学校法人獨協学園
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学校法人獨協学園(がっこうほうじんどっきょうがくえん)は、日本の学校法人。獨協大学、獨協医科大学、姫路獨協大学など諸学校の設置者である。
注釈
- ^ 獨協学園『平成19年度事業報告書』1頁。
- ^ 「平成23年度資金収支計算書」『平成23年度事業報告概要と決算について』。
- ^ 「財産目録」『平成23年度事業報告概要と決算について』。
- ^ a b c d e 獨協学園『平成23年度事業報告書』4頁。
- ^ a b 獨協大学ニュース2018年11月号 上智大学文学部日独関係史研究員より
- ^ 品川は独逸学協会委員長として、北白川宮に代わって会の実務を統括した。1883年10月16日に東京府知事に対して出された設置願(当時は仮名を「私立独逸学校」として提出)は品川の名義で出されており、今日品川を創立者とみなす根拠になっている。
- ^ 開校直前の1883年7月から1年間の収支報告によれば補助金は収入全体の1/6程度であった。
- ^ 品川弥二郎や後述の再建案を作成した有松英義も中等教育強化のための中学校増設を検討していた東京府に売却して完全な公立学校にする案をも検討していた。
- ^ この事実は設立経緯とともに専修科廃止以後においても学校関係者にとって誇りとされていた。学校創立50周年の際に当時の校長であった司馬亨太郎による「獨協創立の精神がなかったならば、明治文化は斯くの如き進歩の歩みを受け得なかったであろう。(中略)その卒業生の一人、前枢密顧問官有松英義氏は明治の大逆罪人である幸徳秋水及びその一味に止の刃をさした人であり、又現司法大臣小山松吉は大正昭和にかけての共産党検挙の中心人物である。此の様に明治から大正にかけての国家に対する不心得者全てを、有松、小山という二人の獨逸学協会学校出身者の大人物によって料理したことは、獨協が持っていた教育的精神と、その実績を如実に示したものでなくて何であろうか。」(『獨逸学協会学校五十年史』)という記述からもそれがうかがえる。
- ^ 専修科廃止後も桂太郎ら有力な政治家らの後ろ盾と大村の教育・経営手腕によって経営を維持されてきたが、彼らが亡くなると有能な学校経営者も支援者も欠いた学校経営はたちまち危機に陥っていた。大正後期に独逸学協会学校専修科出身の有松英義(元法制局長官)が、巖谷小波(普通科出身)らとともに母校再建支援に入った際の最初の課題が債権者からの学校差押訴訟に対する対応であった。
- ^ a b 中村信義・舟橋宏太「独協学園、11億円申告漏れ――国税局指摘――追徴は2億円」『asahi.com(朝日新聞社):独協学園、11億円申告漏れ 国税局指摘 追徴は2億円 - 社会』朝日新聞社、2009年5月30日。
- ^ a b 共同通信社「独協学園が11億円申告漏れ――受託研究で人件費計上ミス」『独協学園が11億円申告漏れ 受託研究で人件費計上ミス - 47NEWS(よんななニュース)』全国新聞ネット、2009年5月30日。
- ^ a b c d 山崎征克「独協学園:7年で11億円申告漏れ」『独協学園:7年で11億円申告漏れ - 毎日jp(毎日新聞)』毎日新聞社、2009年5月31日。
- ^ a b c 「関東信越国税局による税務調査について」『学校法人獨協学園 - TOPICS』。
- ^ 「独協学園、7年間に11億円の申告漏れ…国税指摘」『独協学園、7年間に11億円の申告漏れ…国税指摘 : 社会 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)』読売新聞、2009年5月29日。
- ^ 後にドイツ帝国の帝国宰相となったゲオルク・ミヒャエリスが教頭として着任している。
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