北白川宮能久親王とは? わかりやすく解説

北白川宮能久親王

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/08/20 06:04 UTC 版)

北白川宮能久親王(きたしらかわのみや よしひさしんのう、1847年4月1日弘化4年2月16日〉 - 1895年明治28年〉10月28日)は、日本皇族北白川宮第2代当主。陸軍軍人。幼名は満宮(みつのみや)。最後の輪王寺宮(りんのうじのみや)として知られる。




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北白川宮能久親王

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/05 05:48 UTC 版)

北白川宮」の記事における「北白川宮能久親王」の解説

2代能久親王伏見宮邦家親王の第9王子で、嘉言親王弟宮智成親王の兄宮に当たる。1848年弘化4年)に誕生1858年安政5年)に仁孝天皇猶子として11歳親王宣下上野輪王寺入寺得度し公現入道親王名乗る戊辰戦争の時、幕府側に附く彰義隊担がれ上野戦争巻き込まれその後 奥羽列藩同盟擁立され仙台赴いた東武皇帝として即位したとする説あり)。維新後蟄居伏見宮家預りとなる。 1869年明治2年)に許され伏見宮復帰する1870年明治3年)にドイツ留学1872年明治5年)に北白川宮相続し1877年明治10年)に帰国した帰国後は陸軍勤務陸軍中将にまで進む。日清戦争では近衛師団長として出征戦後台湾守備命令を受け、台湾征討軍の指揮あたったが、1895年明治28年)、現地戦病死した。48歳没。

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北白川宮能久親王

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/11/14 14:00 UTC 版)

軍国美談」の記事における「北白川宮能久親王」の解説

台湾平定近衛師団長として出征し戦病死し、台湾神宮創建されて祀られた。修身教科書にも「能久親王」として、皇室への忠誠高めるための教材として取り上げられる

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