ブレスト=リトフスク条約とは? わかりやすく解説

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ブレストリトフスク‐じょうやく〔‐デウヤク〕【ブレストリトフスク条約】

読み方:ぶれすとりとふすくじょうやく

第一次大戦末の1918年3月ロシア革命政権ドイツおよびその同盟国結んだ講和条約新生ソビエト政権革命防衛追われていたため、大幅な領土喪失認めたが、ベルサイユ条約無効となった


ブレスト=リトフスク条約

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/03 02:40 UTC 版)

ブレスト=リトフスク条約(リトフスクじょうやく、ドイツ語: Friedensvertrag von Brest-Litowsk, トルコ語: Brest Litovsk Barış Antlaşması, ブルガリア語: Брест-Литовски договор)またはブレスト条約ウクライナ語: Брестський мир, ロシア語: Брестский мир)は、第一次世界大戦の終結を巡り、ブレスト=リトフスク(現在のベラルーシブレスト)で1918年に締結された講和条約である。ウクライナ・ソビエト戦争の情勢もあり、ウクライナ人民共和国とのブレスト=リトフスク条約、独墺とロシア・ソビエトとのブレスト=リトフスク条約の2つの条約がある[2]


  1. ^ (ウクライナ語) To whom did Brest belong in 1918? Argument among Ukraine, Belarus, and Germany. Ukrayinska Pravda, 25 March 2011.
  2. ^ a b c d 中井和夫他『ポーランド・ウクライナ・バルト史』p303-313
  3. ^ ブレスト=リトフスク条約』 - コトバンク


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ブレスト=リトフスク条約

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 07:19 UTC 版)

ロシア革命」の記事における「ブレスト=リトフスク条約」の解説

詳細は「ブレスト=リトフスク条約」を参照交戦国に無併合・無賠償講和提案した平和についての布告」はフランスイギリスなど同盟諸国から無視されたため、ソヴィエト政府ドイツオーストリア・ハンガリーとの単独講和向けてブレスト=リトフスク交渉開始した交渉外務人民委員となっていたトロツキー担当した。 この交渉に関してボリシェヴィキ内部三つグループ形成された。講和反対し、革命戦争によってロシア革命ヨーロッパへ波及させようとするブハーリングループ、ただちにドイツ側条件受け入れて息継ぎ」の時間得ようとするレーニングループ、そしてドイツでの革命勃発期待しつつ交渉を引き延ばそうとするトロツキーグループである。 最初の段階ではトロツキー中間的な見解支持得たため、ソヴィエト政府ドイツ側1月27日突きつけ最後通牒拒否したドイツ軍ロシアへ攻撃再開しロシア軍潰走すると、ボリシェヴィキの中でようやくレーニン見解多数派占めた3月3日ソヴィエト政府当初よりさらに厳しい条件での講和条約調印した。このブレスト=リトフスク条約によって、ロシアフィンランドエストニアラトビアリトアニアポーランドウクライナ、さらにカフカスいくつかの地域失い巨額賠償金課せられることとなった。のちに、同年11月ドイツ革命起きドイツ敗北するボリシェヴィキはこの条約破棄したが、ウクライナを除く上記割譲地域は取り戻せず、独立認めることとなった左翼社会革命党講和条約反対し、ボリシェヴィキとの連立政府から脱退した

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ブレスト=リトフスク条約

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/11 05:59 UTC 版)

