海軍甲事件
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海軍甲事件 | |
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![]() 撃墜された山本長官搭乗機 1943年(昭和18年)4月撮影 | |
戦争:太平洋戦争 | |
年月日:1943年(昭和18年)4月18日 | |
場所:ブーゲンビル島上空 | |
結果:アメリカの勝利 連合艦隊司令長官山本五十六が戦死 | |
交戦勢力 | |
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指導者・指揮官 | |
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戦力 | |
一式陸攻2機 零戦9機[注釈 1] |
P-3818機[注釈 2] |
損害 | |
一式陸攻2機撃墜 20名戦死 3名負傷 |
P-381機撃墜 1名戦死 |
海軍甲事件(かいぐんこうじけん)とは、第二次世界大戦中の1943年(昭和18年)4月18日に、前線を視察中の連合艦隊司令長官山本五十六海軍大将の搭乗機がアメリカ軍戦闘機に撃墜され、山本が戦死した事件である。アメリカ側名称はヴェンジェンス作戦(英語: Operation Vengeance)。
経緯
視察計画
日本海軍は1943年(昭和18年)4月7日からい号作戦を実行し、ソロモン諸島、ニューギニア方面の連合国艦隊に攻撃を加えた。この作戦は成功を収め、16日に終了した。
この間、山本長官はトラック島の連合艦隊旗艦「武蔵」を離れ、「い号作戦」を直接指揮するため幕僚を従えてラバウル基地に来ていた。山本は、ブーゲンビル島・ショートランド島の前線航空基地の将兵の労をねぎらうため、ラバウルからブーゲンビル島のブイン基地を経て、ショートランド島の近くにあるバラレ島基地に赴く予定を立てた。当時、その方面は日本海軍の制空権下にあり、飛来する敵機は高高度から単機で偵察行動をするP-38程度であり、危機感は些かもなかった。その前線視察計画は、艦隊司令部から関係方面に打電された[1]。この暗号電文はアメリカ軍に傍受された。
日本側は全く関知していなかったことだが、アメリカ軍情報部は当時すでに日本軍の暗号解読に成功していた。この電文も直ちに解読され、アメリカ軍は山本の視察の経路と予定時刻を把握した。この情報は、すぐにアメリカ海軍のチェスター・ニミッツ太平洋艦隊司令長官に報告された。
ヴェンジェンス作戦
ヴェンジェンス(vengeance=報復・復讐)、真珠湾攻撃を立案した山本への報復という意味が込められている。
無能な敵将であれば、生かしておくほうが味方に利益である。そのため、山本の前線視察の予定を掴んだニミッツは幕僚と会議を開き、そもそも山本を殺害すべきなのかを検討した[2][注釈 3]。検討の結果、真珠湾攻撃の立案者として人望の高い山本が戦死すれば日本軍の士気が低下すること、山本長官より優れた者が後任となる可能性は低いことを理由に、ニミッツは山本の殺害を決断した。ニミッツは南太平洋方面軍司令官ウィリアム・ハルゼーに山本長官の行程を連絡し、予備計画の作成を命令した。作戦半径は非常に長距離だったが、ハルゼーは山本がきわめて時間に正確で今回も予定を守ることを前提に、航続距離の長いガダルカナルの陸軍機P-38ならば途中で邀撃が可能と応答してきた。
山本のような有名人を殺害することは、日本国内に政治的反動(山本殺害による対米憎悪の増大や、それに伴う戦意の高揚)を引き起こす懸念もあり、慎重になる必要があった。そこで、ニミッツは先にフランク・ノックス海軍長官とルーズベルト大統領の許可をとった上で、最終的な命令をハルゼーに下した。
戦闘の推移
- 5時25分 P-38戦闘機18機、ガダルカナル島ヘンダーソン基地出撃。7時35分にブーゲンビル上空に到着予定。
- 6時05分 一番機に山本長官と幕僚、二番機には連合艦隊参謀長宇垣纏中将ほか幕僚が乗った[4]一式陸上攻撃機2機、および護衛の零式艦上戦闘機9機、ニューブリテン島ラバウル東飛行場を離陸。
