大北方戦争とは? わかりやすく解説

大北方戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/13 16:33 UTC 版)

大北方戦争(だいほっぽうせんそう、スウェーデン語: Stora nordiska krigetロシア語: Великая Северная войнаポーランド語: III wojna północnaデンマーク語: Den Store Nordiske Krigドイツ語: Großer Nordischer Krieg英語: Great Northern War1700年 - 1721年)は、スウェーデン反スウェーデン同盟北方同盟)を結成した諸国とがスウェーデンの覇権をめぐって争った戦争であり、近世の北欧中欧、そして東欧における重要な画期となった。


注釈

  1. ^ それぞれの国での飢餓、災害、過労による死:数万~数十万(ロシアはスウェーデンより多いと考えられる。1709年から1719年のデンマーク人の死者にはこれも含む)
  2. ^ a b c d スウェーデン王カール12世、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン公フレデリク4世、ポーランド王兼ザクセン選帝侯アウグスト2世、そしてデンマーク=ノルウェー王フレデリク4世は全員デンマーク=ノルウェー王フレデリク3世の孫にあたる。
  3. ^ 1670年代(土肥 (1992), p. 6)

出典

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大北方戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/09 08:22 UTC 版)

デンマークの歴史」の記事における「大北方戦争」の解説

1699年フレゼリク4世クリスチャン5世の後を継いだ。翌1700年始まった大北方戦争では、ロシアポーランドと共に反スウェーデン同盟側として参加したが、得るところもなく、ロシアバルト海覇権握られてしまった。スウェーデンからの失地回復望み永遠に失われてしまい、せいぜいエーアソン海峡を通るスウェーデン船籍商船にあった免税特権廃止され程度であった。大北方戦争に費やした国防費国王威信を保つために必要とされコペンハーゲン近郊のフレデンスボー(英語版)に建設されたフレデンスボー城(英語版)といった宮廷費加えて穀物価格下落農村若年労働者減少起因した農業停滞により財政難陥ったフレゼリク4世ドイツから伝わったルター派一宗派である敬虔主義傾倒したことから1707年救貧令を発布また、王立学校設立し子供就学させるノルウェー人牧師エーイェゼグリーンランドへの布教後押ししグリーンランドを再植民地化した。

※この「大北方戦争」の解説は、「デンマークの歴史」の解説の一部です。
「大北方戦争」を含む「デンマークの歴史」の記事については、「デンマークの歴史」の概要を参照ください。


大北方戦争

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ピョートル1世 (ロシア皇帝)」の記事における「大北方戦争」の解説

