往路
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「第64回東京箱根間往復大学駅伝競走」の記事における「往路」の解説
1区はスタート直後から大東大の1年生・実井謙二郎が飛び出す。駒大・斎藤篤孝が1人実井を追うが、残る13人は集団のまま控える展開となった。実井は中間点で後続に1分以上のリードを奪い独走。13km手前で斎藤を吸収した集団から順大・三浦武彦が仕掛けて猛追するが、実井が逃げ切りトップでタスキリレー。三浦は16秒差で続いた。 大東大は前回2区で区間賞を獲得し、関東インカレ2部では長距離4冠を達成した大エース・只隈伸也の快走が期待されたが、14km過ぎに順大・鈴木賢一に逆転を許す。鈴木は只隈を突き放しトップでタスキリレー。31秒差の2位で続いた中大・楜澤俊明が区間賞を獲得した。只隈は区間6位に終わり、大東大は3位に後退した。 順大は3区の打越忠夫・4区の石原典康が連続区間賞で後続との差を広げ、5区の倉林俊彰も区間2位の好走。2位の大東大に6分09秒の大差をつけ往路優勝を飾った。日体大は5区の平山征志が区間賞を獲得し7分42秒差の3位。7位の日大以下9校が復路一斉スタートとなった。
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「ヴォルフ (仮装巡洋艦・2代)」の記事における「往路」の解説
「ヴォルフ」は1916年11月24日に艦長ナーゲル(英語版)海軍大佐の指揮下で、キールを出港したが、石炭庫での火災のため引き返した。11月30日、ヴォルフはあらためて出港。悪天候に助けられてイギリス海軍の封鎖網を突破に成功し、12月2日にロッコール島沖に達した。1917年1月17日にはアフリカ南端に至り、それから喜望峰、ボンベイ、コロンボ沖に機雷を敷設した。この機雷により1917年2月までに5隻の英国船が、7月までに3隻の英国船と日本貨物船「第七雲海丸」などが触雷沈没した。 同年1月末にインド洋で英国タンカー「Turritella」を拿捕した。同船は大戦勃発直後にイギリスに拿捕されたドイツハンザ汽船 旧「グーテンフェルス」をタンカーに改造した船で「ヴォルフ」の準姉妹船だった。拿捕した後イギリス人船員を収容、ドイツ軍乗員と機雷25個を移し、武装商船「イルティス」と改称して使用した。「イルティス」は単独でアデン港沖に機雷を敷設したが、イギリス軍艦に発見され自沈した。この際脱出した中国人船員から「ヴォルフ」の存在が明るみに出て、「ヴォルフ」はオーストラリア方面に逃走した。 オーストラリアへの途上3月、2隻の英国貨物船を拿捕し爆沈処分、パース付近でも帆船を処分した。オーストラリア南を迂回し、ラウル島近辺で仮泊し、水・果物の補給や船体の補修を行なった。その後ニュージーランド近海で英貨客船を拿捕、多量の食料品と石炭1,200トンを奪って撃沈。6月末にニュージーランド近海に多数の機雷を敷設し、7月に3隻が触雷沈没した。8月にも英貨物船を襲い、石炭を奪った。この頃になると船倉が捕虜ですし詰めとなってきたので、帰国の途についた。9月シンガポール東方に機雷を敷設し、再びインド洋に入った。
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「皇太子裕仁親王の欧州訪問」の記事における「往路」の解説
一行の艦隊は6日午前9時15分には最初の寄港地である沖縄県の中城湾に到着した。裕仁親王は与那原から那覇、首里に行啓し、さらに尚侯爵邸で中学校生徒の唐手の演武を台覧した。ここで裕仁親王は沖縄県特産の「エラブウナギ(エラブウミヘビ)」に興味を示しており、同県出身の漢那憲和香取艦長に食べてみたいと話していた。漢那艦長は沖縄県知事川越壮介に連絡を取り、「エラブウナギ」を取り寄せて食卓に供した。裕仁親王は「たいへんおいしかった」と漢那艦長に告げている。午後6時には中城湾を出港した。沖縄での滞在時間はほんの半日足らずであったが、昭和天皇の生涯にとってこの時が最初で最後の沖縄県訪問となった。 艦内で裕仁親王は規則正しい生活を送り、御用掛山本信次郎海軍大佐にフランス語の御進講を受け、空いた時間には甲板でゴルフや相撲に興じた。一方で山本大佐は、裕仁親王が西洋式のテーブルマナーを身につけておらず、音を立ててスープをすすったりナイフやフォークもうまく使えていないことに気がついた。山本大佐はフランス語の御進講の時間を利用して裕仁親王にテーブルマナーを教授し、裕仁親王もそれに素直に従った。 10日午前8時、裕仁親王の一行はイギリス領香港に到着した。裕仁親王はレジナルド・スタッブス(英語版)香港総督と香取艦上で会見し、その後イギリスの巡洋艦におもむき答礼を行った。この香港が裕仁親王にとって最初の外国訪問となった。11日には閑院宮、総督とともに平服で香港島を巡遊し、午後には鹿島艦上に在留邦人を招いて余興が行われた。翌12日には青洲(英語版)(英語名グリーン島)を自動車で巡遊した。13日に香取は香港を出発した。 18日午前8時、一行は英領シンガポールに到着し、ローレンス・ギルマード(英語版)シンガポール総督の奉迎を受けた。19日には市内を見学し、20日にはラッフルズ博物館(現在のシンガポール国立博物館)を訪れた。21日にはヨットでシンガポール島を一周している。22日午前9時にシンガポールを出港した。 