太平洋戦争後期
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1943年(昭和18年)4月、東京陸軍航空学校は東京と大津の各陸軍少年飛行兵学校へ改編され、少年飛行兵となる生徒を毎年2回入校させ約1年間の基礎教育を行い、その後に宇都宮・熊谷の各陸軍飛行学校(操縦)、所沢・岐阜の各陸軍航空整備学校(技術)、陸軍航空通信学校(通信)で分科に応じた専門技術教育を行うよう定められた。同年、受験資格の年齢の上限を20歳未満に繰り上げ、基礎教育を行う少年飛行兵学校へ入校することなく直接専門教育を行う学校へ入校する短期教育の乙種制度が第14期より採用され、従来の教育は甲種制度とされた。これは太平洋戦争の戦況が逼迫したために、召募試験の成績優秀者などを乙種として速成教育する試行的な制度であった。まもなく乙種制度は陸軍特別幹部候補生制度に移行し、少年飛行兵は1944年(昭和19年)採用の第18期より甲乙の種別がない従来の採用方式にもどった。 1945年(昭和20年)8月、第20期として採用された2,000名が同月上旬に基礎教育の各学校へ入校後まもなく、ポツダム宣言の受諾による日本の敗戦と陸軍の解体によって陸軍少年飛行兵制度は廃止された。1934年2月の所沢陸軍飛行学校生徒入校からの11年半で、計4万5,265名への教育が行われた。
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太平洋戦争後期
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1944年(昭和19年)6月19日-20日のマリアナ沖海戦で日本海軍は大敗、第一機動艦隊の空母3隻(大鳳、翔鶴、飛鷹)と艦載航空隊の大部分を喪失した。軍令部第一部は空母部隊について第一航空戦隊(瑞鶴)、第二航空戦隊(隼鷹、龍鳳)、第三航空戦隊(千歳、千歳、瑞鳳)、第四航空戦隊(航空戦艦伊勢、航空戦艦日向)、第五航空戦隊(雲龍〈8月6日就役〉、天城〈8月10日就役〉)とする計画をたてる。第五航空戦隊は雲龍型航空母艦2隻(雲龍、天城)で再編予定だったが、諸事情により五航戦は編成されなかった。雲龍と天城は第一航空戦隊に編入され、8月上旬時点の一航戦は空母4隻(瑞鶴、龍鳳、雲龍、天城)となった。
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太平洋戦争後期
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1942年10月15日、中寮の舎生中尾勁三が日誌に以下の文章を書いた。(戦中戦後の中寮には寮生がローテーションで日誌を書く文化があった) 「最近頻(しき)りにアメリカの天文学的数字の生産計画が報ぜられ、現に十月十三日の大朝にはその計画が着々と実行にうつされつつあることを大々的に報じている。諸君は之を如何に感ぜられましたか。(中略)事実それほどアメリカの生産力は大きいのです。『我に精神力有り』と口先だけで空元気を出してみても心の奥底では何かしら寂しさを覚えます。精神力は自ずから限度がある。同一の精密さの同一の武器を持って立った場合には一人の大和魂を持った兵士は三人の米兵に対することはできるだろうが、然らざる場合には如何に大和魂といへども打ち勝つことは出来ない。(後略)」 中尾の予想通り、日本は物量に勝るアメリカに歯が立たず転進と玉砕を繰り返した。戦況はますます悪化し、学徒出陣が本格化した。法学部、文学部、経済学部の舎生はほぼ全員が出征し、何人かは戦死した。召集令状がまだ来ていない舎生も食料難に苦しみ、栄養失調で病気になる者が少なくなかった。1944年6月に炊事部が分析したところ、舎生の一日の摂取カロリーは約1600 kcal(キロカロリー)だった。食料を確保するため、舎生一同「寄宿舎農園」の拡張に取り組み、1944年10月までに160貫 (600 kg(キログラム)) の収穫物を得た。 学徒出陣や生活レベルの低下は「寮内空気の無味乾燥」や「舎生の質の低下」をもたらした。とりわけ頻発する盗難は深刻な問題だった。総務委員は「非常に寄宿舎の内容に通じてゐる人」が犯人だと思ったが、「舎生が犯人であるとは絶対に考えられざる所である」と潔白を信じた。
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