大北方戦争中の領域の変遷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 22:43 UTC 版)
「スウェーデン領ポメラニア」の記事における「大北方戦争中の領域の変遷」の解説
「ポメラニア戦役 (1715年-1716年)」、「フレデリクスボー条約」、および「ストックホルム条約」も参照 大北方戦争は最初の数年間、ポメラニアに影響を及ぼさなかった。1714年にデンマーク、ロシアとポーランド各国の軍が国境を越えた後でさえ、プロイセンは侵攻に転じるまでの間、当初はためらい勝ちな仲裁国として振る舞っていたのである。スウェーデン国王カール12世はシュトラールズントの戦いにおいて1714年11月から1715年12月の一年間、ルンドに退避するまでポメラニアの防戦を指揮した。デンマーク軍はリューゲン島並びに西ポメラニアのペーネ川以北(後にノイフォアポンメルン(英語版)として知られるようになるデンマークの旧領、リューゲン公領(英語版))を奪取した一方、後にアルトフォアポンメルン(英語版)と呼ばれるその川の以南はプロイセン軍(英語版)が攻略した。 デンマーク領ポメラニアは1716年4月から、シュトラールズントに置かれた五名の構成員による委員会が統治することになる。スウェーデンの統治とは対照的に、同委員会は司法と行政の権利をどちらも行使した。デンマークはその際、同国が1712年から1715年にかけて占領したブレーメン=フェルデン公領(英語版)での経験に基づいて官庁を設置し、デンマーク=ノルウェー国王フレゼリク4世の治世において絶対王政を敷く。この委員会は代官(英語版)のフィリップ・ユリウス・フォン・プラーテン(ドイツ語版)(後にエマヌエル・フリードリヒ・フォン・ケーチャウ(ドイツ語版))、顧問のハインリヒ・ベルンハルト・フォン・ケンプファーベック、J・B・ホーエンミューレとペーター・フォン・ティーネン並びに長官秘書のアウグスト・J・フォン・ヨーンが構成していた。1720年にケンプファーベックが没すると、アンドレアス・ボーイェが後任となっている。 1720年6月3日のフレゼリクスボー条約によって、デンマークは占領したスウェーデン領の返還を義務付けられたが、同年1月21のストックホルム条約でプロイセンはシュテッティーンを含む征服地の保持を認められた。これによってスウェーデンは、1648年に獲得したオーダー川以東と西ポメラニアのペーネ川以南、そしてヴォリン島とウーゼドム島をプロイセンに割譲したのである。 デンマークは1721年1月17日、そのポメラニアの領土をスウェーデンに返還した。デンマーク時代の統治記録はコペンハーゲンに運ばれており、デンマーク国立古文書館(英語版)で閲覧できる。
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