本丸御殿とは? わかりやすく解説

本丸

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/19 10:09 UTC 版)

本丸(ほんまる)とは、日本の中核となる曲輪(くるわ)の名称である。一の曲輪本曲輪一の丸(『日葡辞書』)とも称される。中世城郭では、本城実城(みじょう)詰丸などと呼ばれ、城によって呼び名が異なる。日本の中世考古学においては主郭(しゅかく)と呼称される。




  1. ^ 加藤理文・松岡敏郎ら8名執筆 学習研究社編『歴史群像特別編集 【決定版】図説 よみがえる名城 白亜の巨郭 徳川の城』学習研究社 2008年
  2. ^ 平井聖監修『城 東海4 天下人への夢馳せる群雄の城』毎日新聞社 1996年


「本丸」の続きの解説一覧

本丸御殿

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/25 22:49 UTC 版)

久留米城」の記事における「本丸御殿」の解説

久留米城中心となった建物で、内部では歴代藩主政務を執っていた。1874年明治7年)の廃城令によって解体された。本丸中心部位置しており、現在は篠山神社本殿・拝殿があるほか、北西側置かれ大井戸現存する

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本丸御殿

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 15:53 UTC 版)

江戸城」の記事における「本丸御殿」の解説

本丸御殿は表・中奥大奥が南から北にこの順で存在する。表は将軍謁見諸役人執務場、中奥将軍生活空間であるが、政務もここで行った大奥将軍夫人女中生活する空間である。大奥は表や中奥とは塀で遮られ一本(後に二本)の廊下でのみ行き来ができた。 将軍御殿としての最初の本丸御殿は1606年慶長11年)に完成その後1622年元和8年)、1637年寛永14年)(同16年焼失)、同17年明暦の大火焼失)、1659年万治2年)(1844年天保15年焼失)、1845年弘化2年)(1859年安政6年焼失)、1860年万延元年)(1863年文久3年焼失)と再建焼失繰り返した文久焼失以降は本丸御殿は再建されずに、機能西ノ丸御殿移した表・中奥 主要な御殿として西側大広間白書院黒書院御座之間・御休息雁行しながら南から北に配置された。表東側には表向の諸職詰所控室中奥東側には側衆配下詰所控室台所などがある。大老老中若年寄執務議事場は当初御座之間にあったが、堀田正俊刺殺事件により表と中奥の間に御用部屋設けられた。彼らと将軍仲介者である側用人又は御側御用取次中奥中央詰所があった。 表は儀礼空間であり御殿改変少ないが、中奥は各将軍好みに応じて頻繁に改造された。表と中奥大奥異なり構造的に断絶していないが、時計之間と黒書院奥の御錠口でのみ出入ができた。しかし表の役人中奥には御座之間への将軍お目見え以外は立ち入ることは出来ず奥向役人とは時計之間で会話交わした大広間 本丸御殿中で最高の格式最大規模有する御殿東西方向50メートル、約500畳に及ぶ広大な建物寛永17年大広間には大屋根があったが、焼失後の再建では中央中庭設けられ屋根低くした。 大広間将軍宣下武家諸法度発布年始等の最も重要な公式行事用いられ主な部屋上段中段下段・二之間・三之間・四之間があり、西北から反時計回り配置された。南東の南には中門が、東には御駕籠台があり大広間権威象徴する。また南面向かい側には表能舞台があり、大きな祝い事がある際の能の催しでは、その内一日町入能として町人南庭で能を見ることを許した白書院 大広間に次ぐ格式有する御殿大広間松之廊下繋がり上段下段帝鑑之間連歌之間を主な部屋として約300畳の広さを持つ。表における将軍応接所として公式行事用いられ御暇家督隠居・婚姻許可への御礼時に諸大名はここで将軍面会した。他に年始の内、越前松平家加賀前田家とはここで対面し、また勅使院使迎える際には下段宴席の間とした。 黒書院 白書院竹之廊下繋がり主な部屋として上段下段西湖之間・囲炉裏之間があり約190畳の広さを持つ。他の御殿造に対し、総赤松造である。将軍日常生活における応接所として用いた御座之間・御休息 これらは将軍居住空間として前者上段下段・二之間・三之間・大溜構成される中奥応接所で政務執る場、後者上段下段のみで寝室居間として用いた中奥は表向の役人原則として出入り禁じられたが、将軍御目見する時の御座之間に入ることができた。当初将軍御座之間にいたが寝室として御休息、更にプライベートな空間として御小座敷等が造られた。 御休息将軍代替わり毎に建て替えが行われ、御小座敷周辺改造が多い。例えば能を好んだ徳川綱吉時分には御休息の右に能舞台があり、また当時頻発した地震対策として「地震之間」なる避難場所中庭の二ヶ所に設置された。逆に徳川吉宗華美な御休息壊し一時期廊下一部区画してそこで寝起きをした。 大奥大奥」を参照 本丸御殿表向模型、右から白書院松の廊下大広間 白書院模型 松の廊下から大広間 本丸御殿表能舞台 大広間上段西面 大広間下段西面 白書院上段下段

