海戦後
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「黄海海戦 (日清戦争)」の記事における「海戦後」の解説
このあと、旅順港に逃げた北洋艦隊は陸側から旅順を攻囲される形勢となり、更にそこを撤退し威海衛に逃げ込み水雷艇による攻撃と地上からの攻撃とにより全軍降伏した。日本が制海権をほぼ掌握した事で大陸への派兵が円滑に進むようになり以後の作戦行動が順調に進むようになった。 戦術面ではこの海戦で示された単縦陣による速射砲を主体とした砲撃戦術の有効性が世界に広まり、海戦の基本として定着した。日本海軍では高速・速射主体の部隊(第一遊撃隊)と低速・重火力主体の部隊(連合艦隊本隊)とに分けて運用する形がこの海戦以降基本形となり海軍が消滅する1945年まで受け継がれた。海外でも第一次世界大戦で英独両国が戦艦部隊と高速の巡洋戦艦部隊とに分けて運用したりするなど、その影響がうかがえる。
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海戦後
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イギリス艦隊はそれなりの損害をうけたが(軽巡3隻損傷、駆逐艦4隻損傷)、輸送船団を守り切った。だが、この戦闘のため夜の内にマルタに到着することが出来なくなり、翌23日朝にマルタ近海で枢軸軍航空部隊の空襲を受けた。貴重な燃料を積んだブレコンシャーはマルタから8浬の地点で爆弾を受けて航行不能となった。軽巡ペネロピが曳航を試みたが強風のため失敗し、マルサシロク(英語版)近くの海岸に乗り上げた。枢軸側の空襲で破壊される前に、イギリス側は少量の油を回収した。クラン・キャンベルは爆撃で沈められた。残りの2隻(タラボット、パンパス)も空襲を受け、パンパスに爆弾2発が命中した。だが不発であり、2隻は無事にマルタのグランド・ハーバーに到着した。護衛艦艇にも被害が生じ、損傷した駆逐艦リージョン (HMS Legion, G74) は海岸に乗り上げ、後日沈没した。駆逐艦サウスウォールド (HMS Southwold,L10) はマルタ港外で触雷、沈没した。 さらに、無事に入港できた輸送船2隻(タラボット、パンパス)も接岸して物資を揚陸中に空襲を受け、繋留された状態で沈んだ。結局、運んできた物資26,000トンの内、揚陸できたのは約5,000トンであった。マルタの情勢は逼迫し、イギリス軍は6月に二つの大規模作戦(ハープーン作戦、ヴィガラス作戦)を発動した。 一方、イタリア艦隊は高速戦艦1隻と高性能巡洋艦3隻を擁しながら、軽巡洋艦と駆逐艦で編成されたイギリス艦隊を撃滅できなかった。さらに帰投途中に嵐で駆逐艦2隻(ランチエーレ、シロッコ)が沈没し、軽巡洋艦ジョバンニ・デレ・バンデ・ネレが損傷した。そのジョバンニ・デレ・バンデ・ネレも本格的修理のためラ・スペツィアにむけて回航中、4月1日に英潜水艦アージ(英語版)に撃沈された。
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海戦後
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12月18日、ブレコンシャーは無事にマルタに到着、燃料補給に成功した。ヴァイアンの第15巡洋艦戦隊、第4、第14駆逐群は敵船団を捜索したが発見できなかったためアレクサンドリアへ帰投した。 イタリアの船団のうち1隻は12月18日にベンガジに到着。残り3隻はトリポリへ向かったが、掃海作業を待つ間にイギリス軍機の攻撃を受け1隻が損傷した。この船団を攻撃するため、マルタに入港したK部隊は再び出撃したが、19日にトリポリ北方の機雷原に進入してしまう。軽巡洋艦ネプチューン (HMS Neptune, 20) と駆逐艦カンダハー (HMS Kandahar, F28) が沈没、軽巡2隻(オーロラ、ペネロピ)も大破した。
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海戦後
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「オトラント海峡海戦 (1940年)」の記事における「海戦後」の解説
イタリア空軍機が連合国艦隊の捜索に向かったが、艦隊を発見した飛行艇カントZ.501は撃墜された。イタリア海軍はヴロラの北に魚雷艇部隊を展開させ、巡洋艦や駆逐艦をブリンディジ港やタラント港から出撃させたが、イギリス地中海艦隊を捕捉することは出来なかった。 海戦後、イタリア水雷艇2隻 (ソルフェリーノ、クルタトーネ) が沈没船の生存者約140人を救助した。負傷しながらファブリッツィが港に戻るまで指揮をとりつづけたバルビーニ中尉は、その功績により勲章を授与された。
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海戦後
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「ゴットランド島沖海戦」の記事における「海戦後」の解説
海戦発生を受けてドイツの装甲巡洋艦プリンツ・アーダルベルトとプリンツ・ハインリヒ、水雷艇2隻がダンツィヒから出撃した。だが、Rixhöft北東でプリンツ・アーダルベルトがイギリス潜水艦E9の雷撃を受け損傷。プリンツ・アーダルベルトは最初はスヴィネミュンデへ向かったが、途中で目的地を修理設備のあるキールに変更し、7月4日にキールに着いた。 アルバトロスはスウェーデンに抑留された。
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海戦後
