だった。公の場である「対面所」の他に藩主の生活空間である書院や台所などが組み込まれており総畳数は1570畳におよぶ大建築だった。御殿全体が石垣の上に乗った構造になっているのも他に例を見ない特徴で地下に穴蔵のような空間があり御殿の玄関もここにある。明治の火災で天守とともに焼失したが、残された平面図、絵図、古写真などを元に2008年復元された。 なお本丸御殿は当初から藩主一族の居住・政務は想定されておらず、加藤清正は本丸御殿完成後坪井川を渡った城外東側に花畑屋敷(現、花畑町近辺)を造営しここで政務を執っている
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本丸御殿
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 15:16 UTC 版)
藩主が生活し政務を行った本丸御殿は、本丸上段つまり本丸の北大部分を占める場所に位置した。上記の通り、1874年(明治7年)本丸および二の丸での火災により全焼したことから、現存はしていない。跡地には大日本帝国陸軍関連(広島鎮台→第5師団司令部)から広島大本営が建てられたがそれらも被爆により全焼している。 1996年(平成8年)から始まった本丸発掘調査により基礎石などが発見されている が、それらは露出させず埋戻している。絵図が数枚残っていることから、模型資料などで復元されている。 余談だが、江戸藩邸の上屋敷の方は当時霞が関にあり、歌川広重『名所江戸百景』「春の部 2. 霞がせき」に描かれている。
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「本丸御殿」の例文・使い方・用例・文例
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