- 7時33分 P-38戦闘機16機(出撃後2機故障帰還)、V字編隊の一式陸上攻撃機2機、零式艦上戦闘機6機をブーゲンビル島上空で発見、攻撃開始。
- 7時50分頃 山本長官搭乗の1番機被弾、モイラ岬のジャングルに墜落。宇垣纏参謀長搭乗の2番機も被弾炎上し海上に不時着。
事件後

一式陸上攻撃機は空戦の結果撃墜され、山本長官は戦死した。戦死は全軍の士気に大きな影響を与えることが予想されたため、関係者には箝口令が敷かれた。
5月17日、山本五十六の後を継いで連合艦隊司令長官となった古賀峯一は、山本の遺骨とともに戦艦「武蔵」でトラック島を出発し東京湾へ向かった。戦艦「金剛」「榛名」、空母「飛鷹」、重巡洋艦「利根」「筑摩」が護衛に就いた。
遺骨が東京に到着した5月21日に戦死の事実が公表され、6月5日に国葬が執行された。当時の内閣総理大臣だった東條英機は、山本が戦死したとの一報を受け、「君逝き みにしむ責の 重きかな されどやみなん 勝てやむへき」と詠んだ。
撃墜の翌日、アメリカのサンフランシスコ放送は山本長官の名前を出すことなく、一式陸上攻撃機撃墜の事実のみを簡単に報じた[5]。アメリカ軍は日本軍の暗号解読に成功している事実を日本側に悟られないよう、偶然の撃墜であったかのように発表を装っている。
同日にブーゲンビル島のカヒリ飛行場を空爆し、山本機への攻撃を一帯への攻撃の一部であるかのように見せかけた[5]。さらにニミッツは部下のハルゼーを通じ、撃墜を命じられた搭乗員達に対して情報源を「沿岸監視員からの情報」として伝え、暗号解読の事実を秘匿している[6]。攻撃を実行したヘンダーソン基地の関係者にも箝口令が敷かれ、日本が山本の戦死を発表したのちにそれを解いたものの、一番機を撃墜した搭乗員については公表しなかった[7]。攻撃隊で一番機を撃墜したと主張した搭乗員は3人おり、戦闘情報指揮官はこの全員の戦果としたが、のちにうち1人は実際には二番機だったことが判明し、1992年に空軍長官が「2人の戦果」に訂正する裁定を行っている[7]。
日本海軍は、2週間前に暗号表(乱数表)を更新したばかりで「アメリカに暗号を解読された」という見解を取ることができず、その後の日本海軍の連敗へとつながったという説もあったが[5]、2008年9月までに機密解除されたアメリカ軍史料によれば、この視察では更新前の古い乱数表を使って山本の日程表を送信していたことが分かっている[8]。
1945年9月11日、アメリカ陸軍は山本の戦死について、暗号を解読して乗機を待ち伏せ、撃墜したことを公表した[9]。
参加兵力
- 日本:一式陸上攻撃機2機、零式艦上戦闘機9機(内3機戦闘前に引きかえす。零戦隊第二小隊の三番機を務めた柳谷飛行兵長は元々6機だったと主張している。)
- アメリカ:P-38戦闘機18機(内2機途中で引きかえす)
被害
日本側: 一式陸上攻撃機 2機 被撃墜。掩護機 6機 被害なし。
- 1番機: 下記の全員が戦死。
- 2番機: 下記のうち宇垣纏参謀長ら3名は救出。他は戦死。
- 連合艦隊参謀長宇垣纏中将、主計長北村元治主計少将、通信参謀今中薫中佐、気象長友野林治中佐、航空乙参謀室井捨治少佐、機長主操縦員林浩二等飛行兵曹、副操縦員藤本文勝飛行兵長、偵察員谷本博明一等飛行兵曹、電信員伊藤助一二等飛行兵曹、電信員八記勇二等飛行兵曹、攻撃員野見山金義飛行兵長、整備員栗山信之二等整備兵曹。
アメリカ側: P-38戦闘機 1機 被撃墜。
事件に関する諸説
山本の戦死を報じた当時の公式発表では、山本の遺体の発見状況を「提督は機上で敵弾を受け、軍刀を手に、泰然として戦死しておられた」と発表された。「軍医の遺体検死記録によると、「死因は戦闘機機銃弾がこめかみ(眦とも)から下顎を貫通した事によるもの」という結論が出され、ほぼ即死状態であったと推察されている。しかし山本が搭乗していた一式陸上攻撃機を銃撃したP-38戦闘機の機銃は12.7mm4門及び20mm1門であり、検死記録の事実通りであれば頭半分は吹き飛ぶはずである。こういった疑問点から山本の頭部を打ち抜いていたのは、拳銃弾などの小口径の銃弾であった可能性が否定できず、こういった疑問点から「山本自決説」「第三者による射殺説」が論じられることがある。
