海軍甲事件
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海軍甲事件(かいぐんこうじけん)とは、第二次世界大戦中の1943年(昭和18年)4月18日に、前線を視察中の連合艦隊司令長官山本五十六海軍大将の搭乗機がアメリカ軍戦闘機に撃墜され、山本が戦死した事件である。アメリカ側名称はヴェンジェンス作戦(英語: Operation Vengeance)。
注釈
出典
- ^ 吉村昭『戦史の証言者たち』文藝春秋35-36頁
- ^ 『日本軍航空機総覧』新人物往来社197頁
- ^ 週刊文春2010年12・19日夏季特大号。保坂正康のルポ
- ^ 吉村昭『戦史の証言者たち』文藝春秋36頁
- ^ a b c 春名幹男『秘密のファイル CIAの対日工作(上)』新潮社<新潮文庫>、2003年、163頁
- ^ エドウィン・T・レートン(Edwin T. Layton)著 毎日新聞外信グループ訳「エピローグ 東京湾へ」『太平洋戦争暗号作戦(下)』P321
- ^ a b 春名幹男、2003年、164頁
- ^ 山本長官機撃墜、米に暗号筒抜け 古い乱数表を使う共同通信2008年9月27日
- ^ 蜷川親正『山本五十六の最期 - 検死カルテに見る戦死の周辺』光人社、1986年(光人社NF文庫、1996年)
- 1 海軍甲事件とは
- 2 海軍甲事件の概要
- 3 被害
- 4 関連項目
海軍甲事件
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詳細は「海軍甲事件」を参照 い号作戦終了後、山本は、ブーゲンビル島、ショートランド島の前線航空基地の将兵の労をねぎらうため、ラバウルからブーゲンビル島のブイン基地を経て、ショートランド島の近くにあるバラレ島基地に赴く予定を立てた。その前線視察計画は、艦隊司令部から関係方面に打電された。小沢治三郎は、山本機と宇垣機の護衛戦闘機が少ないことを危惧し、先任参謀・黒島亀人に護衛機を50機増やすことを宇垣に伝えるよう託した。黒島はデング熱で体調が悪く宇垣に伝えなかった。 アメリカ海軍情報局は、4月17日に「武蔵」から発信された暗号電文を解読してこの前線視察の情報を知った。ニミッツは、山本暗殺の議論で後にもっと優秀な司令官が出てくることを心配したが、太平洋艦隊情報参謀エドウィン・レイトンから「山本長官は、日本で最優秀の司令官である。どの海軍提督より頭一つ抜きん出ており、山本より優れた司令官が登場する恐れは無い」という答えがあり、また、山本が戦死すれば日本の士気が大きく低下すること、山本がきわめて時間に正確な男で今度も予定を守るだろうということを理由に山本の暗殺を決断し、南太平洋方面軍司令官ウィリアム・ハルゼーに対する命令書を作成した。 4月18日午前6時、山本を含めた連合艦隊司令部は第七〇五航空隊の一式陸上攻撃機2機に分乗してラバウル基地を発進した。山本は1号機、宇垣は2号機に搭乗する。零式艦上戦闘機6機に護衛されブイン基地へ移動中、ブーゲンビル島上空で、アメリカ陸軍航空隊のP-38ライトニング16機に襲撃・撃墜され戦死した。この事件は後に海軍甲事件と呼称された。59歳没。戦死時に着用していた第三種軍装(陸戦用服装)は、太平洋戦争に突入してから山本が初めて着用したものだった。 戦死時、偶然にも一式陸攻の墜落を目撃した陸軍第六師団歩兵第二十三連隊長・浜之上俊秋大佐は、山本機とは知らず、軍医中尉・蜷川親博と見習士官・中村常男に捜索と救助命令を出した。墜落当日は発見に失敗した。歩兵砲中隊・浜砂少尉の部隊も、墜落機から煙草や食料を入手すべく、山本機とは知らずに捜索を開始した。