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本丸御殿

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金山城 (美濃国)」の記事における「本丸御殿」の解説

本丸中央部存在した建物城主居館として使用された。本丸御殿跡からは茶碗などの食器出土している。規模東西11メートル南北約12.7メートル面積約138.6平方メートル2棟建物があり、南棟南側には廊下存在した礎石一部現存する1953年昭和28年)に竜神社再建の際に整地のために礎石石材として転用して一部原型崩されてしまい、詳しい構図はよく分かっていない。

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本丸御殿

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 08:42 UTC 版)

二条城」の記事における「本丸御殿」の解説

本丸御殿は二条離宮時代京都御苑にある京都御所の北にあった桂宮邸(1847年建築)を明治天皇意向により1893年明治26年)から1894年明治27年)にかけて移築したもので、徳川家二条城とは本来無関係建物である。しかし、この本丸御殿(旧宮邸)は幕末には孝明天皇の仮皇居となっていたことや、皇女和宮親子内親王はこの御殿暮しここから江戸へ嫁いでいる由緒ある御殿である。 また、移築された本丸御殿は主に皇太子時代大正天皇10滞在された等、離宮としても重要な役割果たした過去には春と秋に期間限定公開されていたが、耐震性の不足が判明したため2007年平成19年)春を最後に公開中止して以降内部公開されていない。もともとあった京都御苑内の敷地には、築地塀表門勅使門、また庭園や池も現存している。 本丸御殿の南には、洋風庭園がある。 本丸御殿車寄及び玄関 奥に写る本丸御殿群

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本丸御殿

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 01:14 UTC 版)

熊本城」の記事における「本丸御殿」の解説

本丸御殿は1610年慶長15年)ごろ加藤清正により建設され、後に藩主となる細川忠利増築改修行って一応の完成をみたと思われる慶長期の武家書院造特徴である豪華絢爛装飾施され熊本藩政庁にふさわしい高い格式持った建物だった。公の場である「対面所」の他に藩主生活空間である書院台所などが組み込まれており総畳数は1570畳におよぶ大建築だった。御殿全体石垣の上乗った構造になっているのも他に例を見ない特徴地下穴蔵のような空間があり御殿玄関もここにある。明治火災天守とともに焼失したが、残され平面図絵図古写真などを元に2008年復元された。 なお本丸御殿は当初から藩主一族居住政務想定されておらず、加藤清正は本丸御殿完成坪井川渡った城外東側花畑屋敷(現、花畑町近辺)を造営しここで政務を執っている

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本丸御殿

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 15:16 UTC 版)

広島城」の記事における「本丸御殿」の解説

藩主生活し政務行った本丸御殿は、本丸上段つまり本丸北大部分占める場所に位置した上記通り1874年明治7年本丸および二の丸での火災により全焼したことから、現存はしていない跡地には大日本帝国陸軍関連広島鎮台第5師団司令部)から広島大本営建てられたがそれらも被爆により全焼している。 1996年平成8年)から始まった本丸発掘調査により基礎石など発見されている が、それらは露出させず埋戻している。絵図が数残っていることから、模型資料など復元されている。 余談だが、江戸藩邸の上屋敷の方は当時霞が関にあり、歌川広重名所江戸百景』「春の部 2. がせき」に描かれている。

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