山本の遺体を最初に発見した第6師団第23連隊の浜砂盈栄陸軍少尉の証言によれば、「山本長官の遺体は座席と共に放り出されていた。そして軍医長が地を這って近寄ろうとして絶命した痕跡を残していた」という。また、他の遺体が黒焦げで蛆虫による損傷が激しいにもかかわらず、この2名だけは蛆も少なく比較的綺麗な形で残っていた。つまりこれが本当だとするならば、不時着からしばらくは両名が生存していたということになる。
地上から収容にあたった陸軍第17軍第6師団歩兵第23連隊の蜷川親博軍医中尉(のち大尉。1944年12月戦病死)の検死調書には、遺体に銃創は無かったとの記述がみられる。山本の墜落現場に向かった各部隊の長、同連隊の浜砂少尉・中村見習士官・海軍佐世保鎮守府第6特別陸戦隊吉田少尉も同様に、山本の顔面には弾丸による傷痕はなかったと証言。が、前述の4士官の後に山本の遺体を正式に死体検分した田淵海軍軍医少佐は、顔面に銃弾による傷跡があったと証言している。
蜷川軍医中尉の実弟である蜷川親正(医学博士)は、山本の遺体には顔面貫通機銃創及び背部盲貫機銃創はなく、座席に座って救助を待っていたが、全身打撲か内臓破裂により19日早朝に死亡したものとの見解を示している。蜷川によれば、検案記録等にある顔面貫通機銃創及び背部盲貫機銃創は、機上戦死や即死を演出するために死後損傷が加えられたとのことである[10]。
脚注
注釈
出典
- ^ 吉村昭『戦史の証言者たち』文藝春秋35-36頁
- ^ 『日本軍航空機総覧』新人物往来社197頁
- ^ 週刊文春2010年12・19日夏季特大号。保坂正康のルポ
- ^ 吉村昭『戦史の証言者たち』文藝春秋36頁
- ^ a b c 春名幹男『秘密のファイル CIAの対日工作(上)』新潮社<新潮文庫>、2003年、163頁
- ^ エドウィン・T・レートン(Edwin T. Layton)著 毎日新聞外信グループ訳「エピローグ 東京湾へ」『太平洋戦争暗号作戦(下)』P321
- ^ a b 春名幹男、2003年、164頁
- ^ 山本長官機撃墜、米に暗号筒抜け 古い乱数表を使う共同通信2008年9月27日
- ^ 日置英剛『年表 太平洋戦争全史』国書刊行会、2005年10月31日、759頁。ISBN 978-4-336-04719-9。
- ^ 蜷川親正『山本五十六の最期 - 検死カルテに見る戦死の周辺』光人社、1986年(光人社NF文庫、1996年)
関連項目
海軍甲事件
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詳細は「海軍甲事件」を参照 い号作戦終了後、山本は、ブーゲンビル島、ショートランド島の前線航空基地の将兵の労をねぎらうため、ラバウルからブーゲンビル島のブイン基地を経て、ショートランド島の近くにあるバラレ島基地に赴く予定を立てた。その前線視察計画は、艦隊司令部から関係方面に打電された。小沢治三郎は、山本機と宇垣機の護衛戦闘機が少ないことを危惧し、先任参謀・黒島亀人に護衛機を50機増やすことを宇垣に伝えるよう託した。黒島はデング熱で体調が悪く宇垣に伝えなかった。 アメリカ海軍情報局は、4月17日に「武蔵」から発信された暗号電文を解読してこの前線視察の情報を知った。ニミッツは、山本暗殺の議論で後にもっと優秀な司令官が出てくることを心配したが、太平洋艦隊情報参謀エドウィン・レイトンから「山本長官は、日本で最優秀の司令官である。どの海軍提督より頭一つ抜きん出ており、山本より優れた司令官が登場する恐れは無い」という答えがあり、また、山本が戦死すれば日本の士気が大きく低下すること、山本がきわめて時間に正確な男で今度も予定を守るだろうということを理由に山本の暗殺を決断し、南太平洋方面軍司令官ウィリアム・ハルゼーに対する命令書を作成した。 4月18日午前6時、山本を含めた連合艦隊司令部は第七〇五航空隊の一式陸上攻撃機2機に分乗してラバウル基地を発進した。