28日、一行はセイロン島(現:スリランカ)のコロンボに到着、初めて公式に上陸した。29日には特別列車で旧都キャンディを訪問し、寺院跡や博物館を訪れている。31日には海岸までのドライブやゴルフを楽しんでいる。4月1日午前9時、コロンボを出港した。 3日には鹿島の機関室で汽罐が破裂する事故が発生し、機関兵3名が死亡した。殉難者1人あたり500円を遺族に送ることなり、4日午前9時、裕仁親王は水葬礼を起立して見送った。7日には香取でも汽罐破裂事故が発生し、機関兵2人が死亡し、2人が重傷を負った。8日午後2時半、水葬で送られる。裕仁親王は現場に行くと主張し、漢那艦長や鈴木美三機関長を慌てさせた。12日午前、兵員用の作業服で香取の事故現場を視察する。赤道付近の航海は両艦の配管に負担をかけ、さらに熱による火薬暴発の危険もあったため、漢那艦長は爆薬や砲弾の炸薬を海中投棄させた。また侍医の高田寿は暑熱で体調を崩し、ポートサイド入港とともに船を降り、帰国途中のインド洋上で死亡した。しかし裕仁親王自身は扇風機や氷も使わず至って壮健であった。山本大佐や西園寺八郎は親王と相撲を取って幾度も親王を投げ飛ばしたものの、何度も立ち上がる親王にスタミナ負けするほどであった。 15日、一行はイギリス領エジプトのポートサイドに到着した。16日、スエズ運河航行中に先行の鹿島が座礁し、離脱するまで5時間待機する。18日にはカイロに到着し、イギリスの特別高等弁務官エドモンド・アレンビー(英語版)元帥の奉迎を受けた。裕仁親王はアレンビー元帥の案内により、ピラミッドの見物やエジプトのスルタン・フアード1世との非公式会談を行っている。21日、カイロを発つ。 @media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .mod-gallery{width:100%!important}}.mw-parser-output .mod-gallery{display:table}.mw-parser-output .mod-gallery-default{background:transparent;margin-top:.3em}.mw-parser-output .mod-gallery-center{margin-left:auto;margin-right:auto}.mw-parser-output .mod-gallery-left{float:left;margin-right:1em}.mw-parser-output .mod-gallery-right{float:right}.mw-parser-output .mod-gallery-none{float:none}.mw-parser-output .mod-gallery-collapsible{width:100%}.mw-parser-output .mod-gallery .title,.mw-parser-output .mod-gallery .main,.mw-parser-output .mod-gallery .footer{display:table-row}.mw-parser-output .mod-gallery .title>div{display:table-cell;text-align:center;font-weight:bold}.mw-parser-output .mod-gallery .main>div{display:table-cell}.mw-parser-output .mod-gallery .gallery{line-height:1.35em}.mw-parser-output .mod-gallery .footer>div{display:table-cell;text-align:right;font-size:80%;line-height:1em}.mw-parser-output .mod-gallery .title>div *,.mw-parser-output .mod-gallery .footer>div *{overflow:visible}.mw-parser-output .mod-gallery .gallerybox img{background:none!important}.mw-parser-output .mod-gallery .bordered-images .thumb img{outline:solid #eaecf0 1px;border:none}.mw-parser-output .mod-gallery .whitebg .thumb{background:#fff!important} 4月18日、ギーザでスフィンクスの写真を撮ろうとする親王 4月19日、カイロ博物館付属図書館を訪問 24日、一行はマルタ島に到着した。マルタ島では当時海軍士官として勤務していたケント公ジョージとも面会し、夜には総督ハーバート・プルーマー(英語版)の案内でオペラ「オテロ[要曖昧さ回避]」を観劇している。25日、かつて地中海の闘いで戦没した第二特務艦隊隊員の墓を拝礼する。26日正午、マルタ発。 30日、一行はジブラルタルに到着した。同地では寄港していたアメリカ海軍の司令官アルバート・パーカー・ニブラック(英語版)中将の訪問を受け、海軍工廠の見学を行った。またジブラルタル総督ホレイショ・スミス=ドリエン(英語版)、ニブラック中将とともにノース・フロントの競馬場を訪れた。ニブラック中将は親王らに馬の番号を書いた手製の馬券を渡し、裕仁親王に渡した番号の馬が一着になると、「正式ではないがとにかく賞金」として数枚のペニー銅貨を手渡した。裕仁親王が金銭を手にしたのはこのときが初めてであり、対処に困った親王は第三艦隊司令小栗孝三郎中将に銅貨を渡し、「こまったよ…あとでニブラック中将に返すように」と告げた。5月3日午前10時、ジブラルタル発。 ジブラルタル出航後は正式行事に台臨することも増加するため、山本大佐と西園寺のマナー御進講はいわば「特訓」ともいえるほどのものとなった。そのかいもあって裕仁親王は両名が安心するほどのマナーを身につけた。
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「第89回東京箱根間往復大学駅伝競走」の記事における「往路」の解説
この季節には珍しい強い南風が吹き平地では気温が10℃を超えた一方、午後は北風に変わり山との気温差が大きい珍しい気候となった。この気候が選手を悩ませることになる。
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1942年3月26日14時00分、3隻の駆逐艦と16隻の小型舟艇がコーンウォール・ファルマスを出発。船団は駆逐艦を中央列に配置した3列隊形を取っていた。サン=ナゼール到着時には左列の機動艇群がヴュー・モール、右列の機動艇群が旧入口を目指すこととされていた。また高速魚雷艇や機動砲艇は航続距離の関係から自力でのサン=ナゼール到達が困難だった為、「キャンベルタウン」や「アサーストン」によって曳航されて接近した。3月27日7時30分、「タインデール」がUボートとの接触を報告し、砲撃を開始。「キャンベルタウン」を除く2隻の駆逐艦は爆雷による対潜戦闘の為に船団を一時的に離れ、9時00分までに隊列へ復帰した。なお、このUボートは後にVII型「U-593(ドイツ語版)」と識別されている。その後、船団は2隻のフランス漁船と遭遇。この漁船がドイツ側に通報する恐れがあった事から、乗組員を強制的に下船させた後、漁船は2隻とも撃沈された。17時00分、付近にドイツ軍水雷艇5隻が展開している旨がプリマスの作戦司令部から船団へ報告される。それから2時間後、別のハント級駆逐艦2隻(HMSクリーブランド、HMSブロックレスビー)が船団への増援として派遣された。 21時00分、船団はサン=ナゼール沖65海里(120km)に到達。この時点で「アサーストン」と「タインデール」は周辺警戒の為に船団を離れ、また船団は機動砲艇と2隻の機動艇が先導し、その後ろに「キャンベルタウン」が続く隊形に移行する。残りの機動艇は船団の左右に展開し、残りの機動砲艇は「キャンベルタウン」の後方に続いた。この段階で機動艇のうち341号艇がエンジントラブルの為に落伍し、作戦における最初の損失となった。22時00分、先行していた「スタージョン」が誘導信号の発信を開始。これと同時に、「キャンベルタウン」はドイツ駆逐艦を装うべくドイツ海軍旗を掲げた。 23時30分、英空軍5個中隊(ホイットレイ爆撃機35機、ウェリントン爆撃機27機)が爆撃を開始。これらの航空部隊は海上から注意を逸らすため、高度1,800メートルを保ちつつおよそ60分間サン=ナゼール軍港上空に留まることとされていた。同部隊は明確に識別された軍事目標に対してのみ複数回の投下を行うべしと言明されていたものの、接近後に天候の大幅な悪化が明らかになり、サン=ナゼールへの爆撃を遂行できたのはわずか4機で、また6機が付近の標的へ爆撃を行なっている。 この奇妙な爆撃は、メッケ大尉を少なからず動揺させた。3月28日0時00分、メッケは落下傘降下が行われている可能性を疑い警報を発している。1時00分、彼は爆撃機が撤収したと判断し、高射砲による射撃を中止させると共にサーチライトを消灯させた。続いて厳戒態勢が宣言されると、守備部隊の将兵や各艦船の乗組員らは防空壕を出て警戒活動に移った。この間、海上での不審な活動に関する報告が行われ、メッケは海上からの上陸を含む各種の襲撃作戦が想定されるとして、特に軍港の警備を厳重にするよう命じている。
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往路
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「ベルタ・ベンツ・メモリアルルート」の記事における「往路」の解説
マンハイムからプフォルツハイムまでの約104km。 GPS-Download マンハイム、フォイデンハイム、イルフェスハイム、ラーデンブルク、シュリースハイム、ドッセンハイム、ハイデルベルク、ライメン、ヌスロッホ、ヴィースロッホ、ミンゴルスハイム、ランゲンブリュッケン、シュテットフェルド、ウブスタド、ブリュッサル、ウンターゴロンバッハ、ヴェインガーテン、ゲッティンゲン、ベルグハウゼン、セリンゲン、クラインシュタインバッハ、ヴィルフェルディンゲン、ケーニスバッハ、スタイン、アイシンゲン、プフォルツハイムを通るルートである。
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