みのべ‐たつきち【美濃部達吉】
美濃部達吉
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美濃部 達吉(みのべ たつきち、1873年〈明治6年〉5月7日 - 1948年〈昭和23年〉5月23日)は、日本の法学者、憲法学者、政治家。東京帝国大学名誉教授。天皇機関説を主張し、大正デモクラシーにおける代表的理論家として知られる。昭和期には天皇機関説事件により、貴族院議員を辞職した。戦後の1948年には勲一等旭日大綬章を受章。一木喜徳郎門下。弟子に清宮四郎、宮沢俊義、柳瀬良幹、田中二郎、鵜飼信成、田上穣治など。
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美濃部達吉
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美濃部達吉は1927年(昭和2年)に発行した『逐条憲法精義』の中で、詔勅は決して神聖不可侵ではなく、詔勅を非難しても天皇への不敬にあたらず、詔勅への批評や論議は国民の自由であると主張した。すなわち帝国憲法第3条「天皇ハ神聖ニシテ侵スベカラズ」について次のように説いた。 憲法以前に於いては責任政治の原則が未だ認められず、天皇の御一身のみならず、天皇の詔勅をも神聖侵さざるべきものと為し、詔勅を非議論難する行為は総て天皇に対する不敬の行為であるとせられて居た。憲法は之に反して大臣責任の制度を定め、総て国務に関する詔勅に付いては国務大臣がその責に任ずるものとした為に、詔勅を非難することは即ち国務大臣の責任を論議する所以であつて毫も天皇に対する不敬を意味しないものとなつた。それが立憲政治の責任政治たる所以であつて、此の意味に於いて、天皇の詔勅は決して神聖不可侵の性質を有するものではない。『天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス』といふ規定は、専ら天皇の御一身にのみ関する規定であつて、詔勅に関する規定ではない。天皇の大権の行使に付き、詔勅に付き、批評し論議することは、立憲政治に於いては国民の当然の自由に属するものである。 この詔勅批判自由説は1935年(昭和10年)の天皇機関説事件で特に問題視された。 衆議院議員江藤源九郎は、美濃部の詔勅批判自由説と天皇機関説が天皇に対する不敬罪を構成するとして、美濃部を不敬罪で告発した。検事局の取り調べにおいて、美濃部は天皇に対する不敬行為を敢えてする意思をもたないため不敬罪を構成しないと主張した。 美濃部は取り調べにおいて、天皇機関説の誤りを認めなかったが、詔勅批判自由説については解説に不十分な点があったことを認めた。すなわち美濃部は、国務に関する詔勅を政治上のものと道徳上のものとに区別し、法律・勅令・条約はもちろん、道徳上の詔勅を含め、国務に関する詔勅は全て議論・非難できると主張した。美濃部によると法律・勅令・条約の本文と上諭は一体として詔勅を構成するのであって、一般国民は詔勅といえば教育勅語の類いを想起するかもかもしれないが、美濃部は法律・勅令・条約を詔勅の代表として『逐条憲法精義』第3条解説(上記引用)を記述した。美濃部はこれを記述した際に、主として法律・勅令・条約を念頭におき、その他の詔勅を考慮しなかった。美濃部はこの点に限り、解説が不十分であったことを認めた。 教育勅語については、美濃部はこれを国務に関する詔勅であると考えて『逐条憲法精義』第55条解説でもそう書いていたため、教育勅語も法律上だけでなく道徳上も批判してよいという趣旨に読まれる恐れがあることを認めた。明治天皇紀の編修官長であった三上参次から美濃部が聞いた話によると、教育勅語は批判されるのを避けるために故意に副署を省いたいうことであった。美濃部はこの話を聞いて考えを改め、教育勅語は明治天皇自身の教えということになるため道徳上でけでなく法律上も非難を加えることは許されないと考えるようになった。 昭和天皇は美濃部の学説を内々で擁護していたが、ただ美濃部の説の穏当でない点も指摘しており、その一つが詔勅批判自由説であった。司法大臣から昭和天皇への奏上の原稿には次のように書かれていた。詔勅批判自由説に関する『逐条憲法精義』の記述について、その行文が不用意・不正確にして、その叙説が妥当を欠き、その読者に対して国務に関するものであれば詔勅自体を批判するのは国民の当然の自由であるとの感を抱かせるおそれがある。これは出版法第26条の皇室の尊厳を冒涜する罪を構成すると認めることができる。ただし同書が出版されたときは罰則が規定されていなかったこと等から、美濃部の処分を起訴猶予処分にとどめた、と。
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