サボ島沖海戦
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サボ島沖海戦(サボとうおきかいせん)は、第二次世界大戦のガダルカナル島周辺において1942年(昭和17年)10月11日深夜〜12日に日本軍とアメリカ軍の間で行われた海戦である。連合軍側の呼称はBattle of Cape Esperance (エスペランス岬沖海戦)[1]。
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追テ事故防止ノ爲自今左ノ通雲ノ字ニ振假名ヲ添付相成度 「驅逐艦白雲 」(第十二驅逐隊)』
サボ島沖海戦
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サボ島沖海戦でガダルカナル島を目指して、夜間輸送のため進出してきた日本海軍連合艦隊の護衛部隊(重巡洋艦3隻、駆逐艦2隻)を、レーダー索敵により探知したアメリカ海軍ノーマン・スコット少将率いる巡洋艦部隊(旗艦・重巡洋艦「サンフランシスコ」)が、丁字戦法による迎撃に成功した。 結果、日本艦隊は重巡1隻沈没・1隻大破、駆逐艦1隻沈没の損害を受け退却した。しかし、アメリカ艦隊も駆逐艦2隻「ファーレンホルト」と「ダンカン」が夜間だったために隊列を見失って離れ、敵味方の狭間で大破沈没の損害を受けるという失態を演じた。
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サボ島沖海戦(エスペランス岬沖海戦)
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「サンフランシスコ (重巡洋艦)」の記事における「サボ島沖海戦(エスペランス岬沖海戦)」の解説
「サボ島沖海戦」も参照 10月7日、第64任務部隊(サンフランシスコ、ソルトレイクシティ、ヘレナ、ボイシ、駆逐艦部隊)はアメリカ軍ガ島増援部隊(アメリカル師団)輸送船団の援護と、日本軍のガ島増援部隊(東京急行)阻止のため、ニューヘブリディーズを出撃した。10月11日午後、B-17が「巡洋艦2隻と駆逐艦6隻から成る飛行場砲撃部隊が、ブーゲンビル島からニュージョージア海峡(スロット)を通ってガダルカナル島を目指している」と報告した。ガダルカナル島に重火器を輸送する任務を帯びていた水上機母艦日進と千歳と護衛部隊、すなわち「東京急行」を飛行場砲撃部隊と誤認したのである。第64任務部隊は「飛行場砲撃部隊」を阻止するためにレンネル島近海からガダルカナル島西方を目指して北上した。夜、サンフランシスコから発進した観測機が「敵水上部隊接近」との報告を送り、第64任務部隊はサボ島の南西方向から北向きにスロットに接近していった。23時30分、第64任務部隊はサボ島の北西9.7キロの海域でUターンした。新しいコースを設定してしばらくすると、ヘレナとソルトレイクシティのレーダーは遠方に目標を捉えたが、サンフランシスコは気付いていなかった。第64任務部隊は報告にあった東京急行(水上機母艦2、駆逐艦6)を見逃し、外南洋部隊支援隊指揮官五藤存知少将(第六戦隊司令官)が指揮する飛行場砲撃部隊(重巡青葉、古鷹、衣笠、駆逐艦初雪、吹雪)と鉄底海峡で激突した。23時45分、こうしてサボ島沖海戦(連合軍呼称:エスペランス岬沖海戦)が始まった。 第64任務部隊は、接近しつつある外南洋部隊支援隊(日本軍飛行場砲撃部隊)がライトを点滅させているのを見た。最初は、陸上部隊との合図と思われたが、次第に、任務部隊を味方と勘違いしているように見受けられた。ライトを点滅させ回答を待っている外南洋部隊支援隊に対し第64任務部隊は丁字戦法を取ったが、当の第64任務部隊の方も通信が上手くいかず隊形が乱れた。さらに最新のSGレーダーを装備したヘレナが外南洋部隊支援隊を捕捉していたが、スコット少将はこの有利を活用できなかった。ついにサンフランシスコのレーダーも距離5,000メートル先に「艦影」を捉えたが、スコット少将は砲撃を許可しなかった。 サボ島沖海戦は、軽巡ヘレナが旗艦サンフランシスコからの返答を誤認したことで始まった。外南洋部隊支援隊指揮官(五藤少将)も、第64任務部隊指揮官(スコット少将)も、お互いが味方撃ちをしていると思った。指揮官の混乱を余所に、ヘレナ以下の先制攻撃により旗艦青葉が大破し、五藤存知少将は致命傷を負った。駆逐艦吹雪は轟沈し、重巡古鷹は航行不能となり沈没に追いやられた。東京急行(日進隊)に所属していた駆逐艦夏雲と叢雲も、12日昼間にヘンダーソン飛行場から発進した海兵隊機の空襲で沈没した。しかし、第64任務部隊も完勝というわけにはいかなかった。衣笠と初雪の反撃によりボイシが大破し、掩護したソルトレイクシティも被弾して損傷した。