陸軍士官学校分校へ転用
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「所沢陸軍飛行学校」の記事における「陸軍士官学校分校へ転用」の解説
兵科の現役将校となる士官候補生は、1926年(大正15年)3月に第40期233名のうち24名が初めて航空兵科に指定されて以来、第50期まで航空兵科も例外なくすべて東京市牛込区市谷本村町の陸軍士官学校で教育を受けていた。当時の航空兵科士官候補生は全員が操縦将校要員であったにもかかわらず、特性が大きく異なる歩兵科を基本とした教育を行う従来の課程は合理性に欠けており、航空に特化した士官学校が求められていた。 1937年(昭和12年)、陸軍士官学校の予科を陸軍予科士官学校とし、本科を神奈川県高座郡座間村に移転する改革に合わせ、航空兵科士官候補生のみは在学中から操縦教育を行う独自の課程とする案を陸軍中央も承認した。当初教育総監部は各兵科将校の精神的団結のため同一学校での教育を主張したが、座間では飛行場用地が確保できないため、埼玉県入間郡豊岡町(現在の入間市北東部)に学校を建設することとし、それまでのあいだは所沢陸軍飛行学校の施設を転用して教育を行うことが決定した。ただし独立した学校ではなく、陸軍士官学校校長の監督下にある分校としてであった。 同年9月29日、「所沢陸軍飛行学校令廃止ノ件」(軍令陸第5号)が制定された。翌9月30日、「航空兵科将校ト為スベキ生徒及学生ノ教育ヲ行フ為陸軍士官学校ニ分校ヲ置ク」と定めた陸軍士官学校令改正(勅令第566号)が公布、即日施行された。1937年10月1日、前述の軍令陸第5号が施行され、これによって所沢陸軍飛行学校は廃止となり、同地に陸軍士官学校分校が開設された。所沢陸軍飛行学校で行っていた各種の教育および研究は熊谷陸軍飛行学校に移管された。施設は主として陸軍士官学校分校に転用され、一部は熊谷陸軍飛行学校の所沢分教場となった。
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