往路とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 同じ種類の言葉 > 言葉 > 場所 > > 往路の意味・解説 

往路

読み方:おうろ

行き帰りがある場合に、行きの道やコース意味する表現反対に帰りの道は「復路」と呼ばれる

おう‐ろ〔ワウ‐〕【往路】

読み方:おうろ

行き道。また、行き。「—は列車使い復路飛行機にした」⇔復路


往路

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/13 22:37 UTC 版)

第64回東京箱根間往復大学駅伝競走」の記事における「往路」の解説

1区スタート直後から大東大1年生実井謙二郎飛び出す駒大斎藤篤孝が1人実井を追うが、残る13人は集団のまま控える展開となった。実井は中間点で後続に1分以上のリード奪い独走。13km手前斎藤吸収した集団から順大・三武彦仕掛けて猛追するが、実井が逃げ切りトップでタスキリレー。三浦16秒差で続いた大東大前回2区区間賞を獲得し関東インカレ2部では長距離4冠を達成したエース只隈伸也快走期待されたが、14km過ぎに順大・鈴賢一逆転を許す。鈴木は只隈を突き放しトップでタスキリレー。31秒差の2位続いた中大・楜澤俊明が区間賞を獲得した。只隈は区間6位に終わり大東大3位後退した。 順大は3区打越忠夫4区石原典康が連続区間賞で後続との差を広げ5区倉林俊彰も区間2位好走2位大東大6分09秒の大差をつけ往路優勝飾った日体大5区平山征志が区間賞を獲得し7分42秒差の3位。7位の日大以下9校が復路一斉スタートとなった

※この「往路」の解説は、「第64回東京箱根間往復大学駅伝競走」の解説の一部です。
「往路」を含む「第64回東京箱根間往復大学駅伝競走」の記事については、「第64回東京箱根間往復大学駅伝競走」の概要を参照ください。


往路

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/01/06 04:26 UTC 版)

ヴォルフ (仮装巡洋艦・2代)」の記事における「往路」の解説

ヴォルフ」は1916年11月24日艦長ナーゲル英語版海軍大佐指揮下で、キール出港したが、石炭庫での火災のため引き返した11月30日ヴォルフあらため出港悪天候助けられイギリス海軍封鎖網を突破成功し12月2日ロッコール島沖に達した1917年1月17日にはアフリカ南端至り、それから喜望峰ボンベイコロンボ沖に機雷敷設した。この機雷により1917年2月までに5隻の英国船が、7月までに3隻の英国船と日本貨物船「第七雲海丸」などが触雷沈没した。 同年1月末にインド洋英国タンカー「Turritella」を拿捕した同船大戦勃発直後イギリス拿捕されたドイツハンザ汽船 旧「グーテンフェルス」をタンカー改造した船で「ヴォルフ」の準姉妹船だった。拿捕したイギリス人船員収容ドイツ軍乗員機雷25個を移し武装商船イルティス」と改称し使用した。「イルティス」は単独アデン港沖に機雷敷設したが、イギリス軍艦に発見され自沈した。この際脱出した中国人船員から「ヴォルフ」の存在明るみ出て、「ヴォルフ」はオーストラリア方面逃走したオーストラリアへ途上3月、2隻の英国貨物船拿捕し爆沈処分パース付近でも帆船処分したオーストラリア南を迂回しラウル近辺仮泊し、果物補給船体補修行なったその後ニュージーランド近海英貨客船拿捕多量食料品石炭1,200トン奪って撃沈6月末にニュージーランド近海多数機雷敷設し7月に3隻が触雷沈没した。8月にも英貨物船を襲い石炭奪ったこの頃になると船倉捕虜すし詰めとなってきたので、帰国の途についた9月シンガポール東方機雷敷設し、再びインド洋入った

※この「往路」の解説は、「ヴォルフ (仮装巡洋艦・2代)」の解説の一部です。
「往路」を含む「ヴォルフ (仮装巡洋艦・2代)」の記事については、「ヴォルフ (仮装巡洋艦・2代)」の概要を参照ください。


往路

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/29 23:27 UTC 版)