駆逐艦もファーレンホルト (USS Farenholt, DD-491) とダンカン (USS Duncan, DD-485) が敵味方双方から砲撃され、ダンカンは沈没した。サンフランシスコには被害がなかった。第64任務部隊は隊形を整え、エスピリトゥサント島に向かった。金剛型戦艦(金剛、榛名)によるヘンダーソン基地艦砲射撃に対しては、第64任務部隊に出来ることは何もなかった。 10月15日、サンフランシスコはガダルカナル島の戦いに戻った。南太平洋部隊司令官はゴームレー中将からウィリアム・ハルゼー中将に交代した。さらに第64任務部隊の再編成がおこなわれ、新鋭戦艦ワシントン (USS Washington, BB-56) と軽巡アトランタ (USS Atlanta, CL-51) が加入し、ウィリス・A・リー少将が第64任務部隊の司令官になった。10月17日、第64任務部隊はエスピリトゥサント島を出撃した。10月20日、第64任務部隊はワシントンおよびアトランタを中心とする一群と、巡洋艦部隊(サンフランシスコ、チェスター、ヘレナ)を中心とする一群に分かれて、ソロモン諸島南方を航行していた。午後9時30分頃、サンクリストバル島南東沖で日本の潜水艦伊176の発射した魚雷の内、1本がチェスターの機関室に命中した。チェスターを外れた3本の魚雷はサンフランシスコとヘレナに向かっていったものの、魚雷を見つけた両艦は回避し、魚雷はヘレナの右舷艦尾近く、ヘレナとサンフランシスコの間、そしてサンフランシスコから1,100メートル離れた場所でそれぞれ爆発した。 サンフランシスコはチェスターを護衛し、10月21日夜にエスピリトゥサント島に帰投した後、翌10月22日に再出撃した。第64任務部隊はガダルカナル島日本軍総攻撃に呼応して南下してきた第二艦隊と第三艦隊(南雲機動部隊)に備えた(南太平洋海戦)。第64任務部隊は航空戦の蚊帳の外におかれ、10月27日にワシントンが伊21に雷撃された程度であった。10月28日、スコット少将はアトランタに移り、サンフランシスコは10月29日にエスピリトゥサント島に帰投した。10月30日、サンフランシスコはダニエル・J・キャラハン少将の第64.4任務群旗艦となった。この任務群は、間もなく呼称が第65任務部隊に改められた。
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「サボ島沖海戦(エスペランス岬沖海戦)」を含む「サンフランシスコ (重巡洋艦)」の記事については、「サンフランシスコ (重巡洋艦)」の概要を参照ください。
サボ島沖海戦
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「白雪 (吹雪型駆逐艦)」の記事における「サボ島沖海戦」の解説
詳細は「サボ島沖海戦」を参照 ガダルカナル島の戦いにおける日本軍苦戦の大きな要因が、アメリカ軍に奪取されたヘンダーソン飛行場だった。10月11日、ガダルカナル島ヘンダーソン基地艦砲射撃を目指す外南洋部隊支援隊(指揮官五藤存知第六戦隊司令官)は、第六戦隊(青葉、古鷹、衣笠)、第11駆逐隊第2小隊(初雪、吹雪)、計5隻(重巡3隻・駆逐艦2隻)という戦力でショートランド泊地を出撃。並行して、水上機母艦2隻(日進、千歳)、駆逐艦6隻(秋月型駆逐艦《秋月》、第19駆逐隊《綾波》、第9駆逐隊《朝雲、夏雲》、第11駆逐隊第1小隊《白雪、叢雲》)によるガ島輸送作戦も実施されることになった。10月11日午前6時、日進輸送隊はショートランド泊地を出撃、零戦隊の援護をうけつつガダルカナル島へ向かった。零戦隊の援護をうけつつ、夜になりガ島へ到着して揚陸に成功した。だが日進隊に遅れてショートランド泊地を出撃、後続していた外南洋部隊支援隊は待ち伏せていた米艦隊(指揮官ノーマン・スコット少将:重巡洋艦2、軽巡洋艦2、駆逐艦5)と交戦。五藤司令官は戦死、吹雪が轟沈、古鷹も航行不能(古鷹は日付変更後に沈没、乗組員は初雪に救助された)、青葉が大破という被害を受けた(サボ島沖海戦)。 衣笠より米艦隊との交戦報告をうけた外南洋部隊指揮官三川軍一第八艦隊司令長官は、米艦隊が日進輸送隊を攻撃することを懸念し、第六戦隊・日進輸送隊の援護を目的として、支援隊残存艦・増援部隊(第三水雷戦隊)に米艦隊撃滅を命じた。同時刻、日進輸送隊も米艦隊撃滅と古鷹救援のため、第9駆逐隊の朝潮型駆逐艦2隻(朝雲、夏雲)・第11駆逐隊第1小隊の吹雪型駆逐艦(白雪、叢雲)を派遣した。駆逐艦4隻は古鷹の救援のため行動したが同艦を認めず(すでに沈没)、退避中にニュージョージア島沖合でアメリカ軍機の空襲を受け、まず夏雲が沈没した。朝雲、白雪は夏雲、叢雲の生存者を収容後に一旦ひきあげ、増援部隊(川内、由良、時雨、白露、浦波、磯波、天霧)と合流後、夜陰に乗じて叢雲曳航のために現場へ戻った。朝雲、白雪は19時に叢雲の傍にもどるが同艦は爆発炎上して曳航の手段がなく、白雪は叢雲を雷撃で処分した。 