平和についての布告
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/29 04:15 UTC 版)
10月26日、第二回全ロシア・ソヴィエト大会は、臨時労農政府の平和についての布告を採択した。布告は、交戦国の政府と国民に対して無併合・無賠償の民主主義的講和を提議し、秘密外交の廃止とこれまでの秘密条約の公表を宣言した。 連合国政府は臨時労農政府の提案を単独不講和協定にたいする違反と見なし、無視した。臨時労農政府を正当な政府として承認することもなかった。一方、ドイツ政府は休戦交渉の開始に同意した。12月2日に休戦条約が締結され、つづいて12月9日からブレスト=リトフスクにおいて講和交渉が開始された。 ドイツ側は占領地域からの撤兵を拒否し、賠償を要求した。それを受け入れるかどうか、ボリシェヴィキ内で論争が起こった。レーニンは1918年1月7日に「併合主義的単独講和の即時締結の問題についてのテーゼ」を書き、翌日の会議で読み上げた。ドイツの条件を受け入れることを主張したものであった。一方、モスクワ州ビューローを代表するブハーリンは講和交渉を中止して革命戦争に訴えることを主張した。トロツキーは、戦争を中止し、軍隊の復員を行うが、講和には調印しない、という立場をとった。1月11日の党中央委員会、および翌日の左翼エスエルとの合同中央委員会は、トロツキーの案を可決した。 ドイツ軍は2月18日から全面的な攻勢を開始した。2月23日のボリシェヴィキの中央委員会ではレーニンの主張が勝利した。3月3日、臨時労農政府はさらに悪化した条件での講和条約に調印した。
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