皇太子裕仁親王の欧州訪問」の記事における「往路」の解説

一行艦隊6日午前9時15分には最初寄港地である沖縄県中城湾到着した裕仁親王与那原から那覇首里行啓し、さらに尚侯爵邸で中学校生徒唐手演武台覧した。ここで裕仁親王沖縄県特産の「エラブウナギエラブウミヘビ)」に興味示しており、同県出身漢那憲和香取艦長食べてみたいと話していた。漢那艦長沖縄県知事川越壮介連絡取り、「エラブウナギ」を取り寄せて食卓供した裕仁親王は「たいへんおいしかった」と漢那艦長告げている。午後6時には中城湾出港した沖縄での滞在時間はほんの半日足らずであったが、昭和天皇生涯にとってこの時が最初で最後沖縄県訪問となった艦内裕仁親王規則正しい生活送り御用山本信次郎海軍大佐フランス語御進講を受け、空いた時間には甲板ゴルフ相撲興じた一方で山本大佐は、裕仁親王西洋式テーブルマナーを身につけておらず、音を立ててスープすすったナイフフォークもうまく使えていないことに気がついた。山本大佐はフランス語御進講時間利用して裕仁親王テーブルマナー教授し裕仁親王もそれに素直に従った10日午前8時、裕仁親王一行イギリス領香港到着した裕仁親王はレジナルド・スタッブス(英語版香港総督香取艦上会見しその後イギリス巡洋艦おもむき答礼行った。この香港裕仁親王にとって最初外国訪問となった11日には閑院宮総督とともに平服香港島巡遊し、午後に鹿島艦上在留邦人招いて余興が行われた。翌12日には青洲(英語版)(英語名グリーン島)を自動車巡遊した。13日香取香港出発した18日午前8時、一行英領シンガポール到着し、ローレンス・ギルマード(英語版シンガポール総督奉迎受けた19日には市内見学し20日にはラッフルズ博物館現在のシンガポール国立博物館)を訪れた21日にはヨットシンガポール島一周している。22日午前9時にシンガポール出港した28日一行セイロン島(現:スリランカ)のコロンボ到着初めて公式に上陸した29日には特別列車旧都キャンディ訪問し寺院跡や博物館訪れている。31日には海岸までのドライブゴルフ楽しんでいる。4月1日午前9時、コロンボ出港した3日には鹿島機関室汽罐破裂する事故発生し機関兵3名が死亡した殉難1人あたり500円遺族に送ることなり4日午前9時、裕仁親王水葬礼を起立して見送った7日には香取でも汽罐破裂事故発生し機関兵2人死亡し2人重傷負った8日午後2時半水葬送られる裕仁親王現場に行くと主張し漢那艦長鈴木美三機関長慌てさせた。12日午前兵員用の作業服香取事故現場視察する赤道付近航海は両艦の配管負担をかけ、さらに熱による火薬暴発の危険もあったため、漢那艦長爆薬砲弾炸薬海中投棄させた。また侍医高田寿は暑熱体調崩しポートサイド入港とともに船を降り帰国途中インド洋上で死亡した。しかし裕仁親王自身扇風機や氷も使わず至って壮健であった山本大佐や西園寺八郎親王相撲を取って幾度も親王投げ飛ばしたものの、何度も立ち上がる親王スタミナ負けするほどであった15日一行イギリス領エジプトポートサイド到着した16日スエズ運河航行中先行鹿島座礁し離脱するまで5時間待機する18日にはカイロ到着しイギリスの特別高等弁務官エドモンド・アレンビー(英語版元帥奉迎受けた裕仁親王はアレンビー元帥案内により、ピラミッド見物エジプトのスルタン・フアード1世との非公式会談行っている。21日カイロを発つ。 @media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .mod-gallery{width:100%!important}}.mw-parser-output .mod-gallery{display:table}.mw-parser-output .mod-gallery-default{background:transparent;margin-top:.3em}.mw-parser-output .mod-gallery-center{margin-left:auto;margin-right:auto}.mw-parser-output .mod-gallery-left{float:left;margin-right:1em}.mw-parser-output .mod-gallery-right{float:right}.mw-parser-output .mod-gallery-none{float:none}.mw-parser-output .mod-gallery-collapsible{width:100%}.mw-parser-output .mod-gallery .title,.mw-parser-output .mod-gallery .main,.mw-parser-output .mod-gallery .footer{display:table-row}.mw-parser-output .mod-gallery .title>div{display:table-cell;text-align:center;font-weight:bold}.mw-parser-output .mod-gallery .main>div{display:table-cell}.mw-parser-output .mod-gallery .gallery{line-height:1.35em}.mw-parser-output .mod-gallery .footer>div{display:table-cell;text-align:right;font-size:80%;line-height:1em}.mw-parser-output .mod-gallery .title>div *,.mw-parser-output .mod-gallery .footer>div *{overflow:visible}.mw-parser-output .mod-gallery .gallerybox img{background:none!important}.mw-parser-output .mod-gallery .bordered-images .thumb img{outline:solid #eaecf0 1px;border:none}.mw-parser-output .mod-gallery .whitebg .thumb{background:#fff!important} 4月18日ギーザスフィンクス写真撮ろうとする親王 4月19日カイロ博物館付属図書館訪問 24日一行マルタ島到着したマルタ島では当時海軍士官として勤務していたケント公ジョージとも面会し夜に総督ハーバート・プルーマー(英語版)の案内オペラオテロ[要曖昧さ回避]」を観劇している。25日、かつて地中海闘い戦没した第二特務艦隊隊員の墓を拝礼する26日正午マルタ発。 30日一行ジブラルタル到着した同地では寄港していたアメリカ海軍司令官アルバート・パーカー・ニブラック(英語版中将訪問を受け、海軍工廠見学行った。またジブラルタル総督ホレイショ・スミス=ドリエン(英語版)、ニブラック中将とともにノース・フロントの競馬場訪れた。ニブラック中将親王らに馬の番号書いた手製馬券渡し裕仁親王渡した番号の馬が一着になると、「正式ではないがとにかく賞金」として数ペニー銅貨手渡した裕仁親王金銭を手にしたのはこのときが初めてであり、対処困った親王第三艦隊司令小栗孝三郎中将銅貨渡し、「こまったよ…あとでニブラック中将返すように」と告げた5月3日午前10時ジブラルタル発。 ジブラルタル出航後は正式行事台臨することも増加するため、山本大佐と西園寺マナー御進講はいわば「特訓」ともいえるほどのものとなった。そのかいもあって裕仁親王両名安心するほどのマナーを身につけた