詳細は「大北方戦争」を参照 1699年ピョートルポーランド王アウグスト2世デンマーク=ノルウェーフレデリク4世反スウェーデン同盟北方同盟)を結び、バルト海への出口求めた1700年に大北方戦争が始まると、コンスタンティノープル条約締結露土戦争終結確認した後にスウェーデン交戦状態に入るが、ナルヴァの戦いカール12世率い少数精鋭敵軍惨敗した。しかし軍備増強努めポーランドとの戦争忙殺されスウェーデン軍の隙をつき、1706年頃にはリヴォニア地方にまで進軍した1708年カール12世ロシア領に侵攻しウクライナ・コサック首長マゼーパ連合したが、1709年6月27日ポルタヴァの戦いピョートル冬将軍焦土作戦スウェーデン軍弱体化させ大敗させた。カール12世トルコ逃げたため故国戻れず、ピョートルこの機に乗じて親露派アウグスト2世ポーランド王位に復帰させ、カレリアリヴォニア征服した一方イスタンブールにいるカール12世アフメト3世説き伏せ1711年トルコロシアとの交戦踏み切らせた。ピョートル率いロシア軍プルト川河畔オスマン軍包囲され敗北プルート川の戦い1711年7月18日 - 7月21日)、カール12世帰還アゾフなど1696年トルコから奪った領土の返還承認させられた(プルト条約)。 しかし翌1712年からロシア攻勢転じハンゲの海戦歴史的勝利をおさめ、ロシア海軍成長見せつける同時にバルト海覇権獲得したロシア勢い乗じてスウェーデンドイツ領を侵略反スウェーデン同盟加盟国増やしてスウェーデン追い込み1716年には姪エカチェリーナ・イヴァノヴナ北ドイツメクレンブルク=シュヴェリーン公カール・レオポルトと結婚させ、同盟結んでスウェーデン侵攻拠点手に入れバルト海への影響力増していった。この事態イギリスはじめとする同盟諸国警戒させ、ピョートル圧力屈してポーランドから撤退した1718年にはスウェーデン休戦交渉入ったが、カール12世急死で親英派の妹ウルリカ王位を継ぐ交渉打ち切られた。バルト海沿岸地域我が物としたピョートルはさらにスウェーデン圧迫しフィンランド、そしてスウェーデン本土直接攻撃仕掛けたロシア軍スウェーデン本土へ攻撃阻止されたものの、これがスウェーデンへの決定的な圧力となったスウェーデン1719年から1720年にかけてロシア以外の交戦国ストックホルム条約締結し講和その内イギリス同盟条約締結しイギリスバルト海艦隊派遣して圧力をかけたが、ロシア1720年7月のグレンガム島沖の海戦英語版)でスウェーデン勝利した。そして1721年イギリス調停ニスタット条約結ばれスウェーデンロシアバルト海覇権争った大北方戦争はロシア勝利終わったロシアフィンランド除き占領したバルト海沿岸地域のほとんどを獲得トルコともパッサロヴィッツ条約結んで決着をつけた。 この時点ロシアポーランドにも影響力及ぼし始めていた。ポーランド国内混乱乗じて調停者としてポーランド議会アウグスト2世対す優位示した。またポーランド獲得するはずだったリヴォニア奪いバルト地方にも影響力拡大した。これらの事は、ロシアポーランド・リトアニア共和国対す保護国化への端緒となったウクライナ・コサックヘーチマン国家においてもピョートルは、スウェーデン連合した首長マゼーパ反乱鎮圧した以後コサック自治権大きく削減されロシアの支配強化されることとなった一方で首長名代であるダヌィーロ・アポーストル重用して、ヘーチマン国家ロシアへ求心力高める事にも成功した。 また1722年にはグルジア・カルトリ王国の王ヴァフタング6世同盟を結びサファヴィー朝ペルシア帝国北から攻めロシア・ペルシャ戦争)、翌1723年カスピ海周辺領土領有認めさせたサンクトペテルブルク条約調印共同歩調取っていたオスマン帝国とも翌1724年コンスタンティノープル条約締結して中央アジア影響力及ぼそうとした。1725年には20余りヨーロッパ主要国外交官常駐させる至った

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大北方戦争

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自由の時代」の記事における「大北方戦争」の解説

詳細は「大北方戦争」を参照 スウェーデンでは、1697年カール11世崩御すると、その息子カール12世がわずか15歳即位した若年のため5人の摂政付けられたが、摂政影響力に不満を感じた議会カール12世親政求めカール12世はそれに応じたスウェーデン大国化に反発するデンマーク=ノルウェーロシア・ツァーリ国ザクセン選帝侯領1699年北方同盟結成1700年には大北方戦争が始まったカール12世は自ら前線指揮執り開戦わずか半年後にトラヴェンタール条約デンマーク=ノルウェーを、1706年にはアルトランシュテット条約ザクセン選帝侯領屈服させるなど初期の戦い有利に進めていた。しかし、1718年にフレドリクスハルド要塞包囲戦カール12世流れ弾当たって戦死すると、スウェーデン国内ではその後継者争い北方同盟側では領土分配巡って内部対立起こったこともあり、和平工作進められた。 1719年2月20日1720年2月1日ストックホルム条約により、ハノーファーブレーメンフェルデンを、プロイセン王国シュチェチンを、それぞれ手に入れた1720年7月3日フレデリクスボー条約により、デンマークリューゲン島の他、ペーネ川以北ポメラニア北部ヴィスマールスウェーデン返還する代わりにスウェーデン60リクスダラーの支払いホルシュタイン=ゴットルプ家への支援打ち切りエーレスンド海峡通行税免除特権返上約束したロシアとの和平1721年ニスタット条約成立しスウェーデンロシアイングリアエストニアリヴォニアフィンランドケックスホルム県およびヴィボルグ城割譲し200リクスダラーの賠償金支払代わりにヴィボルグ以西カキサルミ以北フィンランド回復した

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