連合艦隊旗艦期とは? わかりやすく解説

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連合艦隊旗艦期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 02:16 UTC 版)

武蔵 (戦艦)」の記事における「連合艦隊旗艦期」の解説

1943年昭和18年2月11日武蔵大和から連合艦隊旗艦の座を譲り受けた2番艦でありながらこの抜擢は、(上記にもあるように)連合艦隊司令部施設要求反映されたゆえであった考えられている。武蔵連合艦隊旗艦になった最後戦艦であり、太平洋戦争期間中に一番長連合艦隊旗艦務めた艦でもある。 しかし、トラック諸島泊地からは動くことは無く旗艦となって戦い最前線に立たなかったことから、当時将兵達が大和を「大和ホテル」と揶揄していたように武蔵も「武蔵御殿」「武蔵旅館」と陰口叩かれるようになっていた。4月18日聯合艦隊司令長官山本五十六戦死宇垣纏参謀長重傷を負う(海軍甲事件)。後任連合艦隊司令長官には古賀峯一大将任命され古賀長官トラック泊地移動して武蔵将旗掲げた5月12日連合軍アッツ島上陸開始するアッツ島の戦い)。連合艦隊主力艦艇は東京湾集結することになり、これを機会昭和天皇武蔵行幸予定組まれる5月17日武蔵同行艦艇トラック泊地出発する22日武蔵山本元帥遺骨と共に東京湾到着した翌日元帥遺骨東京駅到着した6月24日昭和天皇が「武蔵」に行幸し、艦内見学した7月31日武蔵日本発ち8月5日に再びトラックへと到着し訓練続けられた。翌年1944年昭和19年2月10日トラック泊地発ち15日横須賀帰還海軍トラック落ちたことから、西カロリン諸島パラオ根拠地を移すため、24日には武蔵は3陸軍上陸部隊と5000tもの大量物資積んで横須賀出て29日到着した。そして3月29日パラオに迫るアメリカ軍対し聯合艦隊司令部陸上に移す為、環礁出てダバオ移動中、米潜水艦タニー雷撃により魚雷1本を艦首部に受け、小破。2600t余り浸水許し戦死者7名、負傷者11名を出した二日後の31日古賀長官事故による行方不明海軍乙事件に伴い旗艦の任を解かれ日本帰還することになった

※この「連合艦隊旗艦期」の解説は、「武蔵 (戦艦)」の解説の一部です。
「連合艦隊旗艦期」を含む「武蔵 (戦艦)」の記事については、「武蔵 (戦艦)」の概要を参照ください。

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