連合艦隊長官
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/11 23:37 UTC 版)
1944年(昭和19年)5月3日、連合艦隊司令長官に着任。前任の連合艦隊司令長官古賀峯一大将の遭難・殉職(いわゆる海軍乙事件)を受け連合艦隊司令長官に親補される。先任順では山本五十六の死後、連合艦隊司令長官に補職されるべき職位に居たが、兵学校1期後輩の古賀峯一が選任された事にこだわり続け、戦争末期の就任時にも当初は「今さら任されても自分にできる事は何もないし気力もない」と突っぱねた。当初、連合艦隊司令部を軽巡洋艦大淀に設置したが後に司令部を慶應義塾大学横浜日吉校舎内に移動し陸上から指揮を執った。 1944年12月1日、神雷部隊を視察。隊員に神雷鉢巻と短刀を授与する。 1945年4月、戦艦大和を含む第二艦隊による海上特攻隊が実施された。この作戦は連合艦隊参謀神重徳大佐が参謀長草鹿龍之介中将を通さずに豊田から直接裁決を得た。豊田は「大和を有効に使う方法として計画。成功率は50%もない。うまくいったら奇跡。しかしまだ働けるものを使わねば、多少の成功の算あればと思い決定した」という。 1945年(昭和20年)4月25日、兼海軍総司令長官。5月1日、兼海上護衛司令長官。
※この「連合艦隊長官」の解説は、「豊田副武」の解説の一部です。
「連合艦隊長官」を含む「豊田副武」の記事については、「豊田副武」の概要を参照ください。
- 連合艦隊長官のページへのリンク