連合艦隊旗艦大淀
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「大淀 (軽巡洋艦)」の記事における「連合艦隊旗艦大淀」の解説
1944年(昭和19年)3月6日、大淀を連合艦隊旗艦とする改装がはじまった。太平洋戦争では、日清・日露戦争のような艦隊決戦(英語版)は生起せず、連合艦隊司令部が第一戦隊を直率して主力艦隊の先頭に立つような事態は起こらなかった。後方で全体指揮を執るため、連合艦隊旗艦任務のために主力艦(大和型、長門型)が遊兵化していた。そこで「独立旗艦ならば戦艦でなくても巡洋艦でよいのではないか?」という機運が生じる。海軍は潜水戦隊旗艦用として設計された大淀の通信能力に着目し、大型射出機を撤去して従来型の射出機と水上偵察機を搭載、格納庫を改装して司令部施設に変更、連合艦隊の旗艦となる予定であった。大淀の工事は5月1日に完了、豊田連合艦隊司令長官や草鹿龍之介連合艦隊参謀長を迎えて、5月3日に将旗を掲げた。旗艦任務は5月4日から9月29日である。豊田長官は大淀の防御力の低さを懸念して、万一戦死したら「まるで日本海軍の足元を見られるようで、嫌だな」と渋ったという。「戦死するなら、武蔵か大和のデッキで死にたい。こんな船の上ではいやだ」だったとも伝えられる。高田利種参謀副長は、大淀の対空防御力や通信力を説明して豊田をなだめている。なお大淀と陸上間に海底ケーブルを敷設して大本営との直接連絡をおこない、電波はケーブルを使って送信所から発信、受信のみ大淀で行うという方式である。 5月6日、篠田勝清大佐(大淀艦長)は戦艦山城艦長に補職される。第8駆逐隊司令や第10駆逐隊司令を歴任した阿部俊雄大佐が、後任の大淀艦長となった。 改装後の初任務はマリアナ沖海戦での柱島(あ号作戦発令は木更津沖、5月23日より柱島)からの直接指揮だった。予想作戦海域の電波状況が悪かったため小笠原諸島に進出することも検討されたが、完全な電話施設を持った浮標を持つ柱島泊地からの指揮が望ましいとされたためである。しかしこのような処置は間に合わせのものであり、連合艦隊司令部は陸上にあって後方指揮を執るのが妥当とされた。9月29日に連合艦隊司令部は丘に上がった。大淀は連合艦隊旗艦の役目を解かれて、ただの軽巡洋艦という立場に戻った。規則のうるさい連合艦隊旗艦任務にうんざりしていた乗組員は逆に安堵し、鈴木孝一大淀砲術長も前任の戦艦武蔵主砲発令所長勤務より「連合艦隊司令長官護衛任務はずっと難しかった」と回想している。 この頃の大淀では人事異動があった。8月15日、阿部俊雄大佐(大淀艦長)は大和型戦艦3番艦改造空母信濃の艤装員長に補職され、牟田口格郎大佐が後任の大淀艦長となる。横須賀に停泊中の山城や大淀からは、阿部大佐が艤装員長および初代艦長となった信濃の艤装工事を見ることが出来た。また、当時横須賀方面に配備されていた空母雲龍の対空射撃訓練に、大淀艦載機が協力した。その後のレイテ沖海戦、礼号作戦、北号作戦に参加した(詳細後述)。
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