海戦発生の経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/28 00:56 UTC 版)
「サールィチ岬の海戦」の記事における「海戦発生の経緯」の解説
11月2日(グレゴリオ暦15日)、ロシア黒海艦隊のほぼすべての艦艇がアナトリア半島沿岸の海上交通路上における軍事作戦のため出撃した。ロシア戦艦はトラブゾンを砲撃し、Z/Zh級駆逐艦に護衛された機雷敷設艦コンスタンチーン大公とクセーニヤ大公妃は、トラブゾンに123 個、プラタンに77 個、ウニスに100 個、サムスンに100 個の機雷を敷設した。 これらの情報を得たオスマン帝国艦隊司令官のヴィルヘルム・スション海軍少将は、敵艦隊をセヴァストーポリへ向かう帰路において迎撃し、好条件下で個別に撃破しようと計画した。11月4日(17日)昼、スション少将とドイツ側指揮官となるR・アッカーマン大佐の坐乗したゲーベンは、ケットナー上級中佐指揮の小型巡洋艦ブレスラウを率いてボスポラス海峡を出で、クリミア半島を目指した。 11月4日、黒海艦隊司令官のアンドレイ・エベルガールト提督は艦隊を率いてセヴァストーポリへ向かう帰路にあったが、無線通信によってゲーベンが出撃したという海軍総司令部からの通達を知った。速力不足のため、司令官は艦隊で敵艦を捜索することができなかった。エベルガールトは、警戒を高めつつ航海を続けるよう命じた。それは、図らずもまさにドイツ艦に向かう航路を辿っていた。
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