ゲオルギー・ポベドノーセツ (戦艦)」の記事における「ブレスト=リトフスク条約」の解説

赤軍支配束の間1918年1月27日にはブレスト=リトフスク単独講和により中央同盟国同盟したウクライナ軍反攻出た2月18日にはロシア中央同盟国とのあいだのブレスト=リトフスク講和条約交渉決裂したことを受け、ドイツ・オーストリアハンガリー軍進撃開始した2月19日赤軍最高総司令官N・V・クルィレーンコはゲオルギー・ポベドノーセツのラジオステーション使いドイツ軍との交戦をやめて和睦交渉に入るべしとする無線電報全軍向けて発信した。「すみやかに講和署名するよう発議された。いかなる衝突事態においても戦わずドイツ人拒否した場合には可能な抵抗をすべし。」 赤軍撤退準備をする必要に迫られ3月にはセヴァストーポリにてゲオルギー・ポベドノーセツを含む保有艦船保管状態に入れた3月22日にはモスクワ政府より艦船ノヴォロシースクへの撤収命令出されたが、主力艦船は1 隻も出港しなかった。3月30日には、ドイツモスクワ政府とのあいだでセヴァストーポリを含むクリミア半島ウクライナ含まれないとする取り決めが行われた。この結果翌月ドイツ軍クリミア入った際に、戦闘態勢にあったクリミア黒海艦隊が、ブレスト=リトフスク条約の「ロシア・ソヴィエト共和国ロシアの港にある軍艦武装解除すべし」という条項抵触するという主張の根拠生じた1918年4月には、クリミア作戦によってクリミア半島奪回佳境入った。この月初め時点で、黒海艦隊は6677 名の水兵擁していたが、そのうち、ゲオルギー・ポベドノーセツの乗員とそこに置かれていた黒海艦隊中央管理委員会(ツェントロフロート)本部司令部要員合わせて474であった4月15日ドイツロシア側に黒海艦隊条約違反について通告した同日、ゲオルギー・ポベドノーセツはほかの旧艦隊装甲艦とともにウクライナ軍指揮下に入った4月20日には、ウクライナ人民共和国首相B・O・ホルボーヴィチは次のような電報キエフドイツ大使打った。「全黒海艦隊ウクライナ人民共和国所有である。……若干単位部隊現時点で我々が勇敢なる貴軍の兵士とともに戦っている悪党一味の手にある。」 4月22日にはシンフェローポリがドイツ・ウクライナ同盟軍奪還され、残すはセヴァストーポリばかりとなった迫り来るドイツ帝国軍による攻撃避けるため、黒海艦隊司令官M・P・サーブリンは全艦船港湾および要塞ウクライナ国旗掲揚すべしとする指令発した一方ボリシェヴィキ黒海艦隊ノヴォロシースクへの撤収命じたその後黒海艦隊赤軍部隊は各戦線壊滅した4月25日には、ボリシェヴィキは「革命の旗を降ろしてならない」とする声明発表した4月29日15時00分、サーブリン艦隊司令官は「ウクライナ黒海艦隊指揮着任する」という信号司令部艦ゲオルギー・ポベドノーセツから発信した16時00分には、サーブリン司令官は「艦隊ウクライナ国旗掲揚せよ」とする命令をゲオルギー・ポベドノーセツのラジオステーションから発信した。そして、キエフ中央ラーダへ「本日セヴァストーポリ要塞およびセヴァストーポリにあった艦隊は、ウクライナ国旗掲揚した。艦隊指揮にサーブリン提督着手した」という電報打った。これを受けて黒海艦隊艦船大半ウクライナ人民共和国の旗を掲げた。 しかし、ここで艦隊ウクライナ側へ渡ることに関して同盟国のあいだで問題生じたドイツ司令部は、ウクライナ中央ラーダクリミア放棄するという、ドイツおよびオーストリアハンガリーとのあいだに交わされ和平署名付帯条件立脚しクリミアからウクライナ人民共和国軍撤収させる決定をした。その結果P・F・ボルボチャーン大佐麾下クリミア集団半島から撤退余儀なくされた。ドイツ軍は、単独セヴァストーポリ攻略開始した。 同じ日、キエフではヘーチマンの政変起こって中央ラーダ政府崩壊しウクライナ人民共和国変わってウクライナ国成立したドイツウクライナ国同盟したため、ウクライナ人民共和国への所属宣言した黒海艦隊はすぐに「敵」となることになってしまった。セヴァストーポリ巡洋戦艦ヤウズ・スルタン・セリム防護巡洋艦ハミディイェ砲撃晒され陸上部隊によって占拠された。戦列艦ヴォーリャ、スヴォボードナヤ・ロシアなど一部黒海艦隊艦船はサーブリン司令官とともにノヴォロシースクへの脱出成功したが、残り湾内自沈するか、埠頭乗員によって武装解除、あるいは破壊された。 ゲオルギー・ポベドノーセツも、セヴァストーポリに留まった。新しセヴァストーポリ艦隊司令官にはオストロフラードシクィイ海軍大佐選任された。4月30日彼はV・Ye・クロチュコーウシクィイ海軍少将S・I・ブルレーイ海軍少将とともに、ゲオルギー・ポベドノーセツ上にウクライナ黒海艦隊司令部組織した。 ところが、5月1日から2日にかけて、ゲオルギー・ポベドノーセツはドイツ帝国海軍接収された。ドイツ軍はゲオルギー・ポベドノーセツに間借りして、そこに司令部開設した

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ブレスト=リトフスク条約

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西部戦線 (第一次世界大戦)」の記事における「ブレスト=リトフスク条約」の解説

中央同盟国は、3月3日のブレスト=リトフスク条約でボリシェヴィキ政府講和したことで、東部戦線から西部戦線部隊転進させることができるようになった西部戦線送り込まれる東部戦線部隊と、新しく連合国軍に加わるアメリカ軍とのバランスによって、戦争最終結果西部戦線決定されることになった中央同盟国は、もはやこれ以上長期化する戦争には勝利することはできないこと到着するアメリカ軍はますます多くなるのが確実なことを悟っていた。その中で東部戦線からの増援および新し歩兵戦術使用により、西部戦線攻勢実施し決定的な勝利を得ることに大きな望み賭けていた。ルーデンドルフ米軍存在致命的となる前、1918年春に攻勢をかけて英仏軍を休戦追い込もう考えた。 皮肉なことではあるが、講和によって中央同盟国占領した領土小さかったなら、ドイツ軍はより多く兵力西部戦線投入でき、戦争の結末違っていたかもしれないドイツ軍東部戦線44師団西部へ移動させた。これによって連合国側合計173師団に対してドイツ軍192師団数え優勢確保したドイツ軍兵士浸透戦術訓練を受け、攻勢準備着々と整えていたのに対して連合国未だに士気統一指揮権巡って問題発生していた。 ルーデンドルフ戦略は、英仏両軍中間攻勢をかけ、イギリス軍を北に圧迫してドーバー海峡へと追いやることを目標としていた。これまで得られなかったような圧倒的な勝利を得るために、浸透戦術徹底航空機活用詳細な砲撃計画毒ガス大規模な使用図られた。 またドイツ軍1917年秋にイタリア戦線カポレット東部戦線リガ突破作戦行った。これらの作戦来たるべき西部大攻勢予行演習兼ねたものであり、リガ戦の司令官フーチェルと参謀長ザウバーツヴァイク、カポレット戦の司令官ベロウ参謀長デルメンジンゲンは西部戦線配置換えのうえ第17軍第18軍司令官および参謀長となった

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