学歴・軍歴の矛盾
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/16 14:59 UTC 版)
1998年(平成10年)、公明党と創価学会が政教一致の関係にあったと主張し、朝日新聞に「55年体制回顧録」が掲載された。同回顧録が精査された結果、学歴記述の矛盾などが見つかった。竹入はこれを機に反公明党・反創価学会の立場を鮮明にしていき、公明党は中央幹事会で政界引退済みの党の功労者だったにもかかわらず最高顧問職解任、党からの除名を決めた。直後に創価学会も中央審査会を開いて除名処分を決定、事実上の永久追放という形で両者は絶縁した。 「除名#創価学会の除名」も参照 具体的には、竹入の経歴について朝日新聞の紙面上では「陸軍航空特別幹部候補生」としていた。しかし、他のマスコミに対して公表していた経歴は「陸軍航空士官学校在学中に終戦を迎える」等であった。 陸軍航空士官学校というのは当初、埼玉県所沢町(現・所沢市)の所沢飛行場(現・所沢航空記念公園)内に実在した機関で、特別幹部候補生(特幹)という兵士教育制度も実在した。しかし、陸軍航空士官学校は所沢で開校した翌年に隣の豊岡町(現・入間市)の修武台(現・航空自衛隊入間基地)に移転しており、竹入が在校していたとされる終戦直前に所沢飛行場内にあったのは所沢陸軍航空整備学校という別の機関だった。 詳細は「陸軍航空士官学校#創設」および「陸軍航空整備学校#概要」を参照 所沢陸軍航空整備学校では、竹入が18歳だった1944年(昭和19年)に新設されたばかりの第1期特別幹部候補生を受け入れたという記録が残っている。党は竹入が学歴要件のなかった特幹採用試験に合格し、実際に航空整備学校に入校していた可能性を探ったものの、確証は得られなかった。 詳細は「陸軍特別幹部候補生#沿革」を参照 また、所沢の飛行学校という言葉も出てくるが、これを厳密に解釈するのであれば陸軍航空士官学校の前身である所沢陸軍飛行学校のことであり、大東亜戦争の頃には既に航空士官学校に改組された後だった。 詳細は「所沢陸軍飛行学校#陸軍士官学校分校へ転用」および「陸軍少年飛行兵#太平洋戦争後期」を参照 さらに、陸軍航空士官学校で最も数の多かった士官候補生として教育を受けるには、同じ埼玉県の朝霞町(現・朝霞市)にあった陸軍予科士官学校で教育を受けてからでなければならなかった。予科士官学校を受験するには、中学4年次修了が必要で、竹入はこれについて「旧制高千穂中学校(現・高千穂大学)から陸士を受験した」としたが、高千穂学園本部同窓会の名簿に竹入の名前がないことが明らかになった。その上、公明党本部が旧陸軍および陸上自衛隊のOB・遺族などで作る公益財団法人偕行社と、実際に陸軍航空士官学校59期に在学していた党所属の地方議員や自民党の梶山静六、近岡理一郎らに確認したところ、偕行社、陸士59期会のどちらの名簿にも竹入の文字はなかったという。 詳細は「陸軍予科士官学校#予科士官学校」および「陸軍航空士官学校#教育の概要」を参照 「陸軍士官学校卒業生一覧 (日本)#59期」も参照 これらの証言や制度検証を基に、党は機関紙公明新聞に「終戦時に竹入が陸軍航空士官学校の敷地内にいたのは事実だが、士官学校の学生ではなく『作業兵』として働いていただけである」とする調査結果を掲載し、学歴詐称の事実を糺す釈明要求書を2度に渡って当時代表だった神崎武法の名義で本人宛に送付しているが2015年(平成27年)に至るまで本人からの返答はない。 その後、創価学会も独自に調査を行い、2006年になって聖教新聞に掲載された学会最高幹部による紙上座談会では竹入が尋常小学校か良くても高等小学校までしか出ていなかったとしている。
※この「学歴・軍歴の矛盾」の解説は、「竹入義勝」の解説の一部です。
「学歴・軍歴の矛盾」を含む「竹入義勝」の記事については、「竹入義勝」の概要を参照ください。
- 学歴・軍歴の矛盾のページへのリンク