中村隊と同様に墜落当日は到達できず、翌日になって山本機と山本らの遺体を発見した。佐世保鎮守府第六特別陸戦隊第一中隊長第一小隊長・吉田雅維少尉は、最初から山本機と知らされて捜索に赴いた。墜落当日は発見できず、19日午前中に浜砂隊と遭遇、浜砂隊に遅れて現場に到着した。最初に現場に到着した浜砂によれば、山本の遺体は機体の傍に放り出されていた座席に着座し、右手で軍刀を握ったまま、泰然としていた。すぐ左によりそうように高田軍医長の遺体があった。連合艦隊司令部から現場に赴いた渡辺安次参謀と藤井上等水兵が受けた警備隊からの報告では、山本は墜落現場から4 - 5m離れた場所に一式陸上攻撃機の座席の布団に座って長剣を握ったまま倒れ、高田軍医長は山本と飛行機の間に倒れていたという。 浜砂によれば、衣服を脱がせていないので断言できないが、右前頭部に擦過傷があったが、外見上さしたる傷はなかったという。直後に中村隊も現場に到着した。渡辺安次の証言では、遺体発見時に胸部と頭部に貫通銃創があったとしている。軍医少佐・田渕義三郎の遺体検死記録によると「死因は戦闘機機銃弾がこめかみから下アゴを貫通した事、背中を貫通した事」という結論が出され、ほぼ即死状態であったと結論づけている。一方で山本の遺体を清めた安部茂元大尉らから、顔面に銃創がなかったという。浜砂隊が遺体を動かしていたが、吉田は山本は即死ではないと判断している。山本が搭乗していた一式陸上攻撃機を銃撃したP-38の武装はイスパノ・スイザ HS.404航空機関砲(口径20mm)と ブローニングM2重機関銃(口径12.7mm)であり、「小指頭大ノ射入口、右外眥ニ拇指圧痕大ノ射出口ヲ認ム」という検案記録通りであれば頭半分は吹き飛ぶはずである。また田渕は後方で検死を行っただけで現場を見ておらず、蜷川から引き継ぎも行っていない。田渕自身も不審に思ったが深く追求できず、戦後、粗雑な書類で単なる形式処理であったことを認めている。実際に、田渕が山本の軍服を記念に保管しようとしたところ、渡辺が遺体から衣服を脱がすことを強い口調で禁止した。 公式には機上で即死したと記録されているが異論もある。熱帯地方では死体に猛烈な蛆がわくが、浜砂や中村は19日午後の段階で山本の遺体にウジ虫を認めていない。この事から、山本は機上での戦死ではなく死亡時刻は19日午前6時ごろと推測する見解もある。20日午前8時に浜砂と海軍陸戦隊が再び現場に到着すると、山本の遺体顔面は形相が判別できないほど腫れ上がり、遺体全体にウジが猛烈に発生していた。 最初に山本の検死を行った蜷川親博は、遺体に顎の外傷や口胞内出血を認めず、全身打撲か内臓破裂によるショック死という結論をメモに残している。蜷川の実弟である蜷川親正は、山本の死体の傷は渡辺安次と南東方面艦隊軍医長・大久保信による死後損壊と述べ、山本は当初生存していたものの、全身打撲もしくは内臓破裂により、19日夜明けごろ絶息したと結論づけている。 山本搭乗機を撃墜したP-38の搭乗者についてはトム・ランフィア陸軍大尉かレックス・バーバー陸軍中尉かで戦後も長らく論争が続いた。実際にP-38を飛行させて検証した1990年(平成2年)の実験では、バーバー中尉が撃墜した可能性が高いという結果が出た。しかしアメリカ空軍省は実験結果を認めず、ランフィアとバーバーの共同撃墜という立場をとっている。戦後のインタビューでランフィアは、「一式陸上攻撃機を射程内に捉えたとき、機銃がうまく働くかどうか試し撃ちをしたところ、それが偶然命中した。相手の後ろにくっつこうとしながら試し撃ちをしていたところ右のエンジンが火を噴き、ジャングルの中へ落ちていった。」