なお戦史叢書では呉鎮守府警備駆逐艦(豊田司令長官指揮下)の白雲が、10月11日-12日に生起した水上機母艦日進護衛および『サボ島沖海戦』に参加し、外南洋部隊(指揮官三川軍一第八艦隊司令長官)に所属する第11駆逐(白雪、叢雲、初雪、吹雪)の司令駆逐艦(駆逐隊司令杉野修一大佐)として、第11駆逐隊第1小隊2番艦の駆逐艦叢雲救援と雷撃処分を白雲が実施したことになっている。だが白雲は8月28日の空襲で大破、第20駆逐隊の解隊にともない警備駆逐艦となって外南洋部隊(第八艦隊)から除かれ、サボ島沖海戦時は日本本土に戻っていた(10月8日着)。さらに大修理が必要な状態であり、最前線で戦闘に参加できる状態ではなかった。水上機母艦日進の護衛および叢雲の処分を実施したのは、白雲と名前が似ている本艦(白雪)である。本海戦により吹雪型ネームシップの吹雪が沈没すると、吹雪型駆逐艦は『白雪型駆逐艦』に改定された。 10月13日、第四水雷戦隊(旗艦秋月)が高速輸送船6隻を護衛してガ島輸送を実施することになり、並行して外南洋部隊主隊(鳥海、衣笠、望月、天霧)・増援部隊(川内、由良、朝雲、白雪、暁、雷)も飛行場砲撃と輸送作戦を決行する。外南洋部隊・増援隊の飛行場砲撃・輸送作戦は成功。白雪は甲標的基地員と物件輸送を担当した。だが高速輸送船団はアメリカ軍機の空襲を受け輸送船3隻を喪失、揚陸した物資もアメリカ軍機や米艦艇の攻撃で大部分を焼き払われてしまった。 水上機母艦2隻(日進、千歳)の投入は連合艦隊の指導により中止され、外南洋部隊増援部隊はガ島日本陸軍総攻撃(10月下旬予定)の前に、全力で輸送作戦を実施することになった。増援部隊指揮官橋本三水戦司令官は軽巡3隻(川内、由良、龍田)を、第四水雷戦隊司令官高間完少将(旗艦秋月)は水雷戦隊(秋月、朝雲、白雪、暁、雷、村雨、夕立、春雨、五月雨、浦波、敷波、綾波、時雨、白露、有明)を指揮し、10月17日早朝にショートランド泊地を出撃。由良に米潜水艦から発射した不発魚雷1発が命中しただけで、輸送作戦は成功した。 11月2日、増援部隊指揮官橋本信太郎第三水雷戦隊司令官は旗艦を軽巡川内から重巡衣笠に変更、第一攻撃隊(衣笠、川内、天霧、初雪)を率いて輸送作戦を支援する。第四水雷戦隊司令官高間完少将(旗艦「朝雲」)は甲増援部隊(朝雲、村雨、春雨、夕立、時雨、白露、有明、夕暮、白雪、暁、雷、天龍)を、乙増援隊(浦波、敷波、綾波、満潮、朝潮)は第19駆逐隊司令が指揮、望月は挺身輸送隊(蟻輸送部隊)撤収のため、それぞれショートランド泊地よりガ島へ向かった。甲増援隊は揚陸地点の天候不良に悩まされ、装載艇多数を喪失、物資を一部揚陸できないまま引き返した。白雪はカミンボで入泊する際に艦底を触接、若干の浸水被害を受けている。白雪は甲増援部隊本隊に合流せず、単艦で帰投した。11月5日、三水戦司令官は旗艦を重巡衣笠から駆逐艦浦波に変更する。乙増援部隊(浦波、敷波、綾波、白雪、望月、天龍)を直率してショートランド泊地を出撃する。甲増援隊(朝雲、村雨、春雨、夕立、時雨、白露、有明、夕暮、朝潮、満潮)は第9駆逐隊司令佐藤康夫大佐(司令駆逐艦朝雲)の指揮下でガ島へ向かう。甲増援隊・乙増援隊とも被害なく輸送に成功。6日朝にショートランドへ戻った。三水戦司令官は旗艦を川内に復帰、増援部隊指揮官の職務を第二水雷戦隊司令官田中頼三少将(旗艦五十鈴)に引継ぐと、白雪以下第三水雷戦隊各隊・各艦をひきいてトラック泊地へ向かった。 詳細は「第三次ソロモン海戦」を参照 11月中旬、第11駆逐隊第1小隊(白雪、初雪)は前進部隊指揮官近藤信竹第二艦隊司令長官(旗艦「愛宕」)の指揮下、第三次ソロモン海戦第二夜戦に参加した。同夜戦に参加した日本艦隊の戦力は、前進部隊指揮官直率の射撃隊(重巡愛宕《近藤中将旗艦》、高雄、戦艦《霧島》)、直衛隊(軽巡《長良》、駆逐艦《電、五月雨、初雪、白雪、朝雲、照月》)、掃蕩隊(軽巡《川内》、駆逐艦《浦波、敷波、綾波》)という編制である。一方の米軍は、ウィリス・A・リー少将率いる戦艦2隻(ワシントン、サウスダコタ)、駆逐艦4隻(ウォーク、グウィン、ベンハム、プレストン)である。直衛隊5隻(長良、五月雨、電、白雪、初雪)は単縦陣で戦闘に突入。長良と分離後は駆逐艦4隻(白雪、初雪、電、五月雨)が一群となって行動したという。本夜戦でアメリカ軍駆逐艦3隻(ウォーク、ベンハム、プレストン)が沈没、日本側は霧島、綾波を喪失して米新型戦艦2隻(ワシントン、サウスダコタ)と駆逐艦グウィンを取り逃がした。
※この「サボ島沖海戦」の解説は、「白雪 (吹雪型駆逐艦)」の解説の一部です。
「サボ島沖海戦」を含む「白雪 (吹雪型駆逐艦)」の記事については、「白雪 (吹雪型駆逐艦)」の概要を参照ください。
サボ島沖海戦(エスペランス岬沖海戦)
