標的艦として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/18 16:07 UTC 版)
太平洋戦争が始まり標的艦が「摂津」1艦では足らなくなった。また元戦艦の「摂津」は18ノットと低速で運動能力も低かったため「矢風」も爆撃標的艦に改装することとなった。改装内容は兵装を全廃して、上部構造物を金網で覆う等の対爆弾防御を施した。速力は24ノット発揮できたが、元が駆逐艦のため1kg演習弾に耐える程度の簡単な防御しか施せなかった。このときの改造では無線操縦装置はそのまま残されたが、これは1944年10月に撤去された。 1942年(昭和17年)3月から5月にかけて改造し、7月20日に特務艦に編入され標的艦に類別される。改造を終えた本艦は8月下旬に南方へ進出する。マーシャル諸島方面にて基地航空隊の爆撃訓練に従事中、南雲忠一機動部隊司令長官よりトラック泊地での航空隊訓練に参加するよう要請された。9月27日ロイ=ナムル島(ルオット)を出発しミリ環礁(ミリ)へ向かっていた「矢風」は予定を変更、水上機母艦「神威」から補給を受けたのち、10月2日にトラック泊地へ到着。空母「翔鶴」「瑞鶴」「瑞鳳」の爆撃訓練に協力した。10月9日、機動部隊の爆撃訓練を終えてタロア島(マロエラップ環礁)へ回航され、14日から23日まで基地航空隊の訓練に参加する。また各地航空隊の訓練に協力するだけでなく、前線への輸送任務・護衛にも従事した。 1943年(昭和18年)3月6日、船団護衛中カビエン南方で第34号哨戒艇と衝突して艦首を失ったため、4月12日から5月22日にかけて呉海軍工廠で修理を行った際に簡易型艦首とした。一方、第34号哨戒艇はこの事故で船体が分断され、前部が沈没、後部が大破し、曳船の曳航でトラックに入港した。修理中の6月1日、古賀峯一連合艦隊長官より第一基地航空部隊(第十一航空艦隊)編入と7月のマーシャル方面部隊訓練、8月ラバウル方面部隊訓練に従事するよう下令される。 6月艦長となった櫻庭は、「矢風」には砲が搭載されていなかったことから潜水艦対策として木造の偽砲を作らせ、全甲板と後甲板に配置した。 6月10日に呉を出発、途中まで「摩耶丸」「あきつ丸」「凌水丸」を護衛したのち、6月18日ルオットへ到着。以後、サイパンやギルバート方面で訓練に従事した。 8月13日、サイパンを出港し輸送船「五洲丸」を護衛してサイパン入港。8月31日、サイパン出港。途中で輸送船「富士山丸」、「東亜丸」、給油艦「鶴見」、駆逐艦「玉波」と合流し9月2日にトラック到着。同地で機動部隊の訓練標的を務めた。9月12日、訓練中に「翔鶴」の戦闘機1機が「矢風」の前檣に衝突し搭乗員が死亡するという事故が発生した。9月20日、機動部隊に編入。10月18日、輸送船「東亜丸」を護衛してエニウェトクへ向け出港。10月21日、エニウェトク到着。10月30日、トラックに戻った。同日、機動部隊から除かれ連合艦隊附属となり、油槽船「寶洋丸」と「玄洋丸」のトラックからシンガポールまでの護衛が命じられた。11月5日、トラック出港。 1月6日、船団はアメリカ潜水艦「ハダック」の襲撃を受けた。砲撃を受けていたさなかに「矢風」は12ノットで「玄洋丸」の右舷後部に衝突し、艦首が折れ曲がった。続いて「宝洋丸」が被雷し、「矢風」でも雷跡を認めたが、それは「矢風」の艦底を通過した。「矢風」は爆雷攻撃を行うとともに「宝洋丸」乗員を収容。その後、現場に到着した軽巡洋艦「長良」に「宝洋丸」乗員を移し、輸送船「金城丸」に伴われてトラックへと向かった。11月7日トラック到着。同地で修理を行った。 1944年2月7日、トラック発の船団を護衛して内地へ向かい、2月27日に呉に入港した。その後は北海道方面など内地で爆撃訓練に従事した。 1945年(昭和20年)7月18日 横須賀港小海に係留中に敵艦載機の攻撃を受ける(横須賀空襲)。隣の艦が直撃弾を受けた際に爆風や破片により損傷し、すぐに修理されたがそのまま終戦を迎えた。9月15日除籍。 戦後は長浦湾に係留されていたが浸水により着底。1948年(昭和23年)7月から9月にかけて解体された。
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