と語っている。 渡辺安次は、先任参謀・黒島亀人、渉外参謀・藤井茂、機関参謀・磯部太郎、従兵長・近江兵治郎だけが参加した戦艦「武蔵」での通夜で「同乗者達は長官を火災から守るため、機内で自ら盾になった。長官は無事脱出したが、捕虜になることを恐れて拳銃で自決した」と語っている。遺体はラバウルで火葬に付され、木箱の底にパパイヤの葉を敷いた骨箱におさめられた。遺骨はトラック諸島に一旦運ばれて、その後内地に帰還する戦艦「武蔵」によって日本本土に運ばれた。遺族には4月20日夕刻に海軍大臣・嶋田繁太郎と秘書官・麻生孝雄が戦死を告げている。山本の遺体を火葬した際の灰は、ブイン基地の滑走路隅に埋められ、パパイヤの木が植えられた。公式には、遺骨は郷里長岡と多磨霊園に分骨されているが、河合千代子の元にも分骨されて内輪だけの告別式を行っている。 5月25日にブイン地区海軍町田部隊に新川正美主計大尉を訪問した矢数道明はその翌日、大尉の先導で山本の墓に案内されている。「粗末な柵で囲まれた一廓の中央には、ただ土が盛りあげられ両側に二本のパパイヤが植えられているばかり。「極秘ですが、ここが山本元帥の墓です」というのであった。私達は感無量の思いで額き、しばしここを離れることができなかった」という。 戦死後、藤井茂と近江兵治郎が遺品を整理するため「武蔵」長官室に入った。すると山本の机には封筒に入れた封印無しの遺書(永野修身、嶋田繁太郎、堀悌吉、妻・礼子、反町栄一宛)、さらに遺髪が一人分ずつ紙に包まれていた。山本の死は1か月以上秘匿され、5月21日の大本営発表ならびに内閣告示第8号で公になった。山本に対し大勲位、功一級、正三位と元帥の称号が贈られ、国葬に付することが発表された。新聞は連日報道を行い、日本国民は大きな衝撃を受けている。 5月27日付でドイツより剣付柏葉騎士鉄十字章を授与される。この勲章は騎士鉄十字章の5等級のうち3段階目にあたるが、受賞者はドイツ国全体でも160名しかおらず、外国人受賞者は山本のみである。また、山本が騎士鉄十字章の外国人受賞者としては単独で最高位となっている。 昭和天皇は山本の国葬が決定された際、侍従武官・山縣有光に「山本元帥を国葬にしなければならないのかね」と疑問を呈したが、6月5日に日比谷公園で国葬が行われた。葬儀委員長は米内光政が務めた。皇族、華族ではない平民が国葬で送られたのはこれが戦前唯一の例である。朝日新聞社は『元帥山本五十六傳』を刊行、斎藤茂吉や佐藤春夫を始め多くの詩人が追悼の詩歌を寄せ、7万部を刷った。 山本の死去の時点では、日本軍と連合国軍は各地で一進一退の戦いを続けており「海軍の相次ぐ大敗北を見ずに戦死してかえって幸せだった」とする意見もある。中澤佑中将や河合千代子も、山本が戦死した事を「ある意味で幸せ」と表現し、もし終戦時に健在ならば東京裁判で戦犯として裁かれていた可能性を指摘している。 連合艦隊司令長官は着任から戦死までの約3年8か月間務めた。この在任期間は歴代長官で最長である。なお、山本は歴代の司令長官で唯一の戦死者(山本の後任となった古賀峯一大将は殉職扱い)である。戒名は大義院殿誠忠長陵大居士。(「長陵」は生前の山本が用いていた雅号である。) 国葬の後、東京都府中市の多磨霊園7番特別区に埋葬された。墓石は茨城県産出の真壁小目で建立されている。右には東郷平八郎元帥の墓、左には古賀大将の墓が並び、墓石の文字は米内が書いた。後年、山本の遺骨は郷里・長岡市へ帰り、現在は長興寺にある山本家墓所に埋葬されているが、多磨霊園の墓所もそのまま残されている。
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