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「ヘレナ (軽巡洋艦)」の記事における「サボ島沖海戦(エスペランス岬沖海戦)」の解説
「サボ島沖海戦」も参照 この頃、ヘンダーソン飛行場からの飛行機が、しばしば「東京急行」を妨害していた。10月11日、日本海軍は何かとうるさいヘンダーソン飛行場を砲撃して沈黙させるべく、水上機母艦日進と千歳の重火器輸送と並行して、外南洋部隊(指揮官三川軍一第八艦隊司令長官)の重巡洋艦を送り込んできた。この外南洋部隊支援隊は、第六戦隊司令官五藤存知少将に率いられていた。五藤少将の重巡洋艦戦隊は、18時10分の時点でサボ島から160キロ離れた海域を進撃中だった。一方、南太平洋部隊司令官ロバート・L・ゴームレー中将は、太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ大将に突かれる形で、ニューカレドニアから3,000名の新たな陸軍部隊をガダルカナル島に送り込み、同時に「東京急行」を「脱線」させる艦隊を出撃させることとした。「東京急行脱線」の任務を受けた艦隊、第64任務部隊(ノーマン・スコット少将)は、重巡洋艦サンフランシスコ (USS San Francisco, CA-38) を旗艦とし、サンフランシスコのほかに重巡ソルトレイクシティ (USS Salt Lake City, CA-25)、軽巡ボイシ (USS Boise, CL-47) 、そして軽巡ヘレナが続き、巡洋艦部隊の前方に駆逐艦3隻(ファーレンフォルト、ダンカン、ラフィー)、巡洋艦部隊の後方に駆逐艦2隻(ブキャナン(英語版)、マッカラ)が配備された。スコット少将が、新型レーダーを装備していないサンフランシスコを旗艦にしていたことがネックと見られたが、ともかくサボ島沖で日本艦隊を迎撃することとなった。第64任務部隊は、「東京急行」すなわち先行していた日進輸送隊と接敵せず、後続の外南洋部隊支援隊と交戦することになった。 スコット少将は任務部隊を丁字戦法の形に持ち込んで夜間水上戦闘に入る手はずだった。しかし、回頭の際に前衛の駆逐艦ダンカン (USS Duncan, DD-485) とファーレンホルト(英語版) (USS Farenholt, DD-491) が脱落して混乱を起こした。新型レーダーのSGを装備していたヘレナは任務部隊各艦の中でいち早く外南洋部隊支援隊を探知しており、旗艦に射撃許可を求めていた。ところが軽巡ボイシが報告してきた敵艦隊の位置に大差があった。スコット少将は射撃を許可しなかったが、その最中、ヘレナは命令の読み違えから抜け駆けの形で砲撃を開始し、両艦隊の交戦が始まった(連合軍呼称、エスペランス岬海戦)。日本側の外南洋部隊支援隊旗艦青葉艦橋では、前方に艦影を認めた第六戦隊司令部が「日進隊ではないか」と迷って敵味方識別信号を送っていた。第64任務部隊が発射した初弾(不発弾)が青葉艦橋を貫通し、五藤司令官や幹部が多数戦死、通信機能も失った。丁字を描かれた外南洋部隊支援隊は不利な戦闘を強いられ、青葉が大破して五藤司令官が戦死、重巡古鷹と駆逐艦吹雪が沈没した。しかし健在の重巡衣笠と駆逐艦初雪も反撃してきた。第64任務部隊では、ダンカンとファーレンホルトが敵味方双方から撃たれてファーレンホルトが大破、ダンカンが沈没した。巡洋艦戦隊もボイシが大破、ソルトレイクシティが小破した。第64任務部隊は夜戦で勝利したが、日本側も東京急行(日進隊)のガ島輸送に成功した。つづいて鉄底海峡に突入してきた金剛型戦艦を阻止することはできず、第三戦隊司令官栗田健男中将が指揮する戦艦金剛と榛名および護衛の第二水雷戦隊はヘンダーソン飛行場を思う存分砲撃した。 サボ島沖海戦後、第64任務部隊はエスピリトゥサント島とマキラ島の間で哨戒を行った。損傷したソルトレイクシティとボイシが修理のため第64任務部隊から離脱し、新鋭戦艦ワシントン (USS Washington, BB-56) と軽巡洋艦アトランタ(USS Atlanta, CL-51)が加わった。新任司令官ウィリス・A・リー少将はワシントンを旗艦としていた。この時期の第64任務部隊(ワシントン、サンフランシスコ、チェスター、ヘレナ、アトランタ、駆逐艦8隻)は、幾度か日本軍の潜水艦(伊172、伊4など)と遭遇した。10月20日夜、ヘレナは雷撃を受けたが、近くで爆発しただけでヘレナには命中しなかった。第64任務部隊僚艦の重巡チェスター(USS Chester, CA-27)が伊176(潜水艦長田辺弥八少佐)に撃破された。南太平洋海戦(連合軍呼称:サンタ・クルーズ諸島沖海戦)の時、第64任務部隊はレンネル島とサン・クリストバル島の周辺海域に展開し、ニュージョージア海峡を通過してガダルカナル島に来襲するであろう日本艦隊の阻止を命令されていた。空母機動部隊同士の決戦がおわったあとの10月27日、第64任務部隊ではワシントンが伊21に雷撃されたが、早爆して無傷だった。
