海戦後の経緯とは? わかりやすく解説

海戦後の経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 23:06 UTC 版)

鳴梁海戦」の記事における「海戦後の経緯」の解説

日本軍では8月26日全州会議定められ方針従い一度忠清道まで進出した陸軍のうち、左軍全羅道戻り北から南へ掃討続けた全羅道北部掃討完了後、この海戦同時期に開かれた9月16日井邑会議では残る全羅道南部掃討方針定められ、各大名任地向けて進撃した全羅道西南部も9月中旬以降日本陸軍部隊進出するところとなり、朝鮮水軍はそれらの日本陸軍部隊西岸進出圧倒される形で、その後1ヶ月北上して逃避せざるを得なくなった朝鮮水軍まともな反撃を行うこともできないままに後退重ね9月19日七山海(霊光郡沖)、9月21日には遥に全羅道北端の古群山島(群山沖)まで後退している。 他方こうした朝鮮水軍退却受けた日本の水軍は、鳴梁海戦翌日には朝鮮水軍根拠地であった水営攻撃し、また対岸珍島攻略した。さらに鳴海峡突破して全羅道西南岸(現在の全羅南道西岸域)に進出し、ここを陸軍呼応するかたちで制圧していき、姜沆や鄭希得などの多く捕虜得た。これにより、日本軍左軍及び水軍作戦目標であった全羅道全域掃討作戦を完全に達成した同時期に北上続けた右軍稷山の戦い明軍撃退して忠清道超え京畿道まで進出し、こちらも作戦目標達成したこのため10月に入ると次の作戦目標である城郭群(倭城)の構築のため、陸軍水軍ともに進出地から、順天南海泗川固城唐島瀬戸口(見乃)、昌原(馬山)、梁山蔚山、の新規築城予定地又は既成城郭移動し築城作業開始する日本軍去った後の鳴海峡では、ようやく10月8日になって朝鮮水軍帰還するが、朝鮮水軍根拠地である右水営日本軍によって破壊され後であった。李舜臣根拠地古今島莞島郡古今面)に移して朝鮮水軍再建図ったが、次に積極的な作戦行動実施するのは1年以上後の順天城の戦い以降となる。

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海戦後の経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/27 08:43 UTC 版)

露梁海戦」の記事における「海戦後の経緯」の解説

順天倭城小西軍は封鎖解けたのを見て19日早朝順天倭城船出し海戦生じた朝鮮半島南部南海島北部海峡ルート避け南海島の南を大きく迂回して20日に、無事巨済島到着した小西軍が露梁海戦参加することは無かった同じく20日南海島残った樺山ら約五百島津兵も順次海路使って収容し西部方面日本軍撤退完了する

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