ぼしん‐せんそう〔‐センサウ〕【戊辰戦争】
戊辰戦争 (ぼしんせんそう)
戊辰戦争
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戊辰戦争(ぼしんせんそう、慶応4年 / 明治元年〈1868年 [2]〉- 明治2年〈1869年〉)は、王政復古を経て新政府を樹立した薩摩藩・長州藩・土佐藩らを中核とした新政府軍と、旧江戸幕府軍・奥羽越列藩同盟・蝦夷共和国(幕府陸軍・幕府海軍)が戦った日本の近代史最大の内戦[3]。名称の由来は、慶応4年・明治元年の干支が戊辰であることからきている。
注釈
出典
- ^ a b c 井上清『日本の歴史20 明治維新』中央公論社、昭和41、p.131-132.
- ^ “19世紀後半、黒船、地震、台風、疫病などの災禍をくぐり抜け、明治維新に向かう(福和伸夫)”. Yahoo!ニュース. (2020年8月24日) 2020年12月3日閲覧。
- ^ 石井 1968, 第一部「天皇政府と徳川政府との戦争」.
- ^ a b 原口 1963, p. 239.
- ^ 原口 1963, p. 267.
- ^ 石井 1968, p. 46.
- ^ 「詔。源慶喜、籍累世之威、恃闔族之強、妄賊害忠良、数棄絶 王命遂矯 先帝之詔而不懼、擠万民於溝壑而不顧、罪悪所至 神州将傾覆焉 朕、今、為民之父母、是賊而不討、何以、上謝 先帝之霊、下報萬民之深讐哉。此、朕之憂憤所在、諒闇而不顧者、萬不可已也。汝、宜体 朕之心、殄戮賊臣慶喜、以速奏回天之偉勲、而、措生霊于山嶽之安。此 朕之願、無敢或懈」
- ^ 『明治功臣録』明治功臣録刊行會編輯局、大正4年(1915年)
- ^ 『板垣退助君戊辰戦略』上田仙吉編、明治15年刊(一般社団法人板垣退助先生顕彰会再編復刻)
- ^ 原田伊織『明治維新という過ち・完結編』講談社2018年
- ^ 「新選組と戊辰戦争」見どころ紹介① 新展示 新選組資料を中心に鳥羽伏見の戦いや戊辰戦争の実像に迫る! 戊辰戦記絵巻(前篇) 霊山歴史館、2023年5月13日閲覧
- ^ 水谷憲二 2011, p. 178.
- ^ 水谷憲二 2011, p. 220-224.
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- ^ 保谷 2007, p. 115-127.
- ^ 水谷憲二 2011, p. 391-394.
- ^ 水谷憲二 2011, p. 399-403.
- ^ 梁田戦争をご存知ですか(足利市公式サイト)
- ^ 水谷憲二 2011, p. 194-197.
- ^ 神奈川県企画調査部県史編集室(編)『神奈川県史 通史編4 近代・現代(1)』神奈川県弘済会、1980年、73-80頁。
- ^ 『復古記 第十二冊』390頁~417頁 復古外記 奥羽戦記 第六(編著者:太政官、豊原資清 出版者:内外書籍 発行:昭和5年(1930年)5月8日) (2018年10月15日閲覧。)
- ^ 『二本松藩史』148頁~151頁「齋藤淺之助翁談話」(編著者・出版者:二本松藩史刊行會 再版発行:昭和2年(1927年)1月10日)(2018年10月11日閲覧。)
- ^ a b 国立国会図書館デジタルコレクション『復古記 第十二冊』417頁~418頁 復古外記 奥羽戦記 第六(編著者:太政官、豊原資清 出版者:内外書籍 発行:昭和5年(1930年)5月8日)(2018年10月16日閲覧。)
- ^ 石井孝『戊辰戦争論』2008年
- ^ 新潟県立図書館「越後佐渡デジタルライブラリー」『越後国上杉景勝家督争合戦』
- ^ 国立国会図書館デジタルコレクション『復古記 第13冊』459頁~463頁 復古外記 平潟口戦記 第三 明治元年8月29日 「廿九日、伊達慶邦、使ヲ肥後藩ノ營ニ遣シ、情ヲ陳シ、帰順ノ事ヲ請フ。」 (編著者:太政官、長松幹、藤川三渓 出版者:内外書籍 発行:昭和5年(1930年)6月27日)(2018年10月17日閲覧。)
- ^ 保谷 2007, p. 274.