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サボ島沖海戦(エスペランス岬沖海戦)
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「ボイシ (軽巡洋艦)」の記事における「サボ島沖海戦(エスペランス岬沖海戦)」の解説
「サボ島沖海戦」も参照 10月11日深夜から12日未明に行われたサボ島沖海戦(連合軍呼称エスペランス岬沖海戦)は、ガダルカナル島攻防戦の中における一つの頂点である。南太平洋部隊司令官ロバート・L・ゴームレー中将は、太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ大将に突かれる形で、ニューカレドニアからアメリカル師団一個連隊をガダルカナル島に送り込み、同時に「東京急行」を阻止する艦隊を出撃させる。東京急行の「脱線」の命を受けたアメリカ艦隊(空母ホーネット部隊、戦艦ワシントン部隊、巡洋艦部隊)のうち、ノーマン・スコット少将が指揮する巡洋艦部隊は「攻撃的行動を執って輸送船団を保護せよ」と命じられた。スコット少将は重巡洋艦サンフランシスコ (USS San Francisco, CA-38) を旗艦とし、重量艦はサンフランシスコのほかに重巡ソルトレイクシティ (USS Salt Lake City, CA-25)、軽巡洋艦ヘレナ (USS Helena, CL-50) 、そしてボイシがいた。第64任務部隊は10月7日にエスピリトゥサント島に集結し、2日後にレンネル島近海に到着して警戒しつつ待機した。10月9日にヌーメアを出発した連合軍輸送船団(歩兵一個連隊)がガ島に接近しつつあり、既述のように輸送船団の安全も確保せねばならなかった。 日本軍にとってもヘンダーソン飛行場は脅威であった。日本軍のラバウル航空隊が来襲すると、沿岸監視員の通報により、連合軍の航空機は上空へ退避してしまう。第十七軍の総攻撃を今度こそ成功させるため、日本軍は水上機母艦日進と千歳および護衛駆逐艦(朝雲、夏雲、秋月、白雪、叢雲、綾波)による重火器輸送、金剛型戦艦と重巡洋艦によるヘンダーソン飛行場砲撃、高速輸送船団による大規模輸送を計画した。第三戦隊(金剛、榛名)の飛行場砲撃に先だって、外南洋部隊(指揮官三川軍一第八艦隊司令長官)支援隊(指揮官五藤存知第六戦隊司令官)による飛行場砲撃を行うことになった。 10月11日、まずラバウル航空隊の零戦と一式陸上攻撃機がヘンダーソン基地に空襲をおこなった。午前8時20分、日進輸送隊(日進、千歳、駆逐艦部隊)はショートランド島南東30浬で連合軍大型機に発見された。午後8時10分、先行していた日進輸送隊はガダルカナル島タサファロング泊地で揚陸を開始した。午後8時45分には連合軍機らしきものが日進隊上空を通過し、午後9時には飛行機がルンガ泊地海面を照射するのを認めた。第64任務部隊には、B-17から情報が入ってきた。日本艦隊(巡洋艦2隻、駆逐艦6隻)が「スロット」と呼ばれるコースを通って接近しつつあることを報告し、日本艦隊には輸送船団は付属しておらず、ヘンダーソン飛行場砲撃を狙ってきた部隊と推定された。既述のように、ガ島に接近中の日本艦隊は2つ(高速輸送部隊/日進隊、飛行場砲撃部隊/外南洋部隊支援隊)であり、B-17が報告したのは日進輸送隊(水上機母艦2隻、駆逐艦6隻)であった。第64任務部隊は飛行場砲撃部隊(本当は東京急行)を妨害すべく、レンネル島沖合からガダルカナル島とサボ島間の海域(鉄底海峡)に移動した。第64任務部隊の弱点は、スコット少将が新型レーダーのSGを装備したヘレナを旗艦とせず、旧式レーダー搭載のサンフランシスコを旗艦にしていたことだった。 10月11日真夜中(日本時間午後9時45分以降)、第64任務部隊と外南洋部隊支援隊はガダルカナル島のエスペランス岬北方海域で交戦した。第64任務部隊は東京急行(日進隊)を見逃し、飛行場砲撃部隊(外南洋部隊支援隊)と交戦したのである。第64任務部隊は丁字戦法をとり、「前方に出現したのは敵艦隊だろうか、それとも日進隊であろうか。艦影は日進に似ているようだが」と確信をもてない外南洋部隊支援隊に対して有利な態勢となった。第64任務部隊側も、最新レーダー搭載のヘレナが報告した目標の位置と、ボイシが報告した位置に相当の差異があり、スコット少将を混乱させた。 錯誤と幸運の末に第64任務部隊は先手をとり、初弾が単縦陣の先頭を行く重巡洋艦青葉の艦橋を貫通して幹部を殺傷、支援部隊指揮官・五藤存知少将に致命傷を負わせた。青葉の右舷前方にいた駆逐艦吹雪も、集中砲火を浴びて轟沈した。大破した青葉は面舵に転舵して煙幕を展開し、2番手の重巡古鷹が先頭に立った。古鷹は果敢に砲撃したが、火災が第64任務部隊の良い目標となって集中砲火を浴び、航行不能となって12日未明に沈没した。