りくぐん‐だいがっこう〔‐ダイガクカウ〕【陸軍大学校】
陸軍大学校
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陸軍大学校(りくぐんだいがっこう、旧字体:陸軍大學校󠄁)は、大日本帝国陸軍の参謀将校養成機関[1](参謀学校)。略称は陸大(りくだい)。現在の陸上自衛隊では、陸上自衛隊教育訓練研究本部指揮幕僚課程に相当する。
注釈
- ^ 陸大の通算卒業者を3,485名とする資料もある[5]。
- ^ ここでの「現役(将校)」とは、「本職(の将校)」という意味である。「予備役編入される前(の将校)」という意味ではない。
- ^ 一般に「陸軍士官学校出身者」と扱われ、「陸士**期」と呼称されるのは「陸軍幼年学校または中学校を経て士官候補生となり、陸軍士官学校本科を卒業した者」である。
- ^ 小坂千尋(1850年(嘉永3年)生。周防国岩国出身)は、明治16年の参謀科廃止[8]により、明治16年5月7日付で陸軍歩兵大尉[9]。陸大4期(明治19年1月入校、明治21年11月卒業)の大井成元が、小坂の講義に感銘を受けたと述懐している[9]。児玉源太郎に重用され、陸軍歩兵中佐で陸軍省軍務局第1軍事課長(在任は明治23年3月27日-明治24年11月7日)を務めたが[10]、現職のまま1891年(明治24年)11月7日にコレラにより死去[9]。山縣有朋は「小坂逝きて吾兵を語らず」と、小坂の夭折を惜しんだ[9]。
- ^ 参謀本部の長が参謀総長となったのは1889年(明治22年)[12]。
- ^ 1870年(明治3年)、兵部少輔の山縣有朋は、兵部大丞の西郷従道と共に、帝国陸軍へのフランス式兵制採用を主導した[23]。これは前年に死去した大村益次郎の遺志を継いだものであった[23]。山縣は、普仏戦争前夜の欧州を視察しており、個人的にはドイツ式兵制を好ましいと考えていたが、尊敬する先輩である大村の遺志を尊重すること、および当時の日本には、フランス語のできる者に比べてドイツ語のできる者は極めて少なく、急を要する陸軍建設にはフランス式兵制を採用するしかないという事情があった[23]。
- ^ メッケルの滞日期間については、4年説もある[29]。
- ^ 帝国海軍の海軍大学校では「甲種学生」という呼称が存在したが、陸大には「本科学生」といった呼称は特に存在しなかった。
- ^ 59期が陸大を卒業した後、その過半数に対し、参謀本部で1か月から2か月の教育が行われた[41]。
- ^ 憲兵将校、および各部将校には陸大受験資格がなかった[49]。
- ^ 幹部候補生、一年志願兵出身で在郷中の少尉・中尉が、軍務に就くことを志願すると、特別志願将校に任用された[51]。1933年(昭和8年)にできた制度[51]。
- ^ 鈴木は1926年(大正15年)3月から1930年(昭和5年)2月まで参謀総長[57]、今村は1921年(大正10年)8月から1926年(大正15年)8月まで参謀本部部員[58]。この挿話は大正15年のことであろう。
- ^ 陸大優等卒業者への恩賜品は、6期までは望遠鏡、それ以降は軍刀[4]。
- ^ 天保通宝は8厘(0.8銭)銅貨として1891年(明治24年)12月31日まで通用した[70][71]。天保通宝が1銭に足りない価値しかなかったことから、時流に乗り遅れた人、知恵の足りない人を「天保銭」と揶揄した[70]。陸大卒業徽章が制定された明治20年は、天保銭が未だ現役の貨幣であった時期である。
- ^ 額田坦は、昭和11年12月 - 昭和13年7月 陸軍省人事課員、昭和13年7月 - 昭和15年8月 陸軍省人事局補任課長、昭和17年12月 - 昭和18年10月 参謀本部総務部長、昭和20年2月 - 昭和20年11月 陸軍省人事局長[84]。
- ^ a b c d e f g 陸軍砲工学校高等科優等卒業者、員外学生出身者。
- ^ 石井正紀は「陸軍砲工学校高等科優等卒業者(砲工優等)」と「陸軍砲工学校高等科卒業者」を区別していない。
- ^ 松井命のフランス駐在(3年間)は「留学」と思われるが、松井は学位を取得していない[91]。
- ^ 北白川宮成久王の陸大27期の卒業席次は52位(卒業者56名)であった[4]。
- ^ 本項では、以下、「無天組」を「陸大卒業者・技術将校[注釈 16] のいずれにも該当しない、陸士を卒業したのみの陸軍現役兵科将校」の意味で用いる。
出典
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陸軍大学校
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「陸軍大学校#皇族枠」も参照 厳しい選抜選考が課せられる陸軍大学校では、皇族及び王公族の枠が存在し、入学が優遇された。 在学中、秩父宮雍仁親王のように実際に成績優秀だった者や、北白川宮永久王のように陸海軍の融和に努めた者もいる(それぞれ本人の項を参照)。
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「陸軍大学校」の例文・使い方・用例・文例
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