大北方戦争の影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/20 06:13 UTC 版)
「コンスタンティノープル条約 (1700年)」の記事における「大北方戦争の影響」の解説
1710年の条約の終了とその交代劇は、大北方戦争の展開が深く関わっており、唐突に条約の終了が始まった。ピョートル1世はスウェーデン・バルト帝国に対して、ザクセン選帝侯兼ポーランド国王アウグスト2世及びデンマーク=ノルウェー国王フレデリク4世と北方同盟を組んで、自分がイングリア攻撃を担当し、アウグスト2世がリヴォニアを攻撃、フレデリク4世がスウェーデンの同盟国のホルシュタイン=ゴットルプを攻撃する役割を担当するという対抗策を計画していた。 しかし、ピョートル1世の先制攻撃策はロシアとオスマン帝国の和平が締結された後に攻撃が始まらないといけないという条件が付いていた。結果、ロシアの攻撃が予定していた時期より遅れ、ピョートル1世の軍隊がモスクワを出発して行進していた頃、デンマークは既にスウェーデンに敗北してトラヴェンタール条約を結んで北方同盟から離脱していた。イングリアでロシアの攻撃を迎え撃つことが出来たスウェーデンはナルヴァの戦いで約半分ほどの兵力でロシア軍に壊滅的な打撃を与える程大変成功裏にロシア軍を撃退した。 オスマン帝国は、9年後の1709年にポルタヴァの戦いでピョートル1世によって敗北したスウェーデン国王カール12世がオスマン帝国領ベンデルに残ったわずかなスウェーデン兵と共に逃れ、野営を張った時に戦争に関わるようになった。これは、間に別の対立につながったスルタン・アフメト3世(ムスタファ2世の弟)とツァーリ間の別の対立を招き、その対立はオスマン帝国の宣戦とロシアのプルート川の戦いで最高潮に達した。その結果、コンスタンティノープル条約が1711年のプルト条約に取って代わられ、アゾフをスルタンに返還し、タガンログをはじめ国境付近の要塞の全てを破却し、アドリアノープル条約でロシアとオスマン帝国間の和平が25年間続くように修正された。この後スルタンがピョートル1世に3回も宣戦したにも拘らず、プルト条約とアドリアノープル条約の間に実際の戦闘は発生せず、プルト条約が効果的に大北方戦争でのオスマン帝国の介入を終了させた。
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