渡辺廉吉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/02/15 03:40 UTC 版)
渡辺 廉吉(わたなべ れんきち、嘉永7年1月8日(1854年2月5日) - 大正14年(1925年)2月14日)は日本の法学者、裁判官、政治家。学位は法学博士。行政裁判所評定官(裁判官)、内閣総理大臣秘書官、法制局参事官、行政裁判所部長、行政裁判法取調委員、貴族院議員等を歴任。幼名は正吉[1]。渡邊廉吉とも表記される[2]。
- ^ 小田中(2001)1179頁。
- ^ ヘルマン・ヒッチング(2005)。
- ^ 小田中(2001)1179頁。鈴木(2004)。
- ^ 市原昌三郎「一橋と公法学-憲法学・行政法学」一橋論叢
- ^ 小田中(2001)1179頁。なお、米百俵参照。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、30頁。
- ^ 『官報』第2906号、大正11年4月13日。
- ^ 大井成元男曰く『火砲の整備が急務』(「大阪朝日新聞」1925年2月17日)
- ^ 小田中(2001)1180頁
- ^ 『官報』第150号「叙任」1883年12月26日。
- ^ 『官報』第4302号「叙任及辞令」1897年11月1日。
- ^ 『官報』第5842号「叙任及辞令」1902年12月22日。
- ^ 『官報』第7352号「叙任及辞令」1907年12月28日。
- ^ 『官報』第150号「叙任及辞令」1913年1月31日。
- ^ 『官報』第3745号「叙任及辞令」1925年2月18日。
- ^ 『官報』第1937号「叙任及辞令」1889年12月11日。
- ^ 『官報』第5393号「叙任及辞令」1895年6月22日。
- ^ 『官報』第4499号「叙任及辞令」1898年6月30日。
- ^ 『官報』第5696号「叙任及辞令」1902年7月1日。
- ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
- ^ 『官報』第2096号「叙任及辞令」1919年7月31日。
- ^ 山本義路のこと。なお、山本義路の最期を見届け、その遺骸を埋葬した後に亡くなった渡辺豹吉は、渡辺廉吉の兄である。
- 1 渡辺廉吉とは
- 2 渡辺廉吉の概要
- 3 越後山本家の家名存続
- 渡辺廉吉のページへのリンク