黒海艦隊とは? わかりやすく解説

黒海艦隊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/15 03:44 UTC 版)

黒海艦隊(こっかいかんたい、ロシア語:Черноморский флот チョルナモールスキイ・フロート、略称ЧФ)は、ロシア海軍のうち黒海に駐留する艦隊である。


注釈

  1. ^ ソ連崩壊後、ロシアはウクライナ領クリミア半島のセヴァストポリを軍港として利用し、2014年にクリミア全体を制圧して編入を宣言したが、ほとんどの国家は公的には承認していない。
  2. ^ 極東へ回航されたバルチック艦隊日本海海戦日本海軍に敗れ、ほぼ壊滅した。
  3. ^ 大型軍艦の作戦行動中の喪失は、フォークランド紛争で原子力潜水艦コンカラーによって撃沈されたアルゼンチン海軍の巡洋艦ヘネラル・ベルグラノ以来。

出典

  1. ^ Шойгу: действия Минобороны РФ в Крыму были вызваны угрозой жизни мирного населения”. イタルタス通信 (2014年4月4日). 2022年2月12日閲覧。
  2. ^ a b c d 「露黒海艦隊本部で爆発 ウクライナ側の攻撃か」産経新聞』朝刊2022年8月21日(国際面)2022年9月14日閲覧
  3. ^ a b 「ロシア黒海艦隊、一部潜水艦の配備先変更=英国防省」ロイター(2022年9月20日)2022年9月21日閲覧
  4. ^ "Черноморский флот до 2020 года получит 6 фрегатов и 6 ДЭПЛ," ИТАР-ТАСС, 27 октября 2010. ヴィソツキー海軍総司令官の発言
  5. ^ “ウクライナ問題に決着つけるエネルギー価格”. スマートエネルギー情報局. (2014年5月23日). http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/40762?page=5 2014年6月18日閲覧。 
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  7. ^ “General Staff update: Not Orsk but Saratov landing ship destroyed at Berdiansk Port”. ウクルインフォルム(UKRINFORM). (2022年3月25日). https://www.ukrinform.net/rubric-ato/3439345-general-staff-update-not-orsk-but-saratov-landing-ship-destroyed-at-berdiansk-port.html 
  8. ^ Russian warship destroyed in occupied port of Berdyansk, says Ukraine”. BBC (2022年3月24日). 2022年4月19日閲覧。
  9. ^ Появилась информация об аресте командира Черноморского флота России”. 2022年4月22日閲覧。
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  11. ^ СБУ назвала первых причастных к бомбардировкам гражданских объектов Украины”. istories.media (2003年1月3日). 2023年1月4日閲覧。
  12. ^ 「ロ黒海艦隊に新司令就任と国営通信、クリミア情勢受けトップ交代か」ロイター(2022年8月18日)2022年8月21日閲覧
  13. ^ ウクライナ、クリミアに大規模攻撃 露軍艦艇2隻損傷”. 産経新聞 (2023年9月13日). 2023年9月13日閲覧。
  14. ^ ウクライナ軍、セバストポリのロシア黒海艦隊司令部を攻撃”. ロイター (2023年9月21日). 2023年9月20日閲覧。
  15. ^ “ウクライナ国防省「ロシア黒海艦隊のミサイル艇撃沈」…水上無人艇が体当たり攻撃”. YOMIURI ONLINE. (2024年2月2日). https://www.yomiuri.co.jp/world/20240202-OYT1T50045/#google_vignette 2024年2月2日閲覧。 
  16. ^ “ウクライナ軍、黒海でロシアの大型揚陸艦を撃沈と発表”. CNN NEWS. (2024年2月15日). https://www.bbc.com/japanese/articles/cd1w46w1yxlo.amp 2024年2月2日閲覧。 
  17. ^ “ロシア黒海艦隊の哨戒艇を沈没 ウクライナが無人艇攻撃”. 日本経済新聞. (2024年3月6日). https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGR060A80W4A300C2000000/ 2024年2月2日閲覧。 
  18. ^ “ロシア海軍の総司令官が交代、ウクライナ側の攻撃で艦船に損失…プーチン大統領が更迭決める”. YOMIURI ONLINE. (2024年2月2日). https://www.yomiuri.co.jp/world/20240312-OYT1T50046/#google_vignette 2024年2月2日閲覧。 
  19. ^ 日本放送協会 (2024年4月3日). “国境から1000キロ超 ロシア中部をウクライナ無人機で攻撃か | NHK”. NHKニュース. 2024年4月14日閲覧。
  20. ^ Ракетный фрегат "Адмирал Макаров" проекта 11356 может стать флагманским кораблем Черноморского флота России после гибели крейсера "Москва". Об этом в среду, 18 мая, сообщил ТАСС сообщил источник, близкий к силовым структурам Крыма.”. MiL.PRESS FROT (2022年5月18日). 2022年7月19日閲覧。
  21. ^ Три фрегата для ЧФ строятся на заводе "Янтарь", следующие контракты запланированы с иностранными заказчиками - заместитель главкома ВМФinterfax 2017年7月1日
  22. ^ Подлодку «Великий Новгород» спустили на воду в Петербурге(ロシア語)
  23. ^ a b c 世界の艦船』2008年7月号(No.692)pp.226-227
  24. ^ 『世界の艦船』2014年5月号(No.797)p.153


