標的艦
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標的艦(ひょうてきかん、Target ship)は海軍の艦種の一つである。アメリカ海軍では実艦標的を目標として沈める演習をSink Exercise(SINKEX)と呼ぶ[1]。
注
- ^ 分類上は艦船とされる場合も多くあいまいである。詳しくは軍艦の項目や大日本帝国海軍艦艇類別変遷を参照。
- ^ 測量艦は水路氣象の探求調査に從事するもの、標的艦は艦砲射撃訓練の標的曳航に從事するもの、練習特務艦は教育に適する設備を有するもので三者共平時任務に属し、云はゞ戰闘力の培養機關であります[2]。
- ^ 第三款 標的用ニ變更セラルベキ艦船[5]
(イ)専ラ標的用ニ變更スルコトニ依リ處分セラルベキ艦船ハ左記物件ガ撤去セラレ且陸揚セラレタルカ又ハ艦内ニ於テ使用不能ノモノト爲サレタルトキハ戰闘任務ニ堪ヘザルモノト看做サルベシ (一)一切ノ砲/(二)一切ノ射撃指揮所及射撃指揮要具竝ニ主要射撃指揮通信電線/(三)砲架操作用又ハ砲塔操作用ノ一切ノ機械/(四)一切ノ彈藥、爆藥、機雷、魚雷及魚雷發射管/(五)一切ノ航空用設備及附属物件 本艦船ハ艦船ヲ戰闘任務ニ堪ヘザルモノト爲スコトニ關シ第一款ニ於テ規定セラルル所ト同一期限迄ニ前記状態ト爲サルルコトヲ要ス
(ロ)各締約國ガ「ワシントン」條約ニ依リ既ニ有スル權利以外ニ各締約國ハ専ラ標的用ノ爲左記ヲ何時ニテモ同時ニ保有スルコトヲ許サル (一)三隻ヲ超エザル艦船(巡洋艦又ハ驅逐艦)但シ右三隻中一隻ニ限リ基準排水量三千トン(三千四十八メートル式トン)ヲ超ユルコトヲ得/(二)潜水艦一隻
(ハ)標的用ノ爲艦船ヲ保有シタルトキハ當該締約國ハ之ヲ再ビ戰闘任務用ニ變更セザルコトヲ約ス - ^ a b 射撃は四日午前に於て遺憾なく施行せられたり。之に先だつて標的艦壹岐は他艦に曳かれつゝ御召艦の近傍を過ぎ行きぬ。時に殿下は武官等を随へ給ひて後甲板にあらせられしが、東郷總裁は恭しく御前に進み、重々しき口を開きて、壹岐の前身たる露艦「ニコライ」一世の日本海に於ける戰況、竝に遂に鬱陵島附近に於て我が艦隊の爲めに包圍せられ、他の三艦と共に降旗を掲げたる其の顛末を御説明申上げ、猶ほ同艦は皇國の艦籍に入りてより盡す所尠からず、今は亦射撃の標的となり、實驗上に貢献する所あらんとする旨を言上せり 此の時元帥は思はず海戰當時を追憶してや、沈箸なる其の面上にも痛烈の氣漂ひ、三笠艦上に立てる面影を髣髴し來れり。[7](以下略)
- ^ ワシントン海軍軍縮条約による保有艦艇整理など[10]。
- ^ 特攻兵器、原子爆弾や水素爆弾などの核実験、ミサイルの標的など。
- ^ ワシントン軍縮会議で、日本側は長門型戦艦陸奥を保有するかわりに、摂津を廃棄することになった[14]。
- ^ USS Iowa, BB-4は初代。アイオワ級戦艦のアイオワ (USS Iowa, BB-61) は2代目。
- ^ SMS Prinz Eugen。ドイツ海軍 (Kriegsmarine) のプリンツ・オイゲン (Prinz Eugen) は、アドミラル・ヒッパー級重巡洋艦。
- ^ Alabama, BB-8は2代目。サウスダコタ級戦艦のアラバマ (USS Alabama, BB-60) は3代目。
- ^ New Jersey, BB-16は初代。アイオワ級戦艦のニュージャージー (USS New Jersey, BB-62) は2代目。
- ^ 日本海で勇名を馳せた 軍艦明石撃破沈没 海行かばの曲 海底の藻屑と消ゆ[34]【東京十四日】日本海々戰で勇名を馳せた明石(二千八百噸)は追濱飛行隊一本一万圓の魚雷發射の犠牲として相模灣にて沈没された、この日聯合艦隊は軍樂隊に「海行かば」の曲を奏でさせ谷口軍令部長、岡田大将等は昔を偲んで感慨無量であつた(記事おわり)
- ^ 桜弾は日本陸軍の特攻兵器で[35]、四式重爆撃機を改造して搭載した。
- ^ (実驗弾種)桜弾(陸軍)[35](装備状況)最上甲板上飛行甲板と同高の櫓上(艦最後部)(撃角二〇度)|(結果)艦底破孔 六九〇×八〇〇 浸水一五〇T
脚注
- ^ 米攻撃原潜がハープーンを試射/ 世界の艦船
- ^ 艦隊の編制の話 1938, p. 15原本18-19頁
- ^ #対戦艦空中爆撃 p.4〔 英國ニ於ケル對戰艦爆撃演習 大正十二年八月一日(標的艦アガメムノン、表略)標的艦ハ無電ニテ操縦シ不規ニ速力ノ増減及少角度ノ変針ヲ行フ 〕
- ^ a b 軽巡二十五隻 2014, pp. 157–160標的艦に新天地をもとめて
- ^ 帝国法規、外交篇 1933, pp. 573b-574標的艦条文
- ^ 帝国法規、外交篇 1933, p. 573a艦船ノ處分規則
- ^ 東郷全集1巻 1935, pp. 319–320原本613-614頁
- ^ a b 昭和天皇実録二 2015, pp. 153–154(大正四年十月)四日 月曜日(標的艦壱岐に対する射撃開始)
- ^ 戦艦の話 1938, pp. 19–20原本28-31頁
- ^ 海軍夜話 1943, pp. 110–112(原本193-195頁)軍縮條約の廢棄艦
- ^ #戦艦対飛行機問題(6) pp.5-8〔 一.標的艦ノ準備 〕
- ^ a b 福井、世界空母物語 2008, p. 133.
