ブレストリトフスク‐じょうやく〔‐デウヤク〕【ブレストリトフスク条約】
ブレスト=リトフスク条約
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ブレスト=リトフスク条約(リトフスクじょうやく、ドイツ語: Friedensvertrag von Brest-Litowsk, トルコ語: Brest Litovsk Barış Antlaşması, ブルガリア語: Брест-Литовски договор)またはブレスト条約(ウクライナ語: Брестський мир, ロシア語: Брестский мир)は、第一次世界大戦の終結を巡り、ブレスト=リトフスク(現在のベラルーシのブレスト)で1918年に締結された講和条約である。ウクライナ・ソビエト戦争の情勢もあり、独墺とウクライナ人民共和国とのブレスト=リトフスク条約、独墺とロシア・ソビエトとのブレスト=リトフスク条約の2つの条約がある[2]。
- ^ (ウクライナ語) To whom did Brest belong in 1918? Argument among Ukraine, Belarus, and Germany. Ukrayinska Pravda, 25 March 2011.
- ^ a b c d 中井和夫他『ポーランド・ウクライナ・バルト史』p303-313
- ^ 『ブレスト=リトフスク条約』 - コトバンク
- 1 ブレスト=リトフスク条約とは
- 2 ブレスト=リトフスク条約の概要
- 3 背景と経緯
- 4 ウクライナの講和
- 5 ロシアの講和
- 6 脚注
ブレスト=リトフスク条約
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「ロシア革命」の記事における「ブレスト=リトフスク条約」の解説
詳細は「ブレスト=リトフスク条約」を参照 全交戦国に無併合・無賠償の講和を提案した「平和についての布告」はフランスやイギリスなどの同盟諸国から無視されたため、ソヴィエト政府はドイツやオーストリア・ハンガリーとの単独講和へ向けてブレスト=リトフスクで交渉を開始した。交渉は外務人民委員となっていたトロツキーが担当した。 この交渉に関してボリシェヴィキの内部に三つのグループが形成された。講和に反対し、革命戦争によってロシア革命をヨーロッパへ波及させようとするブハーリンのグループ、ただちにドイツ側の条件を受け入れて「息継ぎ」の時間を得ようとするレーニンのグループ、そしてドイツでの革命勃発に期待しつつ交渉を引き延ばそうとするトロツキーのグループである。 最初の段階ではトロツキーの中間的な見解が支持を得たため、ソヴィエト政府はドイツ側が1月27日に突きつけた最後通牒を拒否した。ドイツ軍がロシアへの攻撃を再開し、ロシア軍が潰走すると、ボリシェヴィキの中でようやくレーニンの見解が多数派を占めた。3月3日、ソヴィエト政府は当初よりさらに厳しい条件での講和条約に調印した。このブレスト=リトフスク条約によって、ロシアはフィンランド、エストニア、ラトビア、リトアニア、ポーランド、ウクライナ、さらにカフカスのいくつかの地域を失い、巨額の賠償金を課せられることとなった。のちに、同年11月にドイツ革命が起き、ドイツが敗北するとボリシェヴィキはこの条約を破棄したが、ウクライナを除く上記の割譲地域は取り戻せず、独立を認めることとなった。 左翼社会革命党は講和条約に反対し、ボリシェヴィキとの連立政府から脱退した。
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ブレスト=リトフスク条約
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「ゲオルギー・ポベドノーセツ (戦艦)」の記事における「ブレスト=リトフスク条約」の解説
赤軍の支配も束の間、1918年1月27日にはブレスト=リトフスク単独講和により中央同盟国と同盟したウクライナ軍が反攻に出た。2月18日にはロシアと中央同盟国とのあいだのブレスト=リトフスク講和条約交渉が決裂したことを受け、ドイツ・オーストリア=ハンガリー軍が進撃を開始した。 2月19日、赤軍最高総司令官N・V・クルィレーンコはゲオルギー・ポベドノーセツのラジオステーションを使い、ドイツ軍との交戦をやめて和睦交渉に入るべしとする無線電報を全軍へ向けて発信した。「すみやかに講和に署名するよう発議された。いかなる衝突の事態においても戦わず、ドイツ人が拒否した場合には可能な抵抗をすべし。」 赤軍は撤退の準備をする必要に迫られ、3月にはセヴァストーポリにてゲオルギー・ポベドノーセツを含む保有艦船を保管状態に入れた。3月22日にはモスクワ政府より艦船のノヴォロシースクへの撤収命令が出されたが、主力艦船は1 隻も出港しなかった。3月30日には、ドイツとモスクワ政府とのあいだでセヴァストーポリを含むクリミア半島がウクライナに含まれないとする取り決めが行われた。この結果、翌月ドイツ軍がクリミアへ入った際に、戦闘態勢にあったクリミアの黒海艦隊が、ブレスト=リトフスク条約の「ロシア・ソヴィエト共和国はロシアの港にある軍艦を武装解除すべし」という条項に抵触するという主張の根拠が生じた。 1918年4月には、クリミア作戦によってクリミア半島の奪回が佳境に入った。この月初めの時点で、黒海艦隊は6677 名の水兵を擁していたが、そのうち、ゲオルギー・ポベドノーセツの乗員とそこに置かれていた黒海艦隊中央管理委員会(ツェントロフロート)本部や司令部要員は合わせて474 名であった。 4月15日、ドイツはロシア側に黒海艦隊の条約違反について通告した。