「黒海艦隊」の続きの解説一覧

黒海艦隊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/06/28 09:41 UTC 版)

ソオブラジーテリヌイ (大型対潜艦)」の記事における「黒海艦隊」の解説

1964年6月18日から25日にかけて、セラフィム・チュルシン黒海艦隊司令官指揮下、ソオブラジーテリヌイ巡洋艦ミハイル・クトゥーゾフ大型対潜艦コムソモーレツ・ウクライーヌィ艦隊組みユーゴスラヴィアスプリト訪問した1960年代後半から、中東戦争関連する実戦任務就いた第三次中東戦争直後1967年7月1日から31日にかけては、エジプト対す軍事支援任務遂行した。すぐあとの8月12日から15日にかけては、ブルガリアヴァルナ訪問した1968年には、1月1日から12月31日まで再度エジプト軍事的に支援するため中東へ派遣された。その間1月29日から2月4日にかけては、ユーゴスラヴィアコトルとゼレニナを訪問した1969年7月20日から27日にかけては、キューバハバナ訪問した1974年5月にはチュニジアチュニス訪問した1976年10月1日から1978年11月28日にかけては、セヴァストーポリの「セヴモルザヴォート」にてオーバーホール受けた

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黒海艦隊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/06/28 08:42 UTC 版)

ザポリージャ (潜水艦)」の記事における「黒海艦隊」の解説

1990年夏には白海去り運河通ってアゾフ海経由黒海回航された。同年8月27日付け赤旗勲章受章黒海艦隊(ロシア語版)へ所属変更した。そして、セヴァストーポリ市南湾ウクライナ語版)に基地を置く第 14 潜水艦師団ロシア語版)・第 153 潜水艦戦隊(ロシア語版)に配属された。 ソ連崩壊により、ウクライナロシア連邦共同管理する黒海艦隊へ所属することとなった1994年には、黒海艦隊における「優秀な潜水艦選出された。同年11月には、「優秀艦」に選出された。この年、 B-435 は 16 日海上にあり、航行時間82 時間、距離にして 243.5 海里水上で、 4.2 海里水中航行した戦闘訓練行ったのち、バラクラーヴァ湾(ウクライナ語版)へ回航された。1995年には、バラクラーヴァ湾からセヴァストーポリ南湾曳航された。同年2月16日付けで、南湾基地を置く第 155 潜水艦戦隊(ロシア語版)に配属替えされた。 1995年から1996年にかけて、セヴァストーポリ市キレン湾にある第 13 船舶修理工場にて中期修理受けた修理後潜水を除く工場航行試験プログラム実施された。潜水試験除かれたのは、潜水航行必要な蓄電池調達できていなかったためである。

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黒海艦隊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/01/14 14:30 UTC 版)