ボイシは古鷹と交戦し、つづいて健在の重巡衣笠および駆逐艦初雪と砲撃戦を行う。ボイシは前部主砲群(1、2、3番砲塔付近)に直撃弾を受け大破し、前部火薬庫にも直撃弾があった。浸水により主砲弾薬庫への誘爆は防げたが、多数の死傷者を出す。107名が死亡、35名が重傷を負った。ソルトレイクシティが衣笠とボイシの間に割り込み、ボイシは危機を脱した。だがソルトレイクシティも被弾して機関部で火災が発生した。前衛の駆逐艦ダンカン (USS Duncan, DD-485) とファーレンホルト(英語版) (USS Farenholt, DD-491) は敵味方両部隊の間に迷い込んで双方から砲撃され、ファーレンホルトが大破、ダンカンが沈没した。大破したボイシはエスピリトゥサント島で応急修理をおこなったあと、フィラデルフィア海軍造船所に回航され、11月19日から1943年(昭和18年)3月20日まで修理が行われた。
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サボ島沖海戦
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「吹雪 (吹雪型駆逐艦)」の記事における「サボ島沖海戦」の解説
1942年(昭和17年)10月11日12時、第11駆逐隊第2小隊(吹雪、初雪)は、第六戦隊(司令官五藤存知少将)の重巡洋艦3隻(青葉、古鷹、衣笠)とともにブーゲンビル島ショートランド泊地を出撃し、ガダルカナル島ヘンダーソン飛行場砲撃に向かった。同日、連合艦隊司令長官山本五十六大将の下令によって第三戦隊(司令官栗田健男中将)の金剛型戦艦2隻(金剛、榛名)及び護衛部隊(第二水雷戦隊)による『第二次挺身隊』がヘンダーソン基地艦砲射撃を行うべくトラック泊地を出撃しており、第六戦隊は『第二次挺身隊』に先駆けてルンガ泊地に突入し飛行場砲撃を行うよう命令されていた。第六戦隊司令部は、従来の輸送任務で米艦隊の反撃が限定的だったこと、11日昼間の航空偵察で敵艦影を見なかったこと、3時間前にガダルカナル島に到着した日進隊(水上機母艦2隻《日進、千歳》、護衛艦《秋月、綾波、白雪、叢雲、朝雲、夏雲》)が反撃なく揚陸に成功したことから、『敵の大兵力水上部隊を以てする反撃等は無い』と判断して『特に警戒を厳に為しありき』という状態だった。だが日本海軍の行動を察知していたアメリカ軍は、ガダルカナル島への増援部隊(陸兵約3000名)輸送船団からノーマン・スコット少将率いる重巡洋艦サンフランシスコ・ソルトレイクシティー、軽巡洋艦ボイシ・ヘレナ、駆逐艦5隻の艦隊を護衛任務から引き抜き、アイアンボトム・サウンドに派遣して待ち構えていた。 詳細は「サボ島沖海戦」を参照 16時以降、第六戦隊は速力30ノットで突進、旗艦青葉の左前方3000mに初雪、右前方を吹雪が航行し、重巡3隻(青葉、古鷹、衣笠)が単縦陣になっていた。先行した日進隊からガダルカナル島揚陸成功の報告もあり、第六戦隊は飛行場砲撃を決意。スコールから出たところ、21時43分にサボ島方向(第六戦隊より左前方)に艦影を認めた(アメリカ軍側は21時25分の時点で軽巡ヘレナが改良型レーダーで、後に肉眼で敵影を確認しそれぞれ報告)。これを敵艦隊なのか日進輸送隊なのか六戦隊司令部が迷い、味方識別信号を送りつつ敵味方識別を実施中に、艦影(米艦隊)は砲撃を開始。偶然にも米艦隊は第六戦隊に対し丁字戦法で迎撃する格好になっていた。 青葉の艦橋にいた貴島参謀の手記によれば、最初に被弾したのは青葉の右斜め前方にいた吹雪で、艦中央部に命中弾を受けた吹雪は爆発炎上したという。ほぼ同時に青葉も艦橋に命中弾を受け、五藤司令官が致命傷を負い、通信装置も破壊された。青葉は面舵をとって右に変針すると煙幕を展開、U字を描くような運動で戦場から離脱した。古鷹は取舵をとって左旋回を開始したところ、青葉の面舵変針と被弾炎上を確認するや取舵を戻し、右に反転して青葉を追った。これにより煙幕を展開した青葉と米艦隊の間に割り込んだ格好となった古鷹は集中砲撃を浴び、酸素魚雷に誘爆して航行不能となった。衣笠、初雪のみ左旋回運動を行いつつ米艦隊に砲撃を行い、ボイシ、ソルトレイクシティーに損害を与えて戦場を離脱した。その間、吹雪は青葉に同航して右旋回を行うが、重巡洋艦サンフランシスコ以下の集中砲撃を浴びて撃沈された。アメリカ軍によれば、米艦隊はヘレナが口火を切る形で青葉、古鷹を撃破したあと同士討ちを避けるため一旦射撃を中止、射撃を再開したところ「サンフランシスコ」西方1400mに同航中の艦影を発見。識別不能の灯火信号を1-2分点滅して右に変針したため敵艦(吹雪)と判断して照射攻撃を実施。「サンフランシスコ」以下健在の米艦隊から砲撃を受けた「吹雪」は21時53分(アメリカ軍時間)に爆発を起こして沈没した。