- ^ 保谷 2007, pp. 274–275.
- ^ 朝報掲要 1868.
- ^ 『田名部町誌』(1935年)
- ^ 野口信一 2010, p. 240-246.
- ^ 磯田道史 『素顔の西郷隆盛』 新潮新書 2018年 ISBN 978-4-10-610760-3 176頁
戊辰戦争(1868年 - 1869年)
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「幕末」の記事における「戊辰戦争(1868年 - 1869年)」の解説
江戸での薩摩藩邸焼き討ちの報が大坂城へ伝わると、城内の旧幕兵も興奮し、「討薩表」を掲げ、京への進軍を開始した。1868年1月27日(慶応4年1月3日)鳥羽街道・伏見街道において薩摩軍との戦闘が開始された(鳥羽・伏見の戦い)。官軍を意味する錦の御旗が薩長軍に翻り、幕府軍が賊軍となるにおよび、淀藩や安濃津藩などの寝返りなどが相次ぎ、2日後には幕府軍の敗北が決定的となる。徳川慶喜は軍艦開陽丸にて江戸へ逃亡し、旧幕府軍は瓦解した。以後、翌年まで行われた一連の内戦を、慶応4年の干支(戊辰)に因んで「戊辰戦争」という。なお戊辰戦争中の1868年10月23日(旧暦9月8日)には慶応から明治に改元された。 東征大総督として有栖川宮熾仁親王が任命され、東海道・中山道・北陸道にそれぞれ東征軍(官軍とも呼ばれた)が派遣された。一方、新政府では、今後の施政の指標を定める必要から、福岡孝弟(土佐藩士)、由利公正(越前藩士)らが起草した原案を長州藩の木戸孝允が修正し、「五箇条の御誓文」として発布した。 江戸では小栗らによる徹底抗戦路線が退けられ、慶喜は恭順謹慎を表明。慶喜の意を受けて勝海舟が終戦処理にあたり、山岡鉄舟による周旋、天璋院や和宮の懇願、西郷・勝会談により決戦は回避されて、江戸城は無血開城され、徳川家は江戸から駿府70万石へ移封となった。 しかしこれを不満とする幕臣たちは脱走し、北関東、北越、南東北など各地で抵抗を続けた。一部は彰義隊を結成し上野寛永寺に立て籠もったが、7月4日(慶応4年5月15日)長州藩の大村益次郎率いる諸藩連合軍により、わずか1日で鎮圧される(→上野戦争)。 そして、旧幕府において京都と江戸の警備に当たっていた会津藩及び庄内藩は朝敵と見なされ、会津は天皇へは恭順を表明するものの新政府への武装敵対の意志を示し、新政府は周辺諸藩に会津への出兵を迫る事態に至った。新政府に劣位の立場で参加することを嫌った仙台藩・戦国時代の旧領回復を望んだ米沢藩などの主導により、陸奥、出羽及び越後の諸藩が奥羽越列藩同盟を結成し、盟主として上野戦争以降東北にいた輪王寺宮公現法親王(のちの北白川宮能久親王)が擁立された。長岡(→北越戦争)・会津(→会津戦争)・秋田(→秋田戦争)などで激しい戦闘がおこなわれたが、いずれも新政府軍の勝利に終わった。 旧幕府海軍副総裁の榎本武揚は幕府が保有していた軍艦を率い、各地で敗残した幕府側の勢力を集め、箱館の五稜郭を占拠。旧幕府側の武士を中心として明治政府から独立した政権を模索するが(いわゆる「蝦夷共和国」)、箱館戦争の結果、翌1869年6月27日(明治2年5月18日)新政府軍に降伏し、戊辰戦争が終結した。 その間、薩長土肥の建白により版籍奉還が企図され、同年9月諸藩の藩主(大名)は領地(版図)および人民(戸籍)を政府へ返還、大名は知藩事となり、家臣とも分離された。1871年8月29日(明治4年7月14日)には、廃藩置県が断行され、名実共に幕藩体制は終焉した(→明治維新)。
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