正院
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正院(せいいん)は、1871年(明治4年)の廃藩置県後に発布された太政官職制の最高機関。
1871年9月13日(明治4年7月29日)それまでの太政官を正院、左院、右院の三つに分け、左右両院の上に立つ。政務を執る正院は従来の太政官に相当し、太政大臣、納言、参議、枢密正権大少史、正権大少史等で構成された[1]。 ただし、同年9月24日(同年8月10日)には納言、枢密正権大少史、正権大少史等は廃止されて、太政大臣、左右大臣、参議、正権大少内史、正権大少外史等で構成し[2]、納言は左右大臣となる[3]。
正院にはまた、監部課[1]、式部局、舎人局、雅楽局の三局[4]が配属されたが、同年9月24日(同年8月10日)には、舎人・雅楽局は廃止され式部局とともに式部寮に統合された[5][6][7]。
その後、1873年(明治6年)5月の改革で権限はさらに強化され、天皇輔弼の責任が明確にされた。1875年(明治8年)4月、立憲政体の詔書に基づき元老院・大審院が創設され、左右両院を廃止。同年7月3日に内史所管の法制課が廃止され、法制課の事務が内史本課へ合併されるとともに、内史の機能のうち法案の起草、勘査の機能のみを独立させて専門化した機関[8]として法制局が置かれた[9]。
1877年(明治10年)1月18日に正院の名称が廃され、以後は単に太政官と称した[10]。
脚注
出典
- ^ a b 菊山正明『明治国家の形成と司法制度』御茶の水書房、1993年 。
- ^ 内閣官報局「【太政官第400】官制等級ヲ改定ス 明治4年8月10日 太政官」『法令全書』 明治4年、内閣官報局、東京、1888年10月20日、317-321頁。doi:10.11501/787951。NDLJP:787951/195。
- ^ 国立公文書館 (2019年7月17日). “正院|アジ歴グロッサリー” (html). アジア歴史資料センター. アジ歴グロッサリー|テーマ別資料検索ナビ. 国立公文書館. 2025年4月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年7月16日閲覧。
- ^ 美濃部達吉『日本国法学 上巻 上 総論』有斐閣書房、1907年、243頁。NDLJP:2387790。
- ^ 内閣記録局 編「式部寮印ヲ刻ス 明治4年8月10日 達」『法規分類大全』 〔第1〕 政体門 第3 詔勅式 附・御璽官印、内閣記録局、東京、1891年3月3日、270頁。doi:10.11501/994173。NDLJP:994173/157。
- ^ 内閣官報局「*一等式部寮官等表 明治5年正月20日 太政官第16号」『法令全書』 明治4年、内閣官報局、東京、1889年1月26日、45-47頁。doi:10.11501/787952。NDLJP:787952/78。
- ^ 国立公文書館 (2019年1月18日). “組織図 | 人名を見る | -明治150年 インターネット特別展- 岩倉使節団 ~海を越えた150人の軌跡~” (html). アジア歴史資料センター. -明治150年 インターネット特別展- 岩倉使節団 ~海を越えた150人の軌跡~. 国立公文書館. 2025年4月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年7月3日閲覧。
- ^ 水野(2007)38頁
- ^ 内閣官報局「正院中法制課ヲ廃シ法制局ヲ置ク 明治8年7月3日 太政官番外達」『法令全書』 明治8年、内閣官報局、東京、1889年12月26日、861頁。doi:10.11501/787955。NDLJP:787955/493。
- ^ 内閣官報局「*正院ノ称及正権大少史主事法制官以下並出仕御用掛廃止 明治10年1月18日 太政官第10号達 (輪廓附)」『法令全書』 明治10年、内閣官報局、東京、1890年8月25日、142頁。doi:10.11501/787957。NDLJP:787957/113。
参考文献
- 川口由彦(1998)『日本近代法制史』(新世社)
- 牧英正、藤原明久編(1993)『日本法制史』(古井蒼生夫執筆部分)(青林書院)
- 水野京子(2007)「明治初年における行政・立法分離問題」書陵部紀要第58号
関連項目
正院と同じ種類の言葉
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