- ^ マルタ島攻防戦 1986, p. 72.
- ^ 海軍五十年史 1943, pp. 145–146原本269-270頁
- ^ 補助艦艇奮戦記 2016, p. 284a攝津(せっつ/標的艦)
- ^ 補助艦艇奮戦記 2016, pp. 284b-285矢風(やかぜ/標的艦)
- ^ a b 補助艦艇奮戦記 2016, pp. 284c-285.
- ^ 変わりダネ軍艦 2017, p. 15.
- ^ 変わりダネ軍艦 2017, pp. 21–22.
- ^ 補助艦艇奮戦記 2016, p. 285a波勝(はかち/標的艦)
- ^ 補助艦艇奮戦記 2016, p. 286大浜(おおはま/標的艦)
- ^ 変わりダネ軍艦 2017, pp. 37–38.
- ^ 「Shin Sekai Shinbun 1930.04.24、新世界新聞/nws_19300424(スタンフォード大学フーヴァー研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.J21021682400 p.1〔 三十年海軍條約内容 ― 調印後全文發表さる ― 〕
- ^ 海軍五十年史 1943, pp. 161–162(原本300-303頁)倫敦協定の主要條項
- ^ 「大正13年7月7日(月)海軍公報(部内限)1119号 p.5」 アジア歴史資料センター Ref.C12070294800 〔 ○訂正 六月二十六日公報(部内限)號外 聯合艦隊戰技施行豫定期日一覽表中七月二十五日ノ部ヲ|二五|長門、陸奥第六回教練射撃 肥前ヲ目標トスル星彈研究射撃發射(金剛、比叡、第一驅逐隊)|ニ、同二十八日ノ部中「第五一驅逐隊」ヲ「第二一驅逐隊」ニ、同三十一日ノ部中「第四二驅逐隊」ヲ「第四五驅逐隊」ニ、八月三日ノ部中「名取、長良」ヲ「由良、名取」ニ、同四日ノ部中「由良、平戸」ヲ「長良、川内、平戸」ニ孰モ訂正 〕
- ^ a b 東郷全集2巻 1935, pp. 211–212(原本385-386頁)見るに忍びず
- ^ 昭和天皇実録四 2015, pp. 129–130六日 土曜日 大島南方海面における研究射撃
- ^ 海軍夜話 1943, pp. 109–110(原本191-193頁)列強驚嘆の精鋭艦
- ^ 帝国法規、外交篇 1933, p. 572.
- ^ マッキンタイヤー、空母 1985, pp. 30–33英空軍の創設、米国にも独立空軍論
- ^ a b #対戦艦空中爆撃 pp.6-7〔 米國ニ於ケル對戰艦爆撃實験 本年九月五日 〕
- ^ a b マッキンタイヤー、空母 1985, p. 32.
- ^ #対戦艦空中爆撃 p.10〔 (五)帝國海軍ニ於ケル爆撃實験 本年七月相模灘ニ於テ旧戰艦石見ニ對シ實施シタルモノニシテ其要領左ノ如シ(表略) 〕
- ^ 「Shin Sekai Shinbun 1930.08.15、新世界新聞/nws_19300815(スタンフォード大学フーヴァー研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.J21021704800 p.1
- ^ a b 海軍軍備(6), p. 59.