同日、ゲオルギー・ポベドノーセツはほかの旧艦隊装甲艦とともにウクライナ軍の指揮下に入った。4月20日には、ウクライナ人民共和国首相B・O・ホルボーヴィチは次のような電報をキエフのドイツ大使に打った。「全黒海艦隊はウクライナ人民共和国の所有である。……若干の単位部隊は現時点で我々が勇敢なる貴軍の兵士とともに戦っている悪党一味の手にある。」 4月22日にはシンフェローポリがドイツ・ウクライナ同盟軍に奪還され、残すはセヴァストーポリばかりとなった。迫り来るドイツ帝国軍による攻撃を避けるため、黒海艦隊司令官M・P・サーブリンは全艦船と港湾および要塞にウクライナ国旗を掲揚すべしとする指令を発した。一方、ボリシェヴィキは黒海艦隊にノヴォロシースクへの撤収を命じた。その後、黒海艦隊の赤軍部隊は各戦線で壊滅した。4月25日には、ボリシェヴィキは「革命の旗を降ろしてはならない」とする声明を発表した。 4月29日15時00分、サーブリン艦隊司令官は「ウクライナ黒海艦隊指揮に着任する」という信号を司令部艦ゲオルギー・ポベドノーセツから発信した。16時00分には、サーブリン司令官は「艦隊にウクライナ国旗を掲揚せよ」とする命令をゲオルギー・ポベドノーセツのラジオステーションから発信した。そして、キエフの中央ラーダへ「本日、セヴァストーポリ要塞およびセヴァストーポリにあった艦隊は、ウクライナ国旗を掲揚した。艦隊指揮にサーブリン提督は着手した」という電報を打った。これを受けて、黒海艦隊艦船の大半がウクライナ人民共和国の旗を掲げた。 しかし、ここで艦隊がウクライナ側へ渡ることに関して同盟国のあいだで問題が生じた。ドイツ司令部は、ウクライナ中央ラーダはクリミアを放棄するという、ドイツおよびオーストリア=ハンガリーとのあいだに交わされた和平署名の付帯条件に立脚し、クリミアからウクライナ人民共和国軍を撤収させる決定をした。その結果、P・F・ボルボチャーン大佐麾下のクリミア集団は半島から撤退を余儀なくされた。ドイツ軍は、単独でセヴァストーポリ攻略を開始した。 同じ日、キエフではヘーチマンの政変が起こって中央ラーダ政府が崩壊し、ウクライナ人民共和国に変わってウクライナ国が成立した。ドイツはウクライナ国と同盟したため、ウクライナ人民共和国への所属を宣言した黒海艦隊はすぐに「敵」となることになってしまった。セヴァストーポリは巡洋戦艦ヤウズ・スルタン・セリムと防護巡洋艦ハミディイェの砲撃に晒され、陸上部隊によって占拠された。戦列艦ヴォーリャ、スヴォボードナヤ・ロシアなど一部の黒海艦隊艦船はサーブリン司令官とともにノヴォロシースクへの脱出に成功したが、残りは湾内で自沈するか、埠頭で乗員によって武装解除、あるいは破壊された。 ゲオルギー・ポベドノーセツも、セヴァストーポリに留まった。新しいセヴァストーポリ艦隊司令官にはオストロフラードシクィイ海軍大佐が選任された。4月30日彼はV・Ye・クロチュコーウシクィイ海軍少将、S・I・ブルレーイ海軍少将とともに、ゲオルギー・ポベドノーセツ上にウクライナ黒海艦隊司令部を組織した。 ところが、5月1日から2日にかけて、ゲオルギー・ポベドノーセツはドイツ帝国海軍に接収された。ドイツ軍はゲオルギー・ポベドノーセツに間借りして、そこに司令部を開設した。
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ブレスト=リトフスク条約
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「西部戦線 (第一次世界大戦)」の記事における「ブレスト=リトフスク条約」の解説
中央同盟国は、3月3日のブレスト=リトフスク条約でボリシェヴィキ政府と講和したことで、東部戦線から西部戦線へ部隊を転進させることができるようになった。西部戦線へ送り込まれる東部戦線部隊と、新しく連合国軍に加わるアメリカ軍とのバランスによって、戦争の最終結果は西部戦線で決定されることになった。中央同盟国は、もはやこれ以上長期化する戦争には勝利することはできないこと、到着するアメリカ軍はますます多くなるのが確実なことを悟っていた。その中で、東部戦線からの増援および新しい歩兵戦術の使用により、西部戦線で攻勢を実施し、決定的な勝利を得ることに大きな望みを賭けていた。ルーデンドルフは米軍の存在が致命的となる前、1918年春に攻勢をかけて英仏軍を休戦に追い込もうと考えた。 皮肉なことではあるが、講和によって中央同盟国が占領した領土が小さかったなら、ドイツ軍はより多くの兵力を西部戦線へ投入でき、戦争の結末も違っていたかもしれない。ドイツ軍は東部戦線の44個師団を西部へ移動させた。これによって連合国側の合計173個師団に対して、ドイツ軍は192個師団を数え優勢を確保した。ドイツ軍兵士は浸透戦術の訓練を受け、攻勢準備を着々と整えていたのに対して、連合国は未だに士気と統一指揮権を巡って問題が発生していた。 ルーデンドルフの戦略は、英仏両軍の中間に攻勢をかけ、イギリス軍を北に圧迫してドーバー海峡へと追いやることを目標としていた。これまでに得られなかったような圧倒的な勝利を得るために、浸透戦術の徹底、航空機の活用、詳細な砲撃計画、毒ガスの大規模な使用が図られた。 またドイツ軍は1917年秋にイタリア戦線のカポレットと東部戦線のリガで突破作戦を行った。これらの作戦は来たるべき西部大攻勢の予行演習を兼ねたものであり、リガ戦の司令官フーチェルと参謀長ザウバーツヴァイク、カポレット戦の司令官ベロウと参謀長デルメンジンゲンは西部戦線に配置換えのうえ第17軍と第18軍の司令官および参謀長となった。
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