第六戦隊戦闘詳報では吹雪の沈没情況を以下のように報告している。 吹雪ハ2158青葉ノ左140度500米ヲ同航中ナリシモ火災ヲ惹起シ2213大火災トナリ、尓後爆発ノ音響ヲ聞キ間モナク沈没スルヲ認メタルモノアリ — 外南洋部隊支援隊戦闘詳報第二號、第二次ツラギ夜戦(サボ島夜戦)第六戦隊司令部 山下駆逐艦長以下220名が戦死、日本側が救助した生存者は僅か8名であった。ただしアメリカ側資料に基づく英文書籍には、吹雪乗組員の109名をアメリカ軍が救助、あるいは109名生存との記述がある。アメリカ軍に救助された者はニュージーランドの捕虜収容所でフェザーストン事件に遭遇した。この後、古鷹の救援に向かった駆逐艦4隻(第9駆逐隊《朝雲、夏雲》、第11駆逐隊第1小隊《白雪、叢雲》)のうち、夏雲、叢雲がアメリカ軍機の空襲で沈没している。第六戦隊は「巡洋艦2隻、駆逐艦1隻撃沈、巡洋艦1隻大破」という戦果を報告したが、実際の損害は駆逐艦ダンカン沈没、軽巡洋艦ボイシ大破、重巡洋艦ソルトレイクシティー小破、駆逐艦ファレンホルト大破というものだった。日本軍の輸送作戦そのものは成功し、日進輸送隊はラッセル諸島西側を通過して戦場を離脱、軽巡川内、由良等と合流して帰投した。また損害を被った米艦隊もルンガ沖から避退し、その間隙をついて10月13日には第三戦隊(金剛、榛名)の、10月15日には重巡鳥海、衣笠によるヘンダーソン基地艦砲射撃が実施されている。 10月16日、軽巡洋艦戦隊(川内、由良、龍田)と第四水雷戦隊(旗艦秋月)、同水雷戦隊第1小隊:第9駆逐隊(朝雲)・第6駆逐隊(暁、雷)、第2小隊:第2駆逐隊(村雨、夕立、春雨、五月雨)、第3小隊:第19駆逐隊(浦波、敷波、綾波)、第4小隊:第27駆逐隊(有明、白露、時雨)によるガダルカナル島輸送作戦(陸兵2159名、野砲6門、速射砲12門、軍需物資)が行われることになった。17日夜、軽巡戦隊はガ島エスペランス岬にて水雷戦隊はタサファロング岬にて揚陸に成功する。この時、ガダルカナル島から輸送艦隊に収容された231名の中に吹雪の航海長が含まれていた。 11月15日、サボ島沖海戦で沈没した夏雲、叢雲と共に吹雪は除籍された。また同日附で『吹雪型駆逐艦』は『白雪型駆逐艦』と改定された。 2015年1月、ポール・アレンの調査チームにより残骸が発見された。
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サボ島沖海戦
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詳細は「サボ島沖海戦」を参照 10月11日、ヘンダーソン基地艦砲射撃を実行するため、第六戦隊と吹雪、駆逐艦初雪がガダルカナル島に向かった。米軍は重巡洋艦2隻、軽巡洋艦2隻、駆逐艦5隻でサボ島沖で迎撃した。日本側は敵艦隊が不在と信じていたため、夜間に近づいた米艦隊を自軍の輸送艦隊と誤認し、先制攻撃を受けた。吹雪が沈没、旗艦の青葉が大破して五藤少将が戦死し、青葉は海域を離脱した。さらに後続の古鷹が集中砲火を浴びて航行不能(12日未明沈没)に陥ったが、衣笠と初雪は果敢に応戦した。この戦闘で米駆逐艦ダンカンが沈没、米軽巡ボイシと米駆逐艦ファーレンホルトが大破、米重巡ソルトレイクシティが小破し、衣笠は軽い損傷で切り抜けた。その後、米軍機5機の空襲を受けたが被害はなく、12日午前9時頃ショートランド泊地に戻った。 サボ島沖海戦について連合艦隊参謀長宇垣纏少将は陣中日誌戦藻録に『当時の戦況を仄聞するに無用心の限り、人を見たら泥棒と思へと同じく、夜間に於て物を見たら敵と思へと考へなく、一、二番艦集中攻撃を蒙るに至れるもの、殆ど衣笠一艦の戦闘と云ふべし。』と記述し、戦隊指導部の油断を断罪する一方で、衣笠の勇戦を評価している。 10月13日、第三戦隊の戦艦金剛、戦艦榛名などが飛行場を艦砲射撃し、衣笠は水偵で照明弾を投下する任務を受けた。同日夜、三川中将はガ島揚陸作戦を支援するため、鳥海、衣笠、駆逐艦望月、天霧を率いてショートランド泊地を出撃した。10月14日-15日にかけて鳥海と衣笠は艦砲射撃(20cm砲弾752発)を実施したが、飛行場の運用に支障はなく、日中の空襲で輸送船3隻を喪失、揚陸した物資もほとんど焼失した。 10月17日朝、鳥海、衣笠、天霧、望月はショートランド泊地を出撃し、ガ島輸送作戦を行う軽巡3隻(川内、由良、龍田)と秋月など駆逐艦12隻を支援した。10月24-25日に日本陸軍によるガ島飛行場総攻撃が行われ、両艦隊が支援したが総攻撃は失敗し、空襲で由良が沈没、秋月が中破した(南太平洋海戦)。各隊は26日から28日までにショートランド泊地に帰投した。 11月1日、衣笠は第三水雷戦隊旗艦となり、川内、天霧、初雪と共に第一攻撃隊を編成した。第一攻撃隊と第四水雷戦隊、第19駆逐隊の増援隊は同日深夜にショートランド泊地を出撃、11月2日深夜にガ島揚陸を実施するが、悪天候で一部の物資を揚陸できなかった。衣笠の水偵は11月2日夜のガ島偵察で米軍艦爆3機と交戦、行方不明になった。11月4日、次の輸送作戦に備えて旗艦が衣笠から浦波に変更された。輸送作戦は成功し、各隊は11月6日朝にショートランド泊地へ帰投した。