※この「往路」の解説は、「皇太子裕仁親王の欧州訪問」の解説の一部です。
「往路」を含む「皇太子裕仁親王の欧州訪問」の記事については、「皇太子裕仁親王の欧州訪問」の概要を参照ください。


往路

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 07:23 UTC 版)

第89回東京箱根間往復大学駅伝競走」の記事における「往路」の解説

この季節には珍しい強い南風吹き平地では気温10超えた一方午後北風変わり山との気温差が大きい珍しい気候となった。この気候選手悩ませることになる。

※この「往路」の解説は、「第89回東京箱根間往復大学駅伝競走」の解説の一部です。
「往路」を含む「第89回東京箱根間往復大学駅伝競走」の記事については、「第89回東京箱根間往復大学駅伝競走」の概要を参照ください。


往路

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/15 08:49 UTC 版)

サン=ナゼール強襲」の記事における「往路」の解説

1942年3月26日14時00分、3隻の駆逐艦16隻の小型舟艇がコーンウォール・ファルマスを出発船団駆逐艦中央列に配置した3列隊形取っていた。サン=ナゼール到着時には左列の機動艇群がヴュー・モール、右列の機動艇群が旧入口目指すこととされていた。また高速魚雷艇機動砲艇航続距離の関係から自力でのサン=ナゼール到達困難だった為、「キャンベルタウン」や「アサーストン」によって曳航されて接近した3月27日7時30分、「タインデール」がUボートとの接触報告し砲撃開始。「キャンベルタウン」を除く2隻の駆逐艦爆雷による対潜戦闘の為に船団一時的に離れ、9時00分までに隊列復帰した。なお、このUボートは後にVII型「U-593(ドイツ語版)」と識別されている。その後船団は2隻のフランス漁船遭遇。この漁船ドイツ側通報する恐れがあった事から、乗組員強制的に下船させた後、漁船は2隻とも撃沈された。17時00分付近にドイツ軍水雷艇5隻が展開している旨がプリマス作戦司令部から船団報告される。それから2時間後、別のハント級駆逐艦2隻(HMSクリーブランドHMSブロックレスビー)が船団への増援として派遣された。 21時00分船団サン=ナゼール65海里(120km)に到達。この時点で「アサーストン」と「タインデール」は周辺警戒為に船団離れ、また船団機動砲艇と2隻の機動艇先導しその後ろに「キャンベルタウン」が続く隊形移行する残り機動艇船団左右に展開し残り機動砲艇は「キャンベルタウン」の後方続いたこの段階で機動艇のうち341号艇がエンジントラブル為に落伍し作戦における最初損失となった2200分、先行していた「スタージョン」が誘導信号発信開始。これと同時に、「キャンベルタウン」はドイツ駆逐艦装うべくドイツ海軍旗を掲げた23時30分、英空軍5個中隊(ホイットレイ爆撃機35機、ウェリントン爆撃機27機)が爆撃開始。これらの航空部隊海上から注意を逸らすため、高度1,800メートル保ちつつおよそ60分間サン=ナゼール軍港上空留まることとされていた。同部隊明確に識別され軍事目標に対してのみ複数回の投下を行うべしと言明されいたものの、接近後に天候大幅な悪化明らかになり、サン=ナゼールへの爆撃遂行できたのはわずか4機で、また6機が付近標的爆撃行なっている。 この奇妙な爆撃は、メッケ大尉少なからず動揺させた。3月28日0時00分、メッケは落下傘降下が行われている可能性疑い警報発している。1時00分、彼は爆撃機撤収した判断し高射砲による射撃中止させると共にサーチライト消灯させた。続いて厳戒態勢宣言されると、守備部隊将兵や各艦船乗組員らは防空壕出て警戒活動移ったこの間海上での不審活動に関する報告が行われ、メッケは海上からの上陸を含む各種襲撃作戦想定されるとして、特に軍港警備厳重にするよう命じている。