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1970年代までにベララベラ島では、複数の旧日本兵らしき人物が目撃されることとなった。全国ソロモン会は、ベラ湾海戦の生存者が多数、ベララベラ島の東海岸に漂着したとの証言を得たことから、旧日本兵の生存が有望視したが、発見されることはなかった。
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海戦後
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「第2次ナルヴィク海戦」の記事における「海戦後」の解説
第1次ナルヴィク海戦と第2次ナルヴィク海戦の結果、ドイツ軍ナルヴィク攻略部隊の駆逐艦10隻は全滅した。生き残った駆逐艦乗員約2600名は、陸にあがり、ノルウェー軍の武器弾薬貯蔵庫から押収した制服、武器、弾薬を装備して、海軍歩兵となり、ディートル中将(4月18日昇格)の傘下で、山岳兵と共に地上戦を戦うことになった。 戦艦ウォースパイトを中心とするイギリス艦隊は、4月24日に再びフィヨルド内へ進入しナルヴィクを砲撃した。連合軍は5月28日にナルヴィクを奪回したが、6月8日には撤退し、ナルヴィクは再びドイツ軍に占領された。
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海戦後
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五藤少将は翌0600、退却途上の艦上にて出血多量により戦死したが最後まで同士討ちを受けたと信じていたと言われている。この海戦について、10月15日に連合艦隊参謀長宇垣纒少将は自身の日誌、「戦藻録」で第六戦隊司令部は警戒心が無さすぎ、この戦いは「衣笠」一隻で戦ったようなものだと、判断ミスを犯した第六戦隊司令部に対して手厳しい批判を書き記している。 当時の戦況を仄聞(そくぶん)するに無用心の限り、人を見たら泥棒と思へと同じく、夜間に於(おい)て物を見たら敵と思へと考へなく、一、二番艦集中攻撃を蒙(かうむ )るに至れるもの、殆ど衣笠一艦の戦闘と云ふべし。 — 宇垣纒、戦藻録 「戦藻録」の10月16日の日誌では、久宗(青葉艦長)、荒木(古鷹艦長)、参謀長から聞き取りを行い、いくつかの所見を書いており、そこでは夜戦失敗は事前の偵察不十分に在るとしている。 日本軍は手痛い敗北を喫し、飛行場砲撃という目的は達せられなかったが、輸送作戦そのものは成功したとも言える。日本軍は「米重巡洋艦1、駆逐艦1撃沈、重巡洋艦1大破」という戦果を挙げたと誤認していた。大本営発表では日本軍巡洋艦1隻沈没、連合軍巡洋艦2隻沈没・駆逐艦1隻沈没・巡洋艦1隻大破となっている。 また、アメリカ軍は海戦に勝利をおさめた上にアメリカル師団第164歩兵連隊の揚陸に成功したものの大小の損害を受けてガダルカナル島海域から避退、戦力の空白地帯を作ってしまう。この間、第二次飛行場砲撃部隊/挺身艦隊(第三戦隊、司令官栗田健男少将/戦艦金剛・榛名)がルンガ泊地に突入、ヘンダーソン基地に艦砲射撃を行った(ヘンダーソン基地艦砲射撃)。10月14日-15日にも重巡鳥海(第八艦隊旗艦)および本海戦を生き延びた衣笠がヘンダーソン基地に艦砲射撃を実施した。一方、アメリカ軍は日本軍巡洋艦4隻・駆逐艦4隻を撃沈したと報告した。
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海戦後
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「サンチャゴ・デ・キューバ海戦」の記事における「海戦後」の解説
海軍力を失ったスペイン側はアメリカ艦隊の港内突入を防ぐために7月4日夜から5日未明にかけて残っていた巡洋艦レーナ・メルセデス(故障が多く、武装は揚陸して陸戦や要塞砲台へ転用済み)を港口へ進ませて自沈させた。封鎖を続けていたアメリカ艦隊ではこれを戦艦テキサス、マサチューセッツが砲撃し、自沈は東側に寄り過ぎてしまい閉塞は不完全に終わった。 陸軍の守将リナーレス中将の負傷のために代わって要塞の指揮を執っていたホセ・トラール少将は戦局の悪化が決定的となった海戦後からアメリカ陸軍の休戦交渉使と協議を開始した。陸戦支援のためアメリカ海軍は7月1日にアグワドーレスを砲撃、2日にモロー砦を砲撃した。7月1日の激戦によって攻撃を渋っていたアメリカ陸軍のシェーファー少将も政府からの催促を受けて総攻撃の予定日を14日に設定したが、総攻撃が始まる前にサンチャゴのスペイン防衛隊12,000人は武器を捨てて降伏し、アメリカ政府の負担で本国へ帰国されることとなった。 休戦は3日から8日まで続き、13日と14日には現地入りした陸軍総督マイルズ少将の元でスペイン陸軍のホセ・トラール少将が交渉を行って15日に降伏の仮調印が行われた。17日には入城式が執り行われた。 サンチャゴ・デ・キューバの陥落後にマイルズ少将自身が司令官となってプエルトリコ攻略軍を指揮した。プエルトリコ首府は北岸のサン・ホアン港にあり、7、8千のスペイン軍か守備していたが、7月27日にアメリカ軍はプエルトリコ南岸のポンセ港を占領した。マスコミはこのプエルトリコの戦闘を「マイルズ将軍の月夜の散歩」と評した。 8月12日、ワシントンで米西和平の議定書が調印。キューバ独立の承認、プエルトリコの米国への割譲、フィリピン問題は正式の平和会議で取り決める。などの調整がなされた。 9月21日、捕虜となったセルベラ提督等の捕虜がスペイン北部のサンタンデールに帰国した。
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