山本は1号機、宇垣は2号機に搭乗する。零式艦上戦闘機6機に護衛されブイン基地へ移動中、ブーゲンビル島上空で、アメリカ陸軍航空隊のP-38ライトニング16機に襲撃・撃墜され戦死した。この事件は後に海軍甲事件と呼称された。59歳没。戦死時に着用していた第三種軍装(陸戦用服装)は、太平洋戦争に突入してから山本が初めて着用したものだった。 戦死時、偶然にも一式陸攻の墜落を目撃した陸軍第六師団歩兵第二十三連隊長・浜之上俊秋大佐は、山本機とは知らず、軍医中尉・蜷川親博と見習士官・中村常男に捜索と救助命令を出した。墜落当日は発見に失敗した。歩兵砲中隊・浜砂少尉の部隊も、墜落機から煙草や食料を入手すべく、山本機とは知らずに捜索を開始した。中村隊と同様に墜落当日は到達できず、翌日になって山本機と山本らの遺体を発見した。佐世保鎮守府第六特別陸戦隊第一中隊長第一小隊長・吉田雅維少尉は、最初から山本機と知らされて捜索に赴いた。墜落当日は発見できず、19日午前中に浜砂隊と遭遇、浜砂隊に遅れて現場に到着した。最初に現場に到着した浜砂によれば、山本の遺体は機体の傍に放り出されていた座席に着座し、右手で軍刀を握ったまま、泰然としていた。すぐ左によりそうように高田軍医長の遺体があった。連合艦隊司令部から現場に赴いた渡辺安次参謀と藤井上等水兵が受けた警備隊からの報告では、山本は墜落現場から4 - 5m離れた場所に一式陸上攻撃機の座席の布団に座って長剣を握ったまま倒れ、高田軍医長は山本と飛行機の間に倒れていたという。 浜砂によれば、衣服を脱がせていないので断言できないが、右前頭部に擦過傷があったが、外見上さしたる傷はなかったという。直後に中村隊も現場に到着した。渡辺安次の証言では、遺体発見時に胸部と頭部に貫通銃創があったとしている。軍医少佐・田渕義三郎の遺体検死記録によると「死因は戦闘機機銃弾がこめかみから下アゴを貫通した事、背中を貫通した事」という結論が出され、ほぼ即死状態であったと結論づけている。一方で山本の遺体を清めた安部茂元大尉らから、顔面に銃創がなかったという。浜砂隊が遺体を動かしていたが、吉田は山本は即死ではないと判断している。山本が搭乗していた一式陸上攻撃機を銃撃したP-38の武装はイスパノ・スイザ HS.404航空機関砲(口径20mm)と ブローニングM2重機関銃(口径12.7mm)であり、「小指頭大ノ射入口、右外眥ニ拇指圧痕大ノ射出口ヲ認ム」という検案記録通りであれば頭半分は吹き飛ぶはずである。また田渕は後方で検死を行っただけで現場を見ておらず、蜷川から引き継ぎも行っていない。田渕自身も不審に思ったが深く追求できず、戦後、粗雑な書類で単なる形式処理であったことを認めている。実際に、田渕が山本の軍服を記念に保管しようとしたところ、渡辺が遺体から衣服を脱がすことを強い口調で禁止した。 公式には機上で即死したと記録されているが異論もある。熱帯地方では死体に猛烈な蛆がわくが、浜砂や中村は19日午後の段階で山本の遺体にウジ虫を認めていない。この事から、山本は機上での戦死ではなく死亡時刻は19日午前6時ごろと推測する見解もある。20日午前8時に浜砂と海軍陸戦隊が再び現場に到着すると、山本の遺体顔面は形相が判別できないほど腫れ上がり、遺体全体にウジが猛烈に発生していた。 最初に山本の検死を行った蜷川親博は、遺体に顎の外傷や口胞内出血を認めず、全身打撲か内臓破裂によるショック死という結論をメモに残している。蜷川の実弟である蜷川親正は、山本の死体の傷は渡辺安次と南東方面艦隊軍医長・大久保信による死後損壊と述べ、山本は当初生存していたものの、全身打撲もしくは内臓破裂により、19日夜明けごろ絶息したと結論づけている。 山本搭乗機を撃墜したP-38の搭乗者についてはトム・ランフィア陸軍大尉かレックス・バーバー陸軍中尉かで戦後も長らく論争が続いた。実際にP-38を飛行させて検証した1990年(平成2年)の実験では、バーバー中尉が撃墜した可能性が高いという結果が出た。しかしアメリカ空軍省は実験結果を認めず、ランフィアとバーバーの共同撃墜という立場をとっている。