※この「往路」の解説は、「サン=ナゼール強襲」の解説の一部です。
「往路」を含む「サン=ナゼール強襲」の記事については、「サン=ナゼール強襲」の概要を参照ください。


往路

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 16:11 UTC 版)

ベルタ・ベンツ・メモリアルルート」の記事における「往路」の解説

マンハイムからプフォルツハイムまでの約104km。 GPS-Download マンハイム、フォイデンハイム、イルフェスハイムラーデンブルクシュリースハイムドッセンハイムハイデルベルク、ライメン、ヌスロッホヴィースロッホ、ミンゴルスハイム、ランゲンブリュッケン、シュテットフェルド、ウブスタド、ブリュッサル、ウンターゴロンバッハ、ヴェインガーテン、ゲッティンゲン、ベルグハウゼン、セリンゲン、クラインシュタインバッハ、ヴィルフェルディンゲン、ケーニスバッハ、スタイン、アイシンゲン、プフォルツハイムを通るルートである。

※この「往路」の解説は、「ベルタ・ベンツ・メモリアルルート」の解説の一部です。
「往路」を含む「ベルタ・ベンツ・メモリアルルート」の記事については、「ベルタ・ベンツ・メモリアルルート」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「往路」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ

往路

出典:『Wiktionary』 (2021/08/21 14:02 UTC 版)

発音(?)

お↘ーろ

名詞

おうろ

  1. 行く際に通る道。

対義語


「往路」の例文・使い方・用例・文例

Weblio日本語例文用例辞書はプログラムで機械的に例文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。



往路と同じ種類の言葉


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「往路」の関連用語

往路のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



往路のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
実用日本語表現辞典実用日本語表現辞典
Copyright © 2024実用日本語表現辞典 All Rights Reserved.
デジタル大辞泉デジタル大辞泉
(C)Shogakukan Inc.
株式会社 小学館
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの第64回東京箱根間往復大学駅伝競走 (改訂履歴)、ヴォルフ (仮装巡洋艦・2代) (改訂履歴)、皇太子裕仁親王の欧州訪問 (改訂履歴)、第89回東京箱根間往復大学駅伝競走 (改訂履歴)、サン=ナゼール強襲 (改訂履歴)、ベルタ・ベンツ・メモリアルルート (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。
Text is available under Creative Commons Attribution-ShareAlike (CC-BY-SA) and/or GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblioに掲載されている「Wiktionary日本語版(日本語カテゴリ)」の記事は、Wiktionaryの往路 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、Creative Commons Attribution-ShareAlike (CC-BY-SA)もしくはGNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。
Tanaka Corpusのコンテンツは、特に明示されている場合を除いて、次のライセンスに従います:
 Creative Commons Attribution (CC-BY) 2.0 France.
この対訳データはCreative Commons Attribution 3.0 Unportedでライセンスされています。
浜島書店 Catch a Wave
Copyright © 1995-2024 Hamajima Shoten, Publishers. All rights reserved.
株式会社ベネッセコーポレーション株式会社ベネッセコーポレーション
Copyright © Benesse Holdings, Inc. All rights reserved.
研究社研究社
Copyright (c) 1995-2024 Kenkyusha Co., Ltd. All rights reserved.
日本語WordNet日本語WordNet
日本語ワードネット1.1版 (C) 情報通信研究機構, 2009-2010 License All rights reserved.
WordNet 3.0 Copyright 2006 by Princeton University. All rights reserved. License
日外アソシエーツ株式会社日外アソシエーツ株式会社
Copyright (C) 1994- Nichigai Associates, Inc., All rights reserved.
「斎藤和英大辞典」斎藤秀三郎著、日外アソシエーツ辞書編集部編
EDRDGEDRDG
This page uses the JMdict dictionary files. These files are the property of the Electronic Dictionary Research and Development Group, and are used in conformance with the Group's licence.

©2024 GRAS Group, Inc.RSS