クロンシュタット【Kronshtadt/Кронштадт】
読み方:くろんしゅたっと
ロシア連邦北西部、サンクトペテルブルグ市の区。市中心部の北西約30キロメートル、フィンランド湾奥にあるコトリン島を占める。1703年にピョートル1世がサンクトペテルブルグ防衛のために要塞を築き、バルチック艦隊の根拠地となった。十月革命の拠点の一つ。1921年、共産党政権に対する反乱が起こった。海岸部に砦や海堡(かいほう)が数多く残っており、1990年に「サンクトペテルブルグ歴史地区と関連建造物群」の名称で世界遺産(文化遺産)に登録された。
クロンシュタット【Kronstadt】
クロンシュタット
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/05/06 07:36 UTC 版)
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クロンシュタット(Кроншта́дт, Kronstadt)はサンクトペテルブルク中心から北西に約32km、フィンランド湾に浮かぶコトリン島に位置する都市。バルチック艦隊の軍港がある。
行政的には、島全体でサンクトペテルブルク市クロンシュタット区 (Кронштадтского района) をなす。区の人口は4万2999人(2021年)[1]。
1921年のクロンシュタットの反乱のほか、聖人クロンシュタットのイオアンで知られる。
歴史
ロシア帝国時代
大北方戦争のさなか、1703年、ロシア帝国軍はスウェーデン領であったコトリン島を占領。ピョートル大帝によって首都ペテルブルク防衛のための要塞が築かれ、1720年代にはバルチック艦隊の主力基地となった。
19世紀の半ばに、エドゥアルド・トドレベンによって大きく改築され、町は城壁で囲まれた。
クロンシュタットの反乱
20世紀初頭には革命運動が昂揚し、1905年の革命では、帝室に対する水兵たちの大きな反乱が起こった。
1921年3月7日、クロンシュタットの水兵たちが独裁化しつつあったボリシェヴィキ政権に対して、「全ての権力をソヴィエトヘ!」というスローガンの下、自由選挙の保障、言論・出版の自由、政治犯の釈放、個人の財産の所有権などを要求して蜂起した。当時、ロシア共産党政治局員の一人でペトログラード・ソヴィエト議長だったジノヴィエフは、ただちにクロンシュタットに軍を送り、トゥハチェフスキーの指揮の下でこの蜂起を鎮圧した。これは、ボリシェヴィキ政権のソビエト国内で、最後にして最大規模の反政府反乱であった。
(「クロンシュタット蜂起」鎮圧の指揮を執ったのはトロツキーとする俗説があるが誤り。当時トロツキーは南部戦線で指揮を執っていた。しかし、トロツキーは後年、スターリンによる追放後も「クロンシュタット蜂起はなんらの展望も持たない反革命蜂起であった。私はソヴィエト政府による鎮圧を擁護するし、その意味においてこの鎮圧の全責任を負う」と述べている。)
脚注
- ^ “population hub”. 2023年5月6日閲覧。
外部リンク
- Kronstadt web site(ロシア語)
クロンシュタット
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 11:59 UTC 版)
「クロンシュタット級重巡洋艦」の記事における「クロンシュタット」の解説
ネームシップである「クロンシュタット」は、基本設計が終了したばかりの1938年11月にレニングラードのアドミラルティ造船所で起工したが、独ソ戦勃発後の1939年11月30日に進捗率10.6%で建造中止となった。1941年に始まったレニングラード包囲戦では、部材や資材の一部が転用された。戦後、航空母艦に設計を変更して就役させる計画もあったが、1947年3月24日に解体が決定し、姿を消した。
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