戦後のインタビューでランフィアは、「一式陸上攻撃機を射程内に捉えたとき、機銃がうまく働くかどうか試し撃ちをしたところ、それが偶然命中した。相手の後ろにくっつこうとしながら試し撃ちをしていたところ右のエンジンが火を噴き、ジャングルの中へ落ちていった。」と語っている。 渡辺安次は、先任参謀・黒島亀人、渉外参謀・藤井茂、機関参謀・磯部太郎、従兵長・近江兵治郎だけが参加した戦艦「武蔵」での通夜で「同乗者達は長官を火災から守るため、機内で自ら盾になった。長官は無事脱出したが、捕虜になることを恐れて拳銃で自決した」と語っている。遺体はラバウルで火葬に付され、木箱の底にパパイヤの葉を敷いた骨箱におさめられた。遺骨はトラック諸島に一旦運ばれて、その後内地に帰還する戦艦「武蔵」によって日本本土に運ばれた。遺族には4月20日夕刻に海軍大臣・嶋田繁太郎と秘書官・麻生孝雄が戦死を告げている。山本の遺体を火葬した際の灰は、ブイン基地の滑走路隅に埋められ、パパイヤの木が植えられた。公式には、遺骨は郷里長岡と多磨霊園に分骨されているが、河合千代子の元にも分骨されて内輪だけの告別式を行っている。 5月25日にブイン地区海軍町田部隊に新川正美主計大尉を訪問した矢数道明はその翌日、大尉の先導で山本の墓に案内されている。「粗末な柵で囲まれた一廓の中央には、ただ土が盛りあげられ両側に二本のパパイヤが植えられているばかり。「極秘ですが、ここが山本元帥の墓です」というのであった。私達は感無量の思いで額き、しばしここを離れることができなかった」という。 戦死後、藤井茂と近江兵治郎が遺品を整理するため「武蔵」長官室に入った。すると山本の机には封筒に入れた封印無しの遺書(永野修身、嶋田繁太郎、堀悌吉、妻・礼子、反町栄一宛)、さらに遺髪が一人分ずつ紙に包まれていた。山本の死は1か月以上秘匿され、5月21日の大本営発表ならびに内閣告示第8号で公になった。山本に対し大勲位、功一級、正三位と元帥の称号が贈られ、国葬に付することが発表された。新聞は連日報道を行い、日本国民は大きな衝撃を受けている。 5月27日付でドイツより剣付柏葉騎士鉄十字章を授与される。この勲章は騎士鉄十字章の5等級のうち3段階目にあたるが、受賞者はドイツ国全体でも160名しかおらず、外国人受賞者は山本のみである。また、山本が騎士鉄十字章の外国人受賞者としては単独で最高位となっている。 昭和天皇は山本の国葬が決定された際、侍従武官・山縣有光に「山本元帥を国葬にしなければならないのかね」と疑問を呈したが、6月5日に日比谷公園で国葬が行われた。葬儀委員長は米内光政が務めた。皇族、華族ではない平民が国葬で送られたのはこれが戦前唯一の例である。朝日新聞社は『元帥山本五十六傳』を刊行、斎藤茂吉や佐藤春夫を始め多くの詩人が追悼の詩歌を寄せ、7万部を刷った。 山本の死去の時点では、日本軍と連合国軍は各地で一進一退の戦いを続けており「海軍の相次ぐ大敗北を見ずに戦死してかえって幸せだった」とする意見もある。中澤佑中将や河合千代子も、山本が戦死した事を「ある意味で幸せ」と表現し、もし終戦時に健在ならば東京裁判で戦犯として裁かれていた可能性を指摘している。 連合艦隊司令長官は着任から戦死までの約3年8か月間務めた。この在任期間は歴代長官で最長である。なお、山本は歴代の司令長官で唯一の戦死者(山本の後任となった古賀峯一大将は殉職扱い)である。戒名は大義院殿誠忠長陵大居士。(「長陵」は生前の山本が用いていた雅号である。) 国葬の後、東京都府中市の多磨霊園7番特別区に埋葬された。墓石は茨城県産出の真壁小目で建立されている。右には東郷平八郎元帥の墓、左には古賀大将の墓が並び、墓石の文字は米内が書いた。後年、山本の遺骨は郷里・長岡市へ帰り、現在は長興寺にある山本家墓所に埋葬されているが、多磨霊園の墓所もそのまま残されている。
※この「海軍甲事件」の解説は、「山本五十六」の解説の一部です。
「海軍甲事件」を含む「山本五十六」の記事については、「山本五十六」の概要を参照ください。
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