空母部隊
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1944年(昭和19年)6月に戦われたマリアナ沖海戦においても戦爆隊の名前で使用されている。 空母飛行隊である第三航空戦隊でも零戦を代用艦爆として使用した。九九艦爆の操縦員と機体は著しく損失していた。このため艦爆操縦員だけでなく艦攻操縦員も、爆装した戦爆の零戦の搭乗者とされた。太平洋戦争初期に使用されたが残っていた零式艦上戦闘機二一型を、戦爆の零戦として使用することは、使用すべき機数の増加にもつながった。零戦の戦爆化にあたり、60kg爆弾ではなく250kg爆弾を使用することが三航戦司令部から求められた。1944年(昭和19年)4月、零戦二一型は250kg爆弾と増槽を装備して運用が可能であると結論づけられた。 零戦二一型を用いた戦爆は、両主翼内に燃料パイプを追加し、増槽から燃料を吸い上げられるよう改修した上で、統一型二型増槽(容量200リットル)を懸垂した。胴体下面には九七式爆弾懸垂架を装備し、250kg爆弾(九九式二五番通常爆弾)を搭載した。九九式二五番通常爆弾一型改一は全重248.9kg、炸薬60.7kgの対艦用徹甲爆弾で、急降下爆撃を行った場合、50mmの装甲を貫通した。 三航戦の戦爆隊の訓練は以下のようなものであった。戦爆は艦爆と艦攻を専修した操縦者であったため、戦闘機専修の操縦員と比較し空戦能力は低かった。訓練は3月2日から瀬戸内海の松山で開始された。空戦訓練は実施されず、曳的射撃の訓練を数度行うにとどまった。降下爆撃訓練の大半は瀬戸内海に点在する小島に対して緩降下を繰り返すものであった。実艦に対しては標的艦「摂津」に1、2回演習用爆弾を投下した。また4月17日には戦艦「大和」を目標として擬似襲撃訓練も行われた。戦爆隊は4機編隊で行動した。戦爆の零戦には爆撃照準器は装備されず、搭乗員は爆弾を目測で投下した。したがって命中可能な高度まで艦に肉薄することが要求された。爆撃高度は150mから300mであり、投下後は機体を海面すれすれに飛行させ高速で離脱した。離脱に際しては編隊を解き、2機ずつに分かれ、軌道を交差させて飛行した。これは敵戦闘機に食いつかれなくするための回避機動であった。しかし敵艦へ高度300mまで肉薄するため、敵艦の対空砲火によって撃墜される危険性は非常に高まった。攻撃訓練以外には、空母「千代田」「瑞鳳」「千歳」を使用しての発着艦訓練を行った。そのほか薄暮夜間訓練、編隊による夜間着陸、黎明総合訓練を行った。 誘導機として新鋭機の天山艦上攻撃機が投入された。ただし往路は天山が誘導したものの、復路については天山は敵戦闘機の迎撃時に編隊を離脱、予定集合地点へ向かい、そこで15分から20分ほど戦爆隊を待つというものであった。戦爆隊員の回想によれば戦爆零戦の単機帰投訓練は行われず、復路の行程を単機でこなすのは相当の無理があった。帰投のためクルシー誘導装置が戦爆零戦の全機に標準装備された。ただしクルシーは有効距離が220海里にすぎなかった。戦爆隊がアウトレンジ戦法で進出した距離は330から400海里であることから、誘導する天山と合流できなかった戦爆零戦は一定距離を誘導なしで帰還しなければならなかった。クルシー誘導装置は衝撃に弱い欠点があり不具合が多く発生した。また爆戦零戦の操縦員がクルシー誘導装置に完全に習熟するには訓練が不足であった。 航続能力については両翼に燃料パイプを追加し、翼下面におそらくベニヤ製の増槽を装着したが、これは戦爆零戦の速度と運動性を大きく阻害した。通常時の零戦は巡航速度が約160ノット(約300km/h)であるのに対し、戦爆では130ノット(240km/h)程度に低下した。 このような状況下において、米空母を攻撃する零戦戦爆隊は1944年(昭和19年)6月19日のマリアナ沖海戦に投入されたが甚大な被害を出して撃退された。三航戦の出撃機、42機のうち30機未帰還、二航戦の出撃機9機のうち未帰還は5機であった。このような結果を出した理由には、戦闘機専修者以外の操縦員が搭乗したにもかかわらず戦爆零戦は敵戦闘機に対してある程度の抵抗力を持つはずだと期待されたこと、十分な護衛戦闘機の零戦の随伴がなされなかったこと、往復路の誘導や爆撃法などに無理のあったこと、空戦訓練の不足などが挙げられる。加えて戦爆にしたことによる零戦の運動能力の低下が大きかったこと、また運用法を習熟したり不具合を洗い出すべき余裕も与えられず戦場に投入されたことによる。しかし戦艦「サウスダコタ」に唯一の直撃弾を浴びせたのは戦爆隊の1機であった。
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