大村仁太郎 おおむら じんたろう
東京小石川生まれ。ドイツ語学者。父は東京府士族。幼年時に牛込筑土八幡町の万昌院で漢学を学ぶ。明治14年(1881)に陸軍省御用掛、翌年には外国語学校に奉職。以後、陸軍大学校、東京大学予備門、第一高等中学校を経て学習院教授となる。34年(1901)ドイツに留学、39年(1906)学習院教授を辞職。これ以前から独逸協会の幹事を勤め、38年(1905)には独逸協会中学校(1883創立)の4代目校長となる。教育者として家庭教育の重要性を唱え、また、エレン・ケイの著作を翻訳するなど、教育関係の著作が多数ある。
キーワード | 学者, 教育家 |
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- 著作等(近代デジタルライブラリー収載)
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- 教育家必携駅逓局学校貯金法 / パウル・マイエット著 ; 大村仁太郎訳 大日本教育会, 明19.4 <YDM49947>
- 独逸文法教科書 / 大村仁太郎等著 独逸学協会出版部, 明27.9 <YDM84490>
- 児童矯弊論 / 大村仁太郎編 精華書院, 明33.10 <YDM50469>
- 我子の悪徳 / 大村仁太郎著 同文館, 明37.12 <YDM50848>
- 太郎は如何にして教育すべき乎 / アドルフ・マチアス著 ; 大村仁太郎訳 同文館, 明38.4 <YDM50623>
- 我子の美徳 / 大村仁太郎著 同文館, 明38.7 <YDM50849>
- 家庭教師としての母 / 大村仁太郎著 同文館, 明38.12 <YDM48495>
- 教育者の教師 / 大村仁太郎編 同文館, 明39.6 <YDM46375>
- 二十世紀は児童の世界 / エレン・ケイ著 ; 大村仁太郎訳編 精華書院, 明39.10 <YDM46128>
- 乙女の生涯 / 大村仁太郎著 精華書院, 明39.12 <YDM9171>
- 桃圃漫筆 / 大村仁太郎著 精華書院, 明40.7 <YDM96197>
- 児童精神の活ける教育法 / 大村仁太郎著 精華書院, 明41.4 <YDM50471>
- 我子の悪徳 / 大村仁太郎著. 訂正改版21版 同文館, 明42.9 <YDM11711>
- 大村教育著述全集. [1], [2], [3] / 大村仁太郎著 ; 大村謙太郎編 同文館, 明44.6 <YDM49957>
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大村仁太郎
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/12/31 07:03 UTC 版)

大村 仁太郎(おおむら じんたろう、文久3年9月25日(1863年11月6日)[1][注釈 1] - 明治40年(1907年)6月5日)は、明治期のドイツ語学者・教育者。
経歴
江戸小石川関口水道町の出身。初め、筑土八幡町萬昌院に入って漢学を学んでいたが、明治14年(1881年)に陸軍省御用掛に登用され、翌年より東京外国語学校(現:東京外国語大学)に移り、明治17年(1884年)に助教授となって、以後陸軍大学校や第一高等中学校などで教壇に立ち、学習院教授に転じて獨逸文学科長となる。明治34年(1901年)から2年間ドイツに留学、帰国直後の明治36年(1903年)には学習院勤務のまま獨逸学協会学校校長を兼務する。獨逸学協会学校の教授であった山口小太郎・谷口秀太郎とともに著した『獨逸文法教科書』などのドイツ語テキストは“三太郎獨逸文典”の異名で知られている。また、ドイツ留学中にドイツの教育学に接し、ザルツマンの三部作“Krebsbüchlein, oder Anweisung zu einer unvernünftigen Erziehung der Kinder”・“Conrad Kiefer oder Anweisung zu einer vernünftigen Erziehung der Kinder. Ein Buch fürs Volk”・“Ameisenbüchlein, oder Anweisung zu einer vernünftigen Erziehung der Erzieher”を訳した『教育寓話我子の悪徳』(明治37年(1904年))・『教育寓話我子の美徳』(明治38年(1905年))・『教育者の教師』(明治39年(1906年))やアドルフ・マッチアスの教育書を訳した『太郎は如何にして教育すべき乎』(明治37年(1904年))、エレン・ケイの著書(『児童の世紀』)を訳した『二十世紀は児童の世界』』(明治39年(1906年))を刊行した。自らも『教育講話母と子供』(明治38年(1905年))、没後に刊行された『家庭教師としての母』を著し、児童教育は学校教育だけでは不十分で、むしろ家庭にこそ教育の本源であること、適切な家庭教育の実現には母親となる女性の教育が重要であり、そのためには母親として最低限の知識と技能を身に着けるための教育が欠くことができないと主張し、そのための道筋を呈示した。
日独関係の発展に貢献したとしてドイツ皇帝ヴィルヘルム2世より赤鷲三等勲章を授けられた。明治40年(1907年)6月5日に45歳(数え年)で没した。墓所は雑司ヶ谷霊園。
脚注
注釈
出典
- ^ 『人事興信録 初版』人事興信所、1903年、p.282。
参考文献
- 『日本人名大事典 1』(平凡社、初版:1938年・覆刻版:1979年)P608
- 『20世紀日本人名事典』日外アソシエーツ、2004年、ISBN 978-4-8169-1853-7 P525
- 唐沢富太郎 編著『図説 教育人物事典 日本教育史のなかの教育者群像 下』ぎょうせい、1984年。
その他の役職 | ||
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先代 加藤弘之 |
獨逸学協会学校中学校長 1903年 - 1907年 |
次代 石川千代松 |
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