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サボ島沖海戦
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「ノーマン・スコット (軍人)」の記事における「サボ島沖海戦」の解説
「サボ島沖海戦」も参照 スコットは巡洋艦と駆逐艦からなる第64.2任務群司令官として船団護衛に従事し、機会あれば「東京急行」を阻止できるよう、夜間の戦闘訓練を欠かさなかった。1942年10月11日午後、偵察機は「スロット」ニュージョージア海峡を南下する五藤存知少将の日本艦隊を発見し、ガダルカナル島行の重要船団を護衛中の第64.2任務群に、その迎撃が命じられた。スコットは第64.2任務群をガダルカナル島とサボ島間の海域で北東と南西方向を往復に哨戒させ、やがてガダルカナル島艦砲射撃の意図を持った五藤艦隊が突入する形となった。スコットの第64.2任務群に属する巡洋艦はレーダーを装備しており、人の目しか頼りがない五藤艦隊よりかは有利ではあったものの、任務群旗艦の重巡洋艦「サンフランシスコ」には旧型レーダーしか搭載していなかった。第64.2任務群は新式レーダー搭載の軽巡洋艦「ヘレナ」 が五藤艦隊を探知し、T字隊形の形に持ち込んで戦闘に入る手はずだった。しかし、スコットは「ヘレナ」の報告を前衛の駆逐艦を探知したものと誤解した。間もなく「サンフランシスコ」の旧式レーダーも五藤艦隊を探知し、23時51分に砲撃を下令したが、5分前に「ヘレナ」が抜け駆けの形から砲撃を開始しており、統一されたものではなかった(サボ島沖海戦)。任務群の一斉射撃により五藤艦隊の重巡洋艦「古鷹」と駆逐艦「吹雪」を撃沈して五藤の旗艦「青葉」を手痛く撃破し、五藤を戦死させた。ところが回頭の際に前衛の駆逐艦「ダンカン」と「ファーレンホルト(英語版)」 (USS Farenholt, DD-491) が任務群から分離して第64.2任務群と五藤艦隊の間に入り込み、両部隊から撃たれて「ダンカン」沈没、「ファーレンホルト」大破の損害を受けた。そもそも「ダンカン」と「ファーレンホルト」の動きはスコットの懸念材料であり、「ヘレナ」の抜け駆け砲撃は「ダンカン」へのものと信じて射撃をいったん中止させていた経緯があった。さらに五藤を失った日本艦隊の決死の反撃で軽巡洋艦「ボイシ」が沈没寸前の大損害を受け、割って入った重巡洋艦「ソルトレイクシティ」も被弾損傷した。 ソロモン戦線で初めて日本艦隊に勝った水上戦闘は終わり、一時的にせよ南太平洋方面の連合軍の士気を上昇させたものの、海戦自体はたびかさなるミスで、スコットから完全勝利の栄光を遠ざける結果となった。しかも、海戦をよそに日本側は別働隊によりガダルカナル島に部隊と重砲を陸揚げした。後年、歴史家サミュエル・E・モリソンはスコットを激賞したものの、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}激賞と実態は一致しているわけではなかった[独自研究?]。
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サボ島沖海戦
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「ラフィー (DD-459)」の記事における「サボ島沖海戦」の解説
ラフィーは1942年10月11日から12日にかけてのエスペランス岬沖海戦(この海戦はサボ島沖海戦として知られている)で初めて艦隊行動に参加した。ノーマン・スコット少将の艦隊と駆逐艦によって行われたこの作戦は日本軍のガダルカナル補給を阻止することが目的だった。10月11日に艦隊は1本の隊列を組んで行動し、ラフィーは2隻の駆逐艦と共にその先陣を務めた。約1時間後、乗組員たちは戦場に到着し戦闘配置についた。交戦が始まった時、ラフィーは青葉 (重巡洋艦)を発見しMk 10 5インチ砲3門で射撃した。戦闘は激しい夜間砲撃戦となった。この戦いでアメリカ軍側は夜明けの時点で駆逐艦ダンカン (DD-485)が沈没しかけていた。しかし日本海軍の損害はそれを上回り、古鷹 (重巡洋艦)が沈没、青葉 (重巡洋艦)は大破した。
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固有名詞の分類
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