連合艦隊旗艦期
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1943年(昭和18年)2月11日に武蔵は大和から連合艦隊旗艦の座を譲り受けた。2番艦でありながらこの抜擢は、(上記にもあるように)連合艦隊司令部施設の要求が反映されたゆえであったと考えられている。武蔵は連合艦隊旗艦になった最後の戦艦であり、太平洋戦争期間中に一番長く連合艦隊旗艦を務めた艦でもある。 しかし、トラック諸島泊地からは動くことは無く旗艦となっても戦いの最前線に立たなかったことから、当時の将兵達が大和を「大和ホテル」と揶揄していたように、武蔵も「武蔵御殿」「武蔵旅館」と陰口を叩かれるようになっていた。4月18日、聯合艦隊司令長官山本五十六が戦死、宇垣纏参謀長も重傷を負う(海軍甲事件)。後任の連合艦隊司令長官には古賀峯一大将が任命され、古賀長官はトラック泊地に移動して武蔵に将旗を掲げた。 5月12日、連合軍はアッツ島に上陸を開始する(アッツ島の戦い)。連合艦隊の主力艦艇は東京湾に集結することになり、これを機会に昭和天皇の武蔵行幸の予定が組まれる。5月17日、武蔵と同行艦艇はトラック泊地を出発する。22日、武蔵は山本元帥の遺骨と共に東京湾に到着した。 翌日、元帥の遺骨は東京駅に到着した。6月24日、昭和天皇が「武蔵」に行幸し、艦内を見学した。 7月31日に武蔵は日本を発ち、8月5日に再びトラックへと到着し、訓練が続けられた。翌年の1944年(昭和19年)2月10日にトラック泊地を発ち、15日に横須賀に帰還。海軍はトラックが落ちたことから、西カロリン諸島のパラオに根拠地を移すため、24日には武蔵は3陸軍上陸部隊と5000tもの大量の物資を積んで横須賀を出て、29日に到着した。そして3月29日、パラオに迫るアメリカ軍に対し、聯合艦隊司令部を陸上に移す為、環礁を出てダバオへ移動中、米潜水艦タニーの雷撃により魚雷1本を艦首部に受け、小破。2600t余りの浸水を許し戦死者7名、負傷者11名を出した。 二日後の31日、古賀長官の事故による行方不明(海軍乙事件)に伴い、旗艦の任を解かれ、日本に帰還することになった。
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