標的艦
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しかし、ユタの戦艦としての経歴は1930年にピリオドが打たれた。同年に開催されたロンドン海軍軍縮会議の結果、ユタは削減対象となり、旧式化した標的艦ノースダコタ(USS North Dakota, BB-29)を代替することになった。ユタは1931年7月1日に分類番号が AG-17 となり、ノーフォーク海軍造船所で改装され、無線操縦装置が取り付けられた。1932年4月1日、ユタはノーフォークでランドル・ジェイコブズ艦長の下で再就役し、4月7日に無線操縦装置のテストと技術者の訓練のためにノーフォークを出港。操縦船から伝えられた信号によりユタの電動機が自動で作動し、ボイラーの開閉や舵機の作動、燃料供給の自動調節が行われた。また、スペリー社製のジャイロコンパスによって、艦は定められたコースを正確に進んだ。4月21日に一旦帰投した後、5月6日に再度の無線試験をバージニア岬で行うため出港した。6月1日、ユタは3時間あまり無線操縦により航行し、次の2日間には連続航行時間は4時間に達した。この間、人間による機械の操作は行われず、2名のオブザーバーは2つのボイラー室の前で観測を行い、電話で結果を知らせた上で記録にとどめた。 一連の試験航海が終わると、ユタは6月9日にノーフォークを出港し、パナマ運河を通過して太平洋に出た後、6月30日にサンペドロに到着。合衆国艦隊基地戦隊の第一練習戦隊に加わり、7月26日に巡洋艦のための標的艦となったのに続き、8月2日にはネバダとともに操縦演習を行い、ユタは駆逐艦ホーヴェイ(USS Hovey, DD-208)およびタルボット(USS Talbot, DD-114)に操縦された。以後9年間にわたり、ユタは動く標的艦として艦隊に大いに貢献した。特に、海軍航空部隊による航空雷撃、急降下爆撃、高度の水平爆撃の訓練に現実味を与えた効果は大きく、三領域における新戦法の開発の一助となった。1936年夏に行われた演習第17次フリート・プロブレム(英語版)では、ユタは輸送船の役を行い、ミッドウェー島内のサンド島およびヒロにおける上陸演習では223名の海兵隊員を乗せてハワイから出動した。演習終了後、ユタは6月12日に海兵隊員をハワイからサンディエゴに輸送した。 ユタは1935年6月から砲術練習艦としても使用されており、1936年8月にローリー(USS Raleigh, CL-7) 、コンコード(USS Concord, CL-10) 、オマハ(USS Omaha, CL-4) 、メンフィス(USS Memphis, CL-13) 、ミルウォーキー(USS Milwaukee, CL-5) および空母レンジャー(USS Ranger, CV-4)からの講習生を集め、9月20日から最初の砲術講習が行われた。1936年から1937年にかけては、新開発の75口径1.1インチ砲(英語版)がユタに搭載され、初期試験が行われた。 ユタはまた、動く標的艦や砲術練習艦としての行動のほかに、軍事演習時の目標の曳航艦としても、年一度の大演習で使用された。1939年1月9日、ユタは演習第20次フリート・プロブレムに参加するためパナマ運河を通過した。この際、ユタが操縦される様子をフランクリン・ルーズベルト大統領がヒューストン(USS Houston, CA-30)艦上から見学した。同年秋から冬にかけて第6潜水戦隊の訓練に参加した後、特殊機関銃の慣熟訓練に8ヵ月費やした。1940年夏、ユタはハワイに向かい、8月1日から12月14日まで真珠湾周辺において高度な対空訓練を行い、訓練終了後12月21日にロングビーチ (カリフォルニア州)に到着した。 次の2ヵ月間、ユタはサンクレメンテ島(英語版)沖での爆撃訓練に参加し、空母レキシントン(USS Lexington, CV-2)、サラトガ(USS Saratoga, CV-3)およびエンタープライズ(USS Enterprise, CV-6)からの艦載機の「空襲」を受けた。ユタは1941年4月1日に真珠湾に戻り、ウェストバージニア(USS West Virginia, BB-48) 、オクラホマ、コロラド(USS Colorado, BB-45) 、フェニックス(USS Phoenix, CL-46) 、ナッシュビル(USS Nashville, CL-43) 、フィラデルフィア(USS Philadelphia, CL-41)およびニューオーリンズ(USS New Orleans, CA-32) からの講習生を集めて、数週間もの間、5インチ砲の射撃訓練に始まり、12.7ミリ機銃や1.1インチ砲で無線操縦の無人航空機に対しての射撃訓練を含む対空射撃訓練を行った。5月20日、ユタは海兵隊員を輸送するため出港し、ロサンゼルスを経て一週間後にブレマートンに到着。海兵隊員を上陸させた後、5月31日にピュージェット・サウンド海軍造船所に入渠した。 ユタはオーバーホールと同時に砲術訓練艦用装備の改修が行われた。この改修で、現役駆逐艦が装備しているのと同じ防盾付き単装38口径5インチ砲が装備された。また、Ms.1 迷彩が施され、全面が「5-D ダークグレー」、マストと天板が「5-L ライトグレー」で塗装された。塗装が完了すると、9月14日にハワイに向けて出航した。ワシントン州ポート・タウンゼント(英語版)、カリフォルニア州サンフランシスコ、サンペドロに寄港し、その後まもなく真珠湾に到着、晩秋まで対空砲撃および目標任務に従事した。
※この「標的艦」の解説は、「ユタ (戦艦)」の解説の一部です。
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