ブレスト‐リトフスク【Brest Litovsk/Брэст-Літоўск】
読み方:ぶれすとりとふすく
⇒ブレスト
ブレスト (ベラルーシ)
(ブレスト=リトフスク から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/01/07 10:00 UTC 版)
ブレスト(ベラルーシ語: Брэст(ブレスト)、古ルーシ語およびウクライナ語: Берестя(ベレスチャ)、Берасьце (Bieraście)、Бярэсьце (Biareście))は、ベラルーシ西部の都市。ポーランドとの国境近くに位置する。ブク川(西ブーフ川)とMukhavets川との合流点にある。かつてリトアニア大公国領であった際に、ブレスト=リトフスク(Brest-Litovsk)(リトアニアのブレスト)とも呼ばれた。人口は約32万人。
- ^ Оперативные данные статистики БелСтат Archived 2014年4月3日, at the Wayback Machine.
- ^ 独・ソ、ポーランド分割で一致(『東京日日新聞』昭和14年9月20日夕刊)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p363 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
- ^ 世界の車窓からHPNo.7677 2008年9月23日(火曜日)放送
- 1 ブレスト (ベラルーシ)とは
- 2 ブレスト (ベラルーシ)の概要
- 3 名称
- 4 姉妹都市
ブレスト=リトフスク
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 15:37 UTC 版)
「アドリフ・ヨッフェ」の記事における「ブレスト=リトフスク」の解説
1917年11月30日から1918年1月まで、ヨッフェはドイツとの休戦交渉のためにブレスト=リトフスクに派遣されたソビエト代表団の団長であった。1917年12月22日、ヨッフェは平和条約に向けてのボリシェヴィキ側の前提条件として、下記の項目を告知した。 戦争で得られた領土を強制的に併合しない 戦争で奪われた国家の独立を回復する 戦前の民族集団の独立性は、独立問題を決定する国民投票により認められるべき 多文化地域は可能な限り文化的に独立させ独自の法によって統治されるべき 無賠償。個人の損害は、国際基金により補償されるべき 植民地問題は1~4条に従い解決されるべき ヨッフェは1917年12月2日、中央同盟国との休戦協定に署名したにもかかわらず、翌1918年2月にトロツキーが恒久的講和条約を拒否すると、彼を支持した。一旦、ボリシェヴィキ中央委員会が1918年2月23日、ブレスト=リトフスク条約への署名を決定すると、ヨッフェはソビエト代表団の一顧問の地位にとどまることで抗議した。 1918年3月6日から3月8日の第7回ボリシェヴィキ臨時党大会において、ヨッフェは中央委員に再選出されたが、唯の委員候補(投票権なし)であった。3月末にソビエト政府がモスクワに移転したとき、彼はペトログラードに残り、そして4月に駐独ソビエト全権代表(大使)に任命されるまで、彼は中央委員会ペトログラード局のメンバーとして働いた。1918年8月27日、彼は独ソ補足条約に署名した。 1918年11月6日、ドイツの敗戦とドイツ革命勃発の文字通り数日前、ヨッフェを長とするベルリンのソビエト代表部は、ドイツにおける共産党の蜂起を準備した廉で国外追放された。
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