ウクライナの講和
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/11 15:41 UTC 版)
「ブレスト=リトフスク条約」の記事における「ウクライナの講和」の解説
トロツキーらは、ウクライナと中央同盟国との交渉の妨害を図った。しかし、ドイツ軍の武力を必要とするウクライナとウクライナの穀物を必要とする中央同盟国の利害はまったく一致しており、ロシアの介入する余地はなかった。1918年2月9日、中央ラーダ代表団は中央同盟国との講和条約となる「ブレスト=リトフスク条約」を結んだ。また、独墺軍が中央ラーダ軍とともに反ボリシェヴィキ戦線を張ることで一致を見た。これは第一次世界大戦で結ばれた最初の講和条約となり、またウクライナにとっては初めて自国の独立が国際的に認められたことになった。ウクライナは、中央同盟国の軍事協力の見返りに、100万トンの穀物の提供を約束したため、パンの講和とも呼ばれた。 これを受け、2月10日にはロシア側代表団のトロツキーは交渉の一方的な打ち切りを宣言した。このとき、ボリシェヴィキ政権は、ロシア革命に賛同するヨーロッパの労働者たちが決起することを期待していた。また、この時点でボリシェヴィキはキエフを含む中部ウクライナと東ウクライナの大半を手中に収めており、まったく油断していたといえる。ウクライナと中央同盟国との講和に驚いたレーニンは慌ててウクライナへの懐柔策を採ったが、時すでに遅かった。 中央同盟国側は、ウクライナとの講和とロシアとの交渉決裂とに応じて2月18日にロシアとの休戦を破棄し、ウクライナ軍と合同して赤軍占領地へ攻め上った。一方、かねてより中央同盟国との和睦を主張していた赤軍最高総司令官ニコライ・クルィレーンコは、2月19日には黒海艦隊の司令部艦ゲオルギー・ポベドノーセツより全軍に対しただちに戦闘をやめてドイツ軍との和平交渉に入るよう命令する無線電報を発信した。 一方、合同軍は続く2週間のあいだにウクライナを奪還、さらにバルト海沿岸も占領した。ドイツ艦隊はフィンランド湾を目指し、そのため赤色バルト艦隊は氷洋巡航を強行して艦船をクロンシュタットに退避させなければならなかった。戦術が稚拙で装備にも劣る赤軍は独墺軍の敵ではなく、いまやそれはペトログラードに迫りつつあった。ドイツやオーストリア=ハンガリーの労働者たちへの期待も潰え、ボリシェヴィキ政権はさらに悪い条件での合意を余儀なくされた。
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