ミハイル・パーヴロヴィチ・サーブリン」の記事における「黒海艦隊」の解説

1905年から1906年にかけては、上級士官として練習船「ハバーロフスク」に乗り組んだ対日戦争が終結すると、日本海から引き揚げ黒海転勤した1906年から1907年のあいだは、初め艦長として水雷艇「ザヴィードヌィイ」に乗艦した。1907年から1909年のあいだは、航洋砲艦「ドネーツ」の艦長務めた1909年から1911年のあいだは、黒海第5予備水雷艇隊の指揮官務めた1911年から1912年のあいだは、黒海水雷分艦隊第3水雷艇隊を指揮した1912年9月6日には海軍大佐昇任し戦列艦ロスチスラフ」の艦長就任し1914年までその任を務めた第一次世界大戦には水雷戦隊司令官として参加し数々作戦参加したサールィチ岬の海戦では、第1分隊旗艦艦隊水雷艇「グネーヴヌイ」に坐乗し、水雷戦隊率いて敵の巡洋戦艦ヤウズ・スルタン・セリム」に対す攻撃指揮したロシア艦隊旗艦戦列艦「エフスターフィイ」が砲門を開くと、サーブリンは独断水雷戦隊突撃命じた。しかし、彼の配下艦隊水雷艇鈍足新型巡洋戦艦追いつくことができなかった。彼は追撃することのできた3 隻の艦隊水雷艇巡洋戦艦追いかけたが、それでも敵を射程内に捉えることができず、一方敵の砲火はサーブリンの戦隊覆っていた。彼は、「1 隻が脱落すれば残る2 隻を率いて突撃する」、「皆が死ぬか、皆が生きるかだ」という信号発したが、自殺的攻撃アンドレイ・エベルガールト艦隊司令官は危険と判断し中止命令出した。これにより、サーブリンの水雷戦隊敵艦突入することなく帰還した。しかし、攻撃勇敢に参加した功績から、サーブリンは1914年12月ゲオルギー武器勲章受章した1915年4月には海軍少将昇任しこの年から1917年にかけて黒海機雷防衛長官務めた1916年には、海軍中将昇任した1916年7月21日付けで、第2戦列艦戦隊長就任した。しかし、その率直で自分曲げない性格災いし、エベルガールト海軍中将に代わって黒海艦隊司令官に就任したアレクサンドル・コルチャーク海軍中将作戦失敗分析巡って意見対立してサーブリンは戦列艦戦隊長辞任した1916年10月31日付け海軍大臣指令バルト艦隊転勤した

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黒海艦隊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/21 22:08 UTC 版)

プルート (機雷敷設艦)」の記事における「黒海艦隊」の解説

1895年海上商業者によって購入されプルート改称され上で練習船として用いられた。1909年12月1日からは黒海艦隊の機雷敷設艦として使用されるようになった1914年8月には、ヨーロッパ中心に第一次世界大戦勃発したこの年10月28日G・A・ブィーコフ中佐指揮にあったプルートは、任務終えてセヴァストーポリ帰港する途上サールィチ岬にあった。朝5時30分海上には立ち込め視界極めて悪かった。このとき、プルート思いがけず国籍不明船舶発見したプルートは、探照燈にてセヴァストーポリ軍港不審船発見第一報入れた。港ではこれを帰港するプルート視界不良のため照射しているものと勘違いし、まったく気にも留めなかった。しかし、この不審船こそが黒海艦隊の最も恐れたドイツ帝国弩級巡洋戦艦ゲーベンだったのである当時ゲーベンオスマン帝国譲渡されており、その名もヤウズ・スルタン・セリム呼ばれていたが、ロシアではゲーベンの名で知られていた。このとき、プルート軍港司令部巡洋戦艦接近気付いていなかった。

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黒海艦隊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/22 23:00 UTC 版)

グリゴーリイ・チュフニーン」の記事における「黒海艦隊」の解説

1904年4月2日付けで、黒海艦隊と黒海港湾総指揮官に任命された。 1905年11月15日当時ロシア著名な作家A・I・クプリーンセヴァストーポリの蜂起叛乱起こした巡洋艦「オチャーコフ」に対す冷酷な鎮圧目撃者となった。そして、「セヴァストーポリでの出来事 События в Севастополе」というルポルタージュ書いてその詳細告発した1905年12月1日発行サンクトペテルブルク新聞我らが生活 Наша жизнь』紙にルポルタージュ掲載されたが、チュフニーンはセヴァストーポリにてこれを読みすぐさま作家対し3 昼夜いないにセヴァストーポリ総督府より退去するよう命じたクプリーンはこのルポルタージュにてチュフニーンを「かつて端に吊るされ揺れ水兵とともに外国の港に入っていった」人物であると評したが、このような人物描写がされていたこととの関連はしばらく見つけられなかった。 1906年1月27日には、社会革命党員(エスエル)であるYe・A・イズマーイロヴィチが、請願者に扮して宮殿にてチュフニーンへ回転式拳銃で数発撃った提督は肩と腹部負傷したが、一命取り留めた同年2月19日サンクトペテルブルクから叛乱蜂起者に対す法令上の最高指令下された3月3日、チュフニーンは叛乱首謀者P・Pシュミット大尉、S・チャースニク中尉水兵のA・グラトコーフとN・アントネーンコに対し死刑宣告した

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