往還と稚児ケ池
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/03 05:50 UTC 版)
稚児ケ池神社の由緒によると、稚児ケ池は四方5尺・深さ3から4尺(約1.5m☓約1.5m☓約0.9~1.2m)の大きさでありどんな旱魃でも渇れることはなかったという。こうしたことから「水の神」として信仰を集め、雨乞い祈願に近郷のみならず瀬戸内海沿岸からも訪れていた。 中国脊梁山地を超えて山陽と山陰を結ぶ往還が、中世にはこの地に存在していた。島根県側では「湯町八川往還」と呼称している。出雲国にあった寄進地系荘園の横田庄の代官はこの道を通って着任したと考えられている。稚児ケ池神社の由緒によると、往還のそばにあった稚児ケ池は水量豊富で通行する人馬の喉を潤したが、その周辺の地盤が軟弱であったため、水を求める者が近寄るとぬかるみに足元を取られ溺死した者もあったという。 中国山地では古くからたたら製鉄が盛んだったところである。ここでもたたら場跡が存在し、奥出雲御三家の一つ絲原家が明治30年代末時点で18戸74人からなる鍛冶場(たたら製鉄での精錬所)を置いていたという。 大正時代に編纂された『比婆郡制誌』には「横田帝釈線」「横田西城線」が記載されており、横田西城線は大正